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デューラー『四人の使徒』とは|1526年の晩年作と宗教改革の時代を解説

二枚の細長い板に、四人の人物がほぼ等身大で立っています。左にはヨハネとペテロ、右にはマルコとパウロ。背景は暗く、建物や風景は描かれません。視線は自然に、人物の顔、重い衣服、手にした書物、そして画面下の文字へ向かいます。

アルブレヒト・デューラーが1526年に制作した『四人の使徒』は、55歳を迎えた画家の最後期を代表する板絵です。宗教改革が進むニュルンベルクで描かれ、完成後は教会ではなく市参事会へ贈られました。聖人像でありながら、都市の政治を担う人々に聖書の言葉を突きつけるような構成を持つ点に、この作品の特異さがあります。

デューラー『四人の使徒』。左にヨハネとペテロ、右にマルコとパウロを描いた1526年の二枚の板絵
《四人の使徒》/アルブレヒト・デューラー/1526年/油彩・リンデン材の板/左 212.8×76.2cm、右 212.4×76.3cm/アルテ・ピナコテーク

『四人の使徒』は二枚一組の大作

『四人の使徒』は、左板の「福音書記者ヨハネと聖ペテロ」、右板の「福音書記者マルコと聖パウロ」から成る二枚一組の作品です。アルテ・ピナコテークの所蔵記録では、左板が縦212.8cm、横76.2cm、右板が縦212.4cm、横76.3cm。いずれもリンデン材の板に描かれています。人物は観客とほぼ同じ高さの空間に立ち、祭壇画の翼を思わせる縦長の形式を取りながら、中央に主画面を必要としない独立した二枚として構想されています。

通称は『四人の使徒』ですが、厳密には四人全員が十二使徒ではありません。ヨハネ、ペテロ、パウロは使徒ですが、マルコは福音書記者です。この四人が選ばれた理由は、個々の聖人の伝記を並べるためではなく、聖書を読み、伝え、守る人物像を二枚の画面に組み立てるためだったと考える方が作品の構造に合っています。

左板のヨハネとペテロ——開かれた書物を読む二人

左板の前景を占めるのはヨハネです。大きな赤い衣をまとい、両手で開いた書物を支えています。顔は若く、額は明るく照らされ、視線はページに落ちています。身体はほぼ正面を向きながら、頭だけを静かに傾ける姿勢です。赤い衣の広い面積と深い襞が、人物を細身に見せるのではなく、ひとつの大きな量塊として画面に固定しています。

ヨハネの背後には、白髪のペテロが立ちます。身体の大部分はヨハネに隠れ、頭と手、そして伝統的な持物である鍵が確認できます。ペテロも同じ開かれた書物へ視線を向けています。二人が別々の本を持つのではなく、一冊を共有して読む配置は、画面の中心を人物の身分や威厳から「読む行為」へ移しています。

開かれたページはヨハネ福音書の冒頭を示すものとして読まれてきました。宗教改革期には、聖書そのものの言葉へ立ち返る姿勢が大きな意味を持ちます。ただし、ペテロをローマ教皇制、ヨハネを宗教改革の勝利と機械的に置き換えると、作品の複雑さが失われます。デューラーはペテロを排除せず、ヨハネと同じ書物へ顔を寄せる人物として描いています。

右板のマルコとパウロ——緊張した顔と閉じた書物

右板ではパウロが前面に立ちます。白い外衣が画面の大半を占め、左手には厚い閉じた書物、右手には長い剣を持っています。剣はパウロの殉教を示す伝統的な持物です。顔は横向きに近い角度からこちらへ鋭い視線を送り、長い白髭、骨ばった鼻、深く刻まれた目元が強い緊張を生みます。

パウロの後ろから顔を出すマルコは、巻物を手にし、目を大きく開いて横をうかがうような表情を見せます。眉間や口元にも力が入り、左板の静かな読書とは異なる動きがあります。二枚を並べると、左は読むこと、右は警戒し守ることへ比重が移り、同じ聖書の言葉をめぐる二つの態度が対置されます。

デューラーは細部を描き込む北方ルネサンスの画家として知られますが、この晩年作では背景の情報をほとんど消し、人物を大きく単純化しています。衣服の襞、髪や髭、皮膚の質感は精密でありながら、全体の構成はきわめて簡潔です。構成には、デューラーが1505〜07年のヴェネツィア滞在中に見たと考えられるジョヴァンニ・ベッリーニのフラーリ祭壇画からの刺激も指摘されています。イタリアで得た記念碑的な人物表現と、北方で培った細密な観察が同じ画面に収まっています。デューラーの生涯と画業については「デューラーとは」でも紹介しています。

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画面下の碑文は何を語っているのか

二枚の下部にはドイツ語の長い碑文があります。装飾的な添え書きではありません。冒頭では、危険な時代に世俗の統治者が人間の誤った教えを神の言葉と取り違えないよう警告し、その後に四つの聖書箇所を掲げます。文字はニュルンベルクの書記・書家ヨハン・ノイドルファーが記したことが、本人の後年の記録から知られています。

引用箇所は、ペテロの手紙第二2章1〜3節、ヨハネの手紙第一4章1〜3節、テモテへの手紙第二3章1〜7節、マルコによる福音書12章38〜40節です。内容は、偽預言者や偽教師への警戒、教えを吟味すること、終末的な混乱の中で現れる高慢や不敬虔、見せかけの敬虔さへの批判などで構成されています。四人の名前と書物を描くだけでなく、その人物に結びつく聖書の言葉を画面そのものへ書き込んだため、絵を見る行為と文章を読む行為が切り離せません。

碑文に用いられた聖書文はルター訳の新約聖書と関係します。1522年に刊行されたドイツ語訳新約聖書は、宗教改革期の読書文化を大きく変えました。『四人の使徒』でも、聖職者の象徴や教会建築を前景に出すのではなく、開かれた書物と聖書本文が作品の中心に置かれています。

なぜニュルンベルク市へ贈ったのか

デューラーは1526年、この二枚を故郷ニュルンベルクの市参事会へ贈りました。市の公的な美術コレクションは、この寄贈を重要な出発点のひとつとして位置づけています。作品はニュルンベルク市庁舎に置かれ、宗教施設の祭壇ではなく、都市を統治する場で見られる絵になりました。

寄贈先が市参事会だったことは、碑文の宛先とも重なります。そこでは「世俗の統治者」が誤った教えに警戒するよう促されています。宗教改革期のニュルンベルクでは、市政と宗教政策が密接に結びついていました。1525年には宗教改革が公式に導入され、その翌年に『四人の使徒』が贈られています。市への寄贈は、信仰についての個人的な告白だけで完結せず、政治を担う人々へ向けた公的な発言として機能しました。

同時に、寄贈を政治宣伝だけへ狭めるのも適切ではありません。デューラーは市と長い関係を持ち、市庁舎の装飾にも関与していました。自身の代表作を故郷の公共空間へ残す行為には、都市への献呈、画家としての記念、宗教的な警告が重なっています。

デューラーとルター——支持と信仰を同じ言葉にしない

デューラーがマルティン・ルターに強い関心を持っていたことは、書簡やネーデルラント旅行時の日記から知られています。ルターの身を案じ、その活動に期待を寄せた記述も残ります。また『四人の使徒』の碑文にはルター訳聖書が用いられ、ヨハネとパウロという宗教改革思想で重視された人物が前景に置かれています。

それでも、デューラーを「ルター派の宣伝画家」と呼び、ルターの思想を広める目的だけでこの作品を制作したと断定するのは行き過ぎです。研究では、作品がどの程度デューラー自身のルター主義を表すのか、宗教改革内部の急進化への警戒をどの程度含むのかについて議論が続いてきました。本人のルターへの関心、ニュルンベルク市の宗教改革、デューラー個人の信仰は関係しますが、同一ではありません。

1520年代のニュルンベルクでは、宗教改革は抽象的な思想ではなく、市の制度、礼拝、芸術家の仕事に直接影響する現実でした。従来の祭壇画需要が変化するなかで、デューラーは聖人を描きながらも、礼拝のための祭壇画とは異なる公共的な形式を選びました。北方ルネサンスと宗教改革の関係を広くたどる場合は、北方ルネサンスの画家と時代背景もあわせて読むと位置づけを確認できます。

四人は「四気質」を表すのか

『四人の使徒』には、四人を古代以来の「四気質」と結びつける有名な解釈があります。血液・黄胆汁・粘液・黒胆汁という四体液の考え方に基づき、人の性格を多血質、胆汁質、粘液質、憂鬱質に分ける伝統です。デューラーと同時代に近いノイドルファーは、四人の人物が四つの気質を示すと記しました。現在のアルテ・ピナコテークも、人物の生理的・性格的な造形が四気質に基づくと説明しています。

現代の解説では、ヨハネを多血質、ペテロを粘液質、マルコを胆汁質、パウロを憂鬱質と対応させる説明が広く見られます。ヨハネの落ち着いた若々しさ、老ペテロの静かな沈思、マルコの鋭く反応する表情、パウロの重く厳しい精神性を、それぞれの気質と結びつける読みです。

ただし、この対応表を作品名や制作契約のような確定資料として扱うことはできません。ノイドルファーの記録は四気質との関係を伝える重要な証言ですが、個々の人物をどの気質に対応させるか、また四気質を作品解釈の中心にどこまで置くかは研究史の中で議論されてきました。四気質は有力な伝統的解釈であり、画面に記された宗教的警告や聖書本文と並行して読む必要があります。

ニュルンベルクからミュンヘンへ——現在はアルテ・ピナコテーク所蔵

二枚の板絵はおよそ一世紀にわたりニュルンベルク市庁舎にありましたが、1627年、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世の強い要求を受けてミュンヘンへ移されました。ニュルンベルク側は原寸大の模写を制作して作品を残そうとし、その歴史的な模写は現在も市のデューラー受容を伝える資料になっています。

原作は現在、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク、バイエルン州立絵画コレクションに所蔵されています。左板「ヨハネとペテロ」の作品番号は545、右板「マルコとパウロ」は540です。ニュルンベルク市が自らのコレクションの始まりを語る際にも、この1526年の寄贈は象徴的な出来事として扱われています。

晩年のデューラーが人物と文字だけで組み立てた絵

デューラーは1528年に亡くなります。『四人の使徒』はその2年前に完成した最後期の主要作です。若い頃の作品に見られる複雑な物語背景や細密な小道具を減らし、四人の身体、四つの顔、数冊の書物、剣と鍵、そして碑文へ要素を絞っています。それでも内容は狭くなりません。人物の性格、聖書の権威、市政への警告、宗教改革期の緊張、画家自身の晩年の思索が二枚の板に重なっています。

ルネサンス美術をイタリアだけで捉えると、この作品の位置はつかみにくくなります。デューラーはヴェネツィアで得た大きな人物像の感覚を北方の細密描写と結びつけ、さらにドイツ語の聖書本文を絵画空間へ持ち込みました。ルネサンス美術全体の流れ、さらに時代をまたいで整理した西洋美術史の流れと比べると、1526年の『四人の使徒』がイタリア・ルネサンスの模倣ではなく、宗教改革期のドイツで成立した独自の到達点だったことが分かります。

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