ラファエロの『システィーナの聖母』は、画面下の二人の小さな天使だけが世界中で知られるようになった、少し不思議な名画です。しかし本来の作品は高さ約2.7mに及ぶ大祭壇画で、中央の聖母子、左の聖シクストゥス、右の聖バルバラ、そして下部の二人のプットーが一つの空間を作っています。
「システィーナ」という名前からシスティーナ礼拝堂を連想しがちですが、作品名はピアチェンツァのサン・シスト修道院教会に由来します。1512年、教皇ユリウス2世が同教会の祭壇画としてラファエロに注文しました。
『システィーナの聖母』とは|教皇ユリウス2世が注文した大祭壇画
ドレスデン国立美術館群(SKD)の資料によれば、教皇ユリウス2世は1512年夏、ピアチェンツァのサン・シスト修道院教会のためにラファエロへ祭壇画を依頼しました。作品は1512~1513年頃に完成したとされ、現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に所蔵されています。
左右の緑のカーテンが開き、その奥の雲の中から聖母マリアが幼子キリストを抱いてこちらへ進み出ています。左の聖シクストゥスは画面の外へ手を伸ばし、右の聖バルバラは下へ視線を落としています。中央の聖母子だけでなく、左右の二人の動きまで見ると、祭壇の前に立つ人と天上の世界がひと続きに感じられます。

中央の聖母子|なぜこちらへ歩いてくるように見えるのか
聖母マリアは玉座に腰かけるのではなく、雲の上を進みながら、まっすぐ鑑賞者の方へ近づいてくるように描かれています。足元が雲に隠れているため、地面を歩いているのか空中に浮かんでいるのかははっきりしません。その曖昧さが、別の世界からこちらへ現れたような感覚を生んでいます。
マリアは穏やかな表情を浮かべていますが、明るく微笑んでいるわけではありません。幼子キリストも母に甘える姿ではなく、正面を強く見ています。身体は寄り添っているのに、二人の視線は私たちの側へ向けられており、親密な母子像の中に張りつめた感じが残ります。
ラファエロがフィレンツェ時代に描いた『ヒワの聖母』や『草原の聖母』では、母子は風景の中で互いに視線を交わしていました。『システィーナの聖母』では、その親密さを残しながら、祭壇の前に立つ人々へ向かって聖母子が現れる構成へ変わっています。

左の聖シクストゥスは何をしている?|画面の外へ向けられた手
向かって左でひざまずく人物が聖シクストゥスです。作品が置かれたサン・シスト修道院教会の守護聖人であり、作品名の由来にもなっています。彼は聖母子を見上げながら右手を画面の外へ伸ばしています。
この身振りによって、絵の中だけで完結していたはずの天上世界が、祭壇の前にいる鑑賞者の空間へつながります。聖シクストゥスは聖母子を礼拝する人物であると同時に、画面の外にいる人々を聖母子へ取り次ぐ存在として働いています。

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右の聖バルバラ|なぜ下を向いているのか
向かって右でひざまずくのは聖バルバラです。聖シクストゥスが画面の外へ手を伸ばすのに対し、聖バルバラは視線を下へ向けています。この左右の違いが、画面の動きを一方向に偏らせず、中央の聖母子を安定させています。
さらに聖バルバラの視線は、画面下部の二人のプットーへ自然に導きます。上方の聖母子、左右の聖人、下部のプットーが視線と身振りでつながり、縦長の画面全体に一つの流れが生まれています。

有名な2人の天使は誰?|固有名を持つ天使ではなく「プットー」
画面下で頬杖をつく二人は、ミカエルやガブリエルのような固有名のある天使ではなく、ルネサンス美術にしばしば登場する幼児形のプットーです。日本では「二人の天使」と呼ばれることが多いものの、それぞれに名前が付けられた人物ではありません。
二人は欄干に肘を置き、上方の出来事を見上げています。聖人たちの厳かな祈りとは違い、どこか退屈そうにも、考え込んでいるようにも見える自然な仕草です。この親しみやすさが、大祭壇画の荘厳さをやわらげ、鑑賞者を絵の中へ引き込んでいます。
この二人は後世、作品全体から切り離されて複製され、版画、絵葉書、広告、日用品などさまざまな媒体に使われました。SKDも、ドレスデンへ作品が移った後、聖母と二人のプットーが世界的に有名になっていったことを紹介しています。

緑のカーテンと雲|祭壇の前に「出現」する仕掛け
左右の緑のカーテンは、舞台の幕が開くように左右へ寄せられています。そのため、鑑賞者は目の前で天上世界が開いた場面に立ち会っているように感じます。背景も青空ではなく雲で満たされ、よく見ると、その中に無数の幼い天使の顔が浮かんでいます。
画面の下には祭壇に近い欄干、上にはカーテンと雲があり、その中間から聖母子が前へ出てきます。背景の雲には無数の幼い天使の顔が浮かび、空白には見えません。建築を描かなくても、手前の欄干から雲の奥まで自然に距離を感じられる構成です。

サン・シストからドレスデンへ|1754年に作品の運命が変わった
『システィーナの聖母』は完成後、およそ250年間サン・シスト修道院教会に置かれていました。国際的な名声が高まるのは18世紀以降です。ザクセン選帝侯でポーランド王でもあったアウグスト3世が取得を進め、約2年の交渉を経て1754年にドレスデンのコレクションへ加わりました。
SKDは、このドレスデン移動を作品の「第二の、公的な段階」の始まりとして説明しています。宮廷コレクション、展示、複製文化の中で作品の知名度が高まり、特に下部の二人のプットーは原画から独立した図像のように広まっていきました。
ラファエロの聖母像の中で何が特別なのか
ラファエロは数多くの聖母子像を描きましたが、『システィーナの聖母』は小さな私的礼拝画とは性格が違います。高さ約2.7mの祭壇画で、聖母子が雲の中から礼拝者の前へ歩み出すように描かれています。
人物の配置は左右対称に近く安定していますが、視線はそれぞれ違う方向へ動きます。聖シクストゥスは画面の外を指し、聖バルバラは下を見て、二人のプットーは上を見上げ、聖母子はこちらを見ています。整った構図の中で視線が絶えず動くため、画面は静かすぎません。
ラファエロの聖母像をまとめて見たい方はラファエロの聖母子像7選へ。画家の生涯と作風はラファエロとは、主要作品全体はラファエロの代表作10選でも解説しています。
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