東洲斎写楽とは|骨まで見える”役者絵”を描いた謎の浮世絵師を、代表作からやさしく解説

暗い地から、白い顔がぬっと突き出してきます。眉根を寄せ、歯を食いしばり、両手を鉤のように開いて、こちらへ伸ばしてくる男。二百三十年あまり前に刷られたたった一枚の役者絵が、いまも、初めて見る人を一瞬たじろがせます。描いたのは東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)。寛政6年(1794)の夏に何の前ぶれもなくあらわれ、わずか十か月ほどのあいだに百四十点を超える版画を残して、ふっと姿を消した浮世絵師です。本名も、顔も、どこで生まれどこで死んだのかも、いまだに確定していません。

写楽といえば、「正体不明」「短命の天才」という言葉がついて回ります。けれど、その謎は入口にすぎません。本当に見るべきなのは、謎ではなく絵のほうです。写楽が描いたのは、芝居の役柄ではありません。その役を演じている、役者その人です。見栄えのよい理想像として整えるのではなく、化粧と衣装の下にある頬骨、顎、首、肩まで見てしまう。写楽は、役を美しく見せる仕事を軽々と飛び越え、役者という人間の姿に踏み込んでいます。

この記事では、東洲斎写楽とは何者だったのか、代表作『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』のどこがすごいのか、役者大首絵や黒雲母摺の特徴、なぜ十か月ほどで姿を消したのか、正体をめぐる斎藤十郎兵衛説、そして北斎国芳との違いまで、「謎」ではなく「絵そのもの」を中心にたどっていきます。

東洲斎写楽の基本情報

読み方とうしゅうさい しゃらく
活動時期江戸時代後期、寛政6年(1794)5月から翌寛政7年(1795)正月ごろまでの約10か月
確認される作品数140点を超える作品が知られる
主なジャンル役者絵、役者大首絵、相撲絵、武者絵
主な版元蔦屋重三郎
代表作『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』『初代市川男女蔵の奴一平』『市川鰕蔵の竹村定之進』など、第一期の役者大首絵
正体をめぐる有力説阿波徳島藩・蜂須賀家に仕えた能役者、斎藤十郎兵衛とする説
特徴役柄ではなく、役を演じている役者その人を、顔・首・肩・手・骨格まで使って描く

活動期間だけを見ると、写楽は非常に短い絵師です。けれど、その短さが伝説を生んだのではありません。短い期間に出された作品の質が高すぎるために、「これほどの腕が、なぜ修業のあともなく突然あらわれ、なぜすぐに消えたのか」という問いが、後から大きくなったのです。写楽を知るときは、まず謎よりも絵を見る。この順番が大切です。

写楽が描いたのは、役ではなく役者その人

写楽が描いたのは、芝居の役柄だけではありません。その役を演じている、役者その人です。普通の役者絵は、贔屓の役者をいい男に、いい女に見せます。今でいうブロマイドに近いものですから、それが自然でした。写楽は、そうしません。鷲鼻なら鷲鼻のまま、受け口なら受け口のまま、顎の張りも、頬のこけも、隠さずに描きます。

とりわけ女方を描いた絵に、それがよく出ます。舞台では美しい女に見える。けれど、化粧と衣装の下には、一人の男がいて、頬骨を出したまま、女を勤めている。写楽は、その隠しようのないところまで描いてしまいます。役を美しく飾る仕事を、軽々と飛び越えているのです。

それでいて、絵は下品になりません。むしろ、役者という一人の人間の手ざわりが、むき出しになります。写楽が見ているのは、舞台の上の登場人物だけではなく、その役を生きている生身の役者です。だからこそ、役者絵でありながら、一人の人間の像として、いまも見る人に迫ってくるのです。

視線は、役者の目から離れない

写楽の絵の前に立つと、自分がどこを見ているかに気づきます。役者の、目です。吊り上がった目、伏せた目、横へ流れる目。こちらの視線は、まずそこへ吸い寄せられてしまいます。写楽の描く目は、自然な写生というより、独特に記号化されています。蝶や蛾の翅にある眼状紋のように、一度見つけると、つい目が留まってしまうのです。

『八代目森田勘弥の駕籠舁鴬の治郎作』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『八代目森田勘弥の駕籠舁鴬の治郎作』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

手も、胴も、衣装も、見えてはいます。けれど、はっきりとは見ていません。視野の隅に、気配として置かれているだけです。写楽は、見せたいものと、添えるものを、はっきり分けています。顔を、とりわけ目を画面の中心に据え、残りはそのまわりに、息をひそめるように配する。だから写楽の役者は、こちらを見返しているようにも、こちらの意識をつかんで離さないようにも見えます。一枚の紙の上から、目だけが、生きて動いているように感じられるのです。

形に縛られず、本質だけを取り出す

写楽の人物は、寸法を測って描いた正確な写生ではありません。顔は大きく、手は小さく、関節の角度も、実際とは違います。けれど、下手なのではありません。むしろ逆です。写楽は、実際の形にいったん縛られることをやめ、形を崩しながら、その人物の本質だけを取り出しています。

『初代岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波と初代坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『初代岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波と初代坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

だから、おかしな寸法のはずなのに、絵はばらばらになりません。顔があって、首があって、肩があって、その先に手がある。すべてが一人の身体としてつながり、骨の上に肉が乗り、皮が覆い、奥に体温が通っています。誇張は、似せることの放棄ではありません。生身に届くための、近道なのです。

能面のように真に迫るリアリティ

写楽の顔は、細部まで描き込んだ写実的な肖像ではありません。目も口も単純化され、肌は白く、輪郭は強く、背景は暗い。与えられる情報は、驚くほど少ない。それなのに、生々しい。描き込んでリアルにするのではなく、最小限の線で、顔の奥の骨と気配だけを抜き出しているからです。

『初代松本米三郎の化粧坂の少将 実はしのぶ』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『初代松本米三郎の化粧坂の少将 実はしのぶ』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

その感じは、能面によく似ています。面そのものは、ほとんど動きません。けれど角度が変わり、光が差し、演者が首をわずかに傾けるだけで、同じ面が、悲しみにも、怒りにも、老いにも見えてきます。写楽の役者も同じです。口を大きく歪めて感情を説明するのではなく、目の向き、顎の角度、肩の力だけで、内側の張りを見せます。のちに写楽を能役者とみる説が何度もくり返されたのも、この面のような迫力が、確かに絵にあるからでしょう。

だから写楽は、誇張しているのに、戯画に落ちません。特徴を強め、顔を大きく描いているのに、笑いものにはならない。むしろ余計なものをそぎ落としたぶん、役者という一人の人間の芯が、むき出しになります。写楽のリアリティとは、「よく似ている」ことだけではありません。骨と気配にまで届いてしまっている、ということです。

代表作『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』の見方

もう一度、あの顔の前に立ってみます。背景はありません。物語の説明もありません。黒雲母摺の暗がりから、顔と両手だけが、こちらの空間へせり出してきます。寛政6年(1794)5月、河原崎座で上演された歌舞伎『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』の一場面です。三代目大谷鬼次が演じる江戸兵衛は、市川男女蔵が演じる奴一平の用金を奪おうと、四条河原で襲いかかります。写楽が選んだのは、その行為に踏み出す直前の一瞬です。

『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

この絵が忘れがたいのは、顔と手がひとつながりに張りつめているからです。横ざまに走る目、突き出した顎、固く結んだ口、前へ伸びる両手。向きがすべてそろっています。身体の奥の骨が、そのまま画面の線になったかのようです。写楽は「悪役の顔」という記号を描いたのではありません。悪事に手をかける、その一瞬の身体を描いています。

手を見てください。指はそろわず、顔のわりに小さく、関節は不揃いに曲がっています。実際の手を、寸法どおりに写してはいません。けれど、下手なのではありません。むしろ逆で、写楽は形に縛られることをやめています。実際の形をいったん崩し、デフォルメを通して、手の本質だけを取り出しています。だからこの手は、宙に浮いた部品ではありません。肩から肘へ、肘から手首へとつながって、ちゃんと役者の胴から生えています。骨の上に肉が乗り、その上を皮が覆い、指の一本一本に、今にも動き出しそうな弾力があります。掴む直前のこわばりまで、皮膚の下から伝わってきます。血の通った、体温のある手です。

『初代市川男女蔵の奴一平』と並べると、写楽の力が分かる

『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』の力は、もう一枚と並べると、いっそうはっきりします。『初代市川男女蔵の奴一平』です。二枚は同じ芝居『恋女房染分手綱』に取材しています。江戸兵衛が襲う側なら、一平は襲われ、刀に手をかけて受ける側です。

『初代市川男女蔵の奴一平』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『初代市川男女蔵の奴一平』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

一平の顔は、江戸兵衛ほど外へ向かってきません。目は横へ流れ、口は固く結ばれ、衣の下の身体はこわばっています。写楽は、二人を「悪人」と「被害者」という記号で分けてはいません。手の置き方、肩の角度、衣の下の腕の構えで、攻める者と受ける者の違いを、身体そのものに翻訳しています。

二枚を左右に並べると、あいだに、目に見えない緊張の糸が張られているのが感じられます。役者の顔を売るだけの仕事では、こうはなりません。舞台の上の力関係を、顔と身体の構造に置き換える。役者絵でありながら、人体を見る目が、これほど確かなのです。

入場無料 EXHIBITION│INTERVIEW

女方の顔に残る、男の骨格

女方を描いた絵に立つと、写楽の見ているものが、いっそうはっきりします。『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』です。髪も、衣装も、裾を引く指先のしなやかさも、女のものとして整っています。けれど顔を見ると、顎が四角く張り、頬骨が出て、首が太い。化粧の下から、男の骨格が透けて見えます。

『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

これは、女方を美しく描けなかったのではありません。逆です。舞台では女に見える。その下には、見栄えがよいとは言えない一人の男がいて、それでも女を勤めている。写楽は、その両方を一度に見せます。美化もせず、笑いものにもせず、ただ事実として、化粧の下の頬骨を、そこに置いています。

『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

女方とは、男が女を演じる芸です。舞台の上の理想の姿だけを差し出すのではなく、それを演じている生身の身体まで残す。だから写楽の女方には、どこか落ち着かない迫力があります。そこを描けてしまう目こそ、写楽の描写力です。

第一期の役者大首絵と黒雲母摺

写楽の作品は、出版された時期によって、四つの時期に分けて語られます。中でも別格に扱われるのが、寛政6年(1794)5月に一度に売り出された、第一期の二十八点です。いずれも大判の役者大首絵で、背景には雲母(うんも)を蒔いた、多くは黒雲母摺(くろきらずり)という豪華な仕立てでした。

大首絵とは、人物の顔と上半身を大きく描く形式です。物語の説明も、舞台装置もありません。あるのは、役者の顔と、上半身だけです。雲母の粉は光を受けてかすかに輝き、その暗い地に、白い顔が浮かび上がります。読者の目は、役者の顔と手から逃げられません。だからこそ、顔の左右の歪み、顎の張り、目の置き方、手の不自然な開きまでが、まっすぐ目に飛び込んできます。

『三代目坂田半五郎の藤川水右衛門』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『三代目坂田半五郎の藤川水右衛門』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

新人のようにあらわれた絵師が、いきなりこれだけの数を、これだけ贅沢な形で世に出しました。現代のポスターや映画のクローズアップに近い迫力があります。第一期の二十八点は、写楽という名を決定づけた仕事です。

第一期二十八点という衝撃

第一期の二十八点は、都座・桐座・河原崎座――江戸三座の夏興行に出ていた役者たちを描いています。立役も、敵役も、女方も、二人立ちの構図まで、いずれも黒雲母摺を中心とした大判の大首絵です。一度にこれだけの役者大首絵を、豪華な仕立てでそろえて売り出すこと自体が、当時としては異例でした。

一枚ずつ見ていくと、黒目がちな顔、思慮の浅そうな顔、気の強そうな顔と、役者それぞれの顔つきが違うことに気づきます。様式の中に、確かに生きた人間がいる。二百三十年前の役者たちが、いまの時代の誰かの顔と、どこかで重なってくる。その実在感が、この二十八点の核心です。

この第一期作品は、いまその大半が大切に守られています。東京国立博物館は、二十八点のうち二十七点を一括して所蔵し、「版画寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵」として重要文化財に指定されています。写楽を初めて見るなら、まずこの二十八点の顔、手、首、肩を、一枚ずつ見ていくのがよいでしょう。

第二期以降のこと

第二期以降、写楽の絵は変わります。画面は小さくなり、背景に舞台装置や樹木が描き込まれ、全身像や複数人物の構図が増えていきます。けれど、第一期のあの緊張は、しだいに薄れます。役者は背景の中におさまり、こちらへ飛び出してはきません。写楽の本領は、やはり第一期にあります。

この見方は、写楽のすべてを第一期だけに閉じ込めるという意味ではありません。第二期以降にも、当時の舞台や役者絵の広がりを知るうえで重要な作品はあります。ただ、顔、首、肩、手が一体となって迫ってくる造形の密度は、第一期の大首絵で最もはっきり見えます。写楽という絵師を考えるとき、第一期が中心に置かれるのは、そのためです。

写楽と蔦屋重三郎

写楽の作品は、すべて版元・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)から出版されました。蔦屋重三郎は、喜多川歌麿を世に送り出した、江戸を代表する版元です。第一期の二十八点を、黒雲母摺の大判という贅沢な形で一度に売り出したのも、この版元の企画でした。

当時は寛政の改革のさなかで、出版物への統制が強まっていました。蔦屋重三郎自身も、寛政3年(1791)に山東京伝の洒落本をめぐる出版取締で、身上半減という重い処罰を受けています。その逆風の数年後に、無名の写楽を黒雲母摺の大判役者絵で一挙に売り出した。そこに、版元としての思い切りが見えます。

もちろん、蔦屋が企画しただけで写楽が特別になったわけではありません。写楽の線が突出していたからこそ、蔦屋の企画は事件になりました。版元の覚悟と、絵師の力が、この十か月に正面からかみ合ったのです。蔦屋重三郎と浮世絵の広がりについては、蔦屋重三郎の記事でも詳しく紹介しています。

写楽の正体は誰か

写楽の正体は、いまもはっきりとは決まっていません。本名を記した文献は、わずかに残っています。考証家・斎藤月岑が天保15年(1844)に著した『増補浮世絵類考』には、「俗称斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀に住す、阿州侯の能役者なり」という趣旨の記述があります。

長らくこの斎藤十郎兵衛の実在を裏づける史料が見つからず、歌麿や北斎、山東京伝など、多くの人物が候補に挙げられてきました。その後、能役者の名簿や蜂須賀家の古文書、過去帳などから斎藤十郎兵衛の実在と八丁堀居住が確認され、現在ではこの説が有力とされています。

ただし、この記事で大切にしたいのは、正体探しそのものではありません。写楽が能役者だったのか、歌舞伎界に近い人物だったのか、別の絵師の変名だったのか。そうした推理は面白いものです。けれど、写楽の絵を前にしたとき、最後に残るのは名前ではなく、役者の顔と手です。正体の謎は入口であり、写楽の核心は、やはり第一期の画力にあります。

正体をめぐる推理は、絵そのものからも試みられてきました。版画家の池田満寿夫は、写楽が自分の顔を作品に残しているという見立てから推理を重ね、一人の歌舞伎役者にたどり着いています(NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』一九八四年)。ここでも重要なのは、写楽の正体を断定することではなく、あの第一期の絵が、後世の人に推理をさせずにはおかないほど異様な密度を持っていたという事実です。

なぜ十か月ほどで姿を消したのか

これほどの絵を描きながら、写楽はなぜ十か月ほどで消えたのか。理由は、わかっていません。手がかりは、いくつかあります。『浮世絵類考』には、役者の似顔を写したが、あまりに真を描こうとして世間の好みに合わず、長くは続かなかった、という趣旨が記されています。

理想化された美しい役者像を求める客に、役者の癖や老いまで暴く絵は、必ずしも歓迎されませんでした。第一期の大きな作品の方が後の作よりも多く残り、後期の作には一枚しか現存しないものが多いことも、人気の陰りをうかがわせます。流派に属さず、後ろ盾も人脈も持たなかったことが、支持を広げきれなかった一因だとも言われます。

ただ、写楽を「人気が出なかったから消えた絵師」とだけ見ると、肝心なところを取り逃がします。むしろ注目すべきなのは、わずか十か月ほどの仕事のうちに、第一期の大首絵という突出した作品群が出てしまったことです。短すぎる活動期間そのものよりも、「これほどの腕が、なぜ続かなかったのか」という問いのほうが、写楽という存在を際立たせています。

忘れられた絵師から世界的巨匠へ

同時代に十分な人気を得られなかった写楽は、その後しばらく忘れられていました。流れを変えたのは、海外からの評価です。一九一〇年、ドイツの研究家ユリウス・クルトが研究書『写楽(SHARAKU)』を刊行し、ヨーロッパの収集家や研究者のあいだで写楽の名が知られていきます。

この評価が逆輸入される形で、大正のころから日本でも写楽が見直されました。当時は受け入れられにくかった「真を描きすぎる」姿勢が、時代を超えて、むしろ価値とみなされるようになったのです。いまでは写楽は、浮世絵を代表する絵師の一人として、揺るがぬ地位を得ています。

写楽の評価が面白いのは、時代によって見え方が変わったことです。江戸の観客にとっては、贔屓の役者を気持ちよく見せてくれない絵だったかもしれません。けれど近代以降の眼には、その容赦のなさこそが、肖像としての力に見えました。写楽は、同時代の好みに収まりきらなかったからこそ、後世に強く残ったのです。

『初代中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と初代中村此蔵の船宿かな川やの権』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『初代中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と初代中村此蔵の船宿かな川やの権』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

写楽に取り憑かれた人々|フランキー堺の逸話

ひとつ、逸話を添えておきます。喜劇役者で、ジャズドラマーで、私財を注いで写楽を研究した、フランキー堺という人がいました。彼には長年撮りたい映画がありました。写楽です。『幕末太陽傳』で堺を主演に据えた川島雄三監督が、「次は君の主演で写楽を撮る」と言い残して急逝し、堺はその約束を三十年抱え続けました。

そして一九九五年、篠田正浩監督の映画『写楽』を企画総指揮として世に出し、自らは版元・蔦屋重三郎を演じます。同じ夢を追った巨匠・内田吐夢も、果たせずに逝っていました。残された絵は、わずか十か月ほど。その短い時間に生まれた作品が、これだけの人間を動かしてきたのです。

写楽の不思議さは、絵の数や正体の謎だけではありません。絵を見た人が、「この人はいったい何者だったのか」と考えずにいられなくなることです。第一期の役者たちは、二百年以上前の舞台の人物でありながら、いまも誰かの記憶や創作を刺激し続けています。

『三代目市川高麗蔵の志賀大七』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『三代目市川高麗蔵の志賀大七』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

北斎・国芳と比べたときの写楽

同じ浮世絵師でも、写楽の立つ場所は、よく知られた絵師たちとは違います。葛飾北斎は、風景も、自然も、物語も、職人の姿も、広い世界を描きました。『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、視線が波から舟へ、富士へと大きく動きます。

写楽の視線は、ほとんど動きません。背景は抑えられ、役者の顔と手が、画面の手前へ迫ってくるだけです。北斎が世界を広げる絵師だとすれば、写楽は、人間の顔の奥へ深く入る絵師です。見せる範囲は狭いのに、心理の圧力はとても強い。

歌川国芳と比べると、違いはさらにはっきりします。国芳が、武者や妖怪や猫で物語や奇想を大きく広げた絵師だとすれば、写楽は逆に、舞台の上の一人、あるいは二人へと、視点を絞り込みます。派手な物語ではなく、役者の身体そのものが、画面の事件になるのです。

写楽は、北斎のように世界を広げず、国芳のように物語を爆発させません。けれど、顔ひとつ、手ひとつで、人間の内側まで迫ってきます。だからこそ、写楽は浮世絵の中でも特別な位置にあります。広がりではなく、深さで見る絵師なのです。

まとめ

東洲斎写楽は、わずか十か月ほどで姿を消した、謎の多い浮世絵師です。けれど、写楽の値打ちは、その短さや謎にあるのではありません。寛政6年5月の二十八点に、すべてがあります。役柄ではなく、役を演じている役者その人を描く。形に縛られず、崩しながら本質に届く。顔を、とりわけ目を画面の中心に据え、手も胴も、一人の身体としてつなげる。化粧の下の頬骨まで、隠さずに置く。

だから写楽の役者は、二百三十年たったいまも、紙の上からこちらを見返してきます。初めて写楽を見るなら、第一期の大首絵から、まず役者の目を見てください。謎から入ってもかまいません。最後に残るのは、絵そのものの力です。

『四代目岩井半四郎の乳人重の井』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵
『四代目岩井半四郎の乳人重の井』 東洲斎写楽 1794年 大判錦絵

よくある質問

東洲斎写楽の本名や正体は分かっているのですか?

確定していません。多くの説があり、現在は阿波徳島藩・蜂須賀家に仕えた能役者、斎藤十郎兵衛とする説が有力とされていますが、断定はされていません。北斎説や歌麿説、複数人説なども唱えられてきました。

なぜ約10か月で姿を消したのですか?

理由は不明です。『浮世絵類考』は、役者の特徴を真に描きすぎて世評に合わず、長くは続かなかったという趣旨を記しています。流派の後ろ盾を持たず、十分な支持層を築けなかったことも一因と考えられています。

写楽の代表作は何ですか?

最も有名なのは『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』です。ほかに『初代市川男女蔵の奴一平』『市川鰕蔵の竹村定之進』『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』など、第一期の役者大首絵が高く評価されています。

蔦屋重三郎とはどんな関係ですか?

蔦屋重三郎は、写楽の全作品を出版した版元です。喜多川歌麿を世に出した江戸を代表する版元で、黒雲母摺の豪華な大判錦絵によって、写楽を鮮烈にデビューさせました。

写楽の作品はどこで見られますか?

東京国立博物館が第一期の役者大首絵二十七点を重要文化財として所蔵し、企画展などの機会に公開されることがあります。海外ではメトロポリタン美術館や大英博物館などが収蔵しています。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました