オーギュスト・ロダンとは|生涯・代表作『考える人』『接吻』を解説

オーギュスト・ロダン(1840〜1917年)は、近代彫刻の扉を開いたフランスの彫刻家です。写実的な人体を土台にしながら、筋肉の緊張、身ぶり、荒く起伏する表面によって、目に見えない感情や思考までも表そうとしました。

代表作は『考える人』『接吻』『地獄の門』『カレーの市民』『青銅時代』などです。なかでも『考える人』と『接吻』は、はじめから独立した作品として作られたのではなく、大作『地獄の門』の構想の中から生まれました。ロダンを理解する近道は、有名な一体だけを眺めることではありません。人物像を作り、分解し、組み替え、拡大しながら新しい意味を与え続けた、制作の全体像を知ることです。

オーギュスト・ロダンの肖像写真 1893年 ナダール撮影
《オーギュスト・ロダンの肖像》1893年 ナダール撮影
名前 オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)
生没年 1840年11月12日〜1917年11月17日
出身地 フランス・パリ
分野 彫刻、素描
主な作品 『青銅時代』『地獄の門』『考える人』『接吻』『カレーの市民』『バルザック』『歩く人』
特徴 人体の動勢、表面に生まれる光と影、断片と集合、同じ像の反復・拡大
  1. オーギュスト・ロダンとは
  2. ロダンの生涯
    1. 1840〜1876年|美術学校の不合格と職人としての修業
    2. 1877年|『青銅時代』が起こしたスキャンダル
    3. 1880年代|『地獄の門』とカミーユ・クローデル
    4. 1884〜1898年|『カレーの市民』と『バルザック』
    5. 1900〜1917年|国際的名声とロダン美術館への遺贈
  3. ロダン最大の計画『地獄の門』
  4. 代表作『考える人』|何を考えているのか
  5. 代表作『接吻』|永遠の愛だけではない
  6. 『考える人』『接吻』以外の代表作
    1. 『青銅時代』|生きているような人体
    2. 『カレーの市民』|六人の英雄を地上へ下ろす
    3. 『バルザック』|外見より精神を彫る
    4. 『歩く人』|頭部も腕もない身体
  7. ロダンの彫刻は何が新しかったのか
    1. 表面の凹凸が光と感情を動かす
    2. 断片、反復、組み替えを完成作にする
    3. 「原作」は一点とは限らない
  8. カミーユ・クローデルとの関係
  9. 日本でロダンの作品を見られる美術館
    1. 国立西洋美術館
    2. 静岡県立美術館 ロダン館
  10. よくある質問
    1. ロダンの最も有名な作品は何ですか?
    2. 『考える人』は何を考えているのですか?
    3. なぜ世界各地に『考える人』があるのですか?
    4. ロダンは大理石像をすべて自分で彫ったのですか?
    5. ロダンとカミーユ・クローデルはどのような関係でしたか?
    6. ロダンは印象派の彫刻家ですか?
  11. まとめ
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オーギュスト・ロダンとは

ロダンは、古代ギリシャ・ローマ以来の理想的な人体美をそのまま再現した彫刻家ではありません。身体のゆがみや重さ、ためらい、苦痛、欲望を消さずに残し、人間が生きている時間そのものを彫刻へ持ち込みました。だからこそ彼の人物像は、整った輪郭の美しさよりも、内側から押し返してくる力を感じさせるのです。

19世紀の公的な記念像には、英雄を高い台座に載せ、明快な物語を示す役割が求められていました。ロダンは注文を受けながらも、その約束事をたびたび破ります。『カレーの市民』では英雄たちを見る人と同じ高さに立たせようとし、『バルザック』では顔の細部や衣服を大胆に単純化しました。さらに、頭や腕を欠いた身体の一部にも、完成した表現としての価値を認めています。こうした仕事の積み重ねが、後世から「近代彫刻の父」と呼ばれる理由です。

ただし、ロダンは伝統を捨てたわけではありません。1876年にイタリアを旅し、ミケランジェロの力強い人体表現から大きな影響を受けました。古代彫刻や文学を深く学び、その遺産を自分の時代の身体へ置き換えたところに、ロダンの新しさがあります。

ロダンの生涯

1840〜1876年|美術学校の不合格と職人としての修業

ロダンは1840年、パリの慎ましい家庭に生まれました。14歳で「プティット・エコール」と呼ばれた素描の学校へ進み、デッサンや装飾の基礎を学びます。しかし、官立美術学校エコール・デ・ボザールの彫刻科には、三度受験して三度とも不合格に終わりました。

生活のため、建築装飾や工芸の工房で働きます。1864年には彫刻家アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズの工房に入り、同じ年に生涯の伴侶となるローズ・ブーレと出会いました。サロンに出品した『鼻のつぶれた男』の石膏像は拒否されます。のちに大理石版は受け入れられるものの、若い頃のロダンは公的な美術制度の中心から外れた場所で、職人として腕を磨いていったのです。

普仏戦争後はベルギーへ移り、装飾彫刻の仕事を続けました。転機となったのが1876年のイタリア旅行です。ミケランジェロの彫刻に接して衝撃を受け、人体を解剖学的に正しく整えるだけでなく、ひねりや緊張によって精神を示す方法を学びました。

1877年|『青銅時代』が起こしたスキャンダル

ロダンが一躍注目を集めた作品が『青銅時代』です。若いベルギー兵オーギュスト・ネイをモデルに、等身大の男性像を制作しました。1877年に発表すると、あまりに身体が生々しいため、モデルの身体から直接型を取ったのではないかと疑われます。当時それは、彫刻家が形を生み出す能力そのものを否定する、重大な非難でした。

ロダンは制作途中の写真や証言を示して反論します。論争は評判を傷つける一方で、その高い造形力を世間に知らせる結果にもなりました。1880年、フランス政府は『青銅時代』のブロンズを買い上げ、さらに新設予定だった装飾美術館のために大扉の制作を依頼します。これが、以後の創作を支え続ける巨大な母体『地獄の門』の始まりでした。

『青銅時代』オーギュスト・ロダン 1876年原型、1906年頃鋳造 ブロンズ、高さ182.9cm メトロポリタン美術館所蔵
『青銅時代』オーギュスト・ロダン 1876年原型、1906年頃鋳造 ブロンズ、高さ182.9cm メトロポリタン美術館所蔵

1880年代|『地獄の門』とカミーユ・クローデル

1880年代のロダンは、『地獄の門』を中心に膨大な数の人物像を作ります。『考える人』『接吻』『三つの影』『ウゴリーノとその子どもたち』など、今日独立した作品として知られる像の多くが、この構想の中で生まれました。

1882年、ロダンは彫刻家アルフレッド・ブーシェに代わって若い女性たちの制作指導を引き継ぎ、そこで才能ある彫刻家カミーユ・クローデルと出会います。クローデルは1884年頃からロダンの工房で助手を務め、難しい手足の制作にも関わったと考えられています。二人は仕事上の協力者であり、恋愛関係にもなりましたが、クローデルは単なる「ロダンのミューズ」ではありません。強い構成力を持つ独立した彫刻家であり、二人の作品には互いの影響が認められます。

1889年には、パリのジョルジュ・プティ画廊でクロード・モネとの二人展を開催しました。絵画と彫刻という違いはあっても、表面に揺れる光を重視する二人の作品は、同時代の新しい感覚として受け止められます。

『地獄の門』 オーギュスト・ロダン ブロンズ 国立西洋美術館所蔵
『地獄の門』 オーギュスト・ロダン ブロンズ 国立西洋美術館所蔵

1884〜1898年|『カレーの市民』と『バルザック』

1884年、ロダンはカレー市から、百年戦争の逸話を記念する群像の注文を受けました。完成した『カレーの市民』が描くのは、勝利に酔う英雄ではなく、死を覚悟して町を出ていく六人の市民です。恐怖、決意、絶望は一人ひとり異なり、群像を一方向から読み切ることはできません。1889年に完成し、1895年にカレーで除幕されました。

1891年には、フランス文芸家協会から作家オノレ・ド・バルザックの記念像を依頼されます。ロダンが目指したのは、外見の正確な再現ではなく、創作者としての生命力そのものでした。身体をガウンで大きく包み、精神の集中を顔と頭部に集めた最終像は、1898年の発表時に激しい非難を浴び、協会から受け取りを拒否されます。しかし現在では、この『バルザック』こそ20世紀彫刻を先取りした記念碑と評価されています。

1900〜1917年|国際的名声とロダン美術館への遺贈

1900年のパリ万国博覧会に合わせ、ロダンはアルマ広場に自前の個展館を設けました。石膏像を中心とする大規模な回顧展を開き、未完成の『地獄の門』も、装飾の一部を外した状態で公開します。1904年には拡大版の『考える人』がロンドンで展示され、1906年にはパリのパンテオン前に置かれました。ロダンは名実ともに国際的な巨匠となります。

1908年からは、詩人ライナー・マリア・リルケの勧めで、旧ビロン館に住み始めました。ロダンは自作と収集した古代美術、館の敷地を国家へ寄贈する代わりに、ここを自分の作品を伝える美術館とすることを望みます。寄贈は1916年に成立しました。

1917年1月、長年連れ添ったローズ・ブーレと結婚します。ローズは翌月に亡くなり、ロダンも同じ年の11月17日、ムードンで世を去りました。77歳の誕生日を迎えた、わずか5日後のことです。パリのロダン美術館は、死後の1919年に開館しています。

ロダン最大の計画『地獄の門』

『地獄の門』は、1880年にフランス政府から注文された大扉です。新設予定だった装飾美術館の入口を飾るはずでしたが、建設計画そのものが中止されてしまいます。それでもロダンは制作を続け、200を超える人物像や群像を扉の上に配置していきました。

『地獄の門』オーギュスト・ロダン ブロンズ フィラデルフィア・ロダン美術館
『地獄の門』オーギュスト・ロダン ブロンズ フィラデルフィア・ロダン美術館

出発点はダンテの『神曲』「地獄篇」でした。けれども完成した扉は、場面を順番に説明する挿絵にはなっていません。ボードレールの『悪の華』、古代神話、同時代を生きる人間の欲望や苦しみが入り交じり、無数の身体が落下し、抱き合い、身をよじります。全体を統率する一つの物語よりも、終わりなく続く人間の情念が前面に出ているのです。

扉の上方中央に座る人物が、のちの『考える人』です。左扉に置かれていた恋人たちの像は、のちの『接吻』になりました。ただし『接吻』は、幸福な官能性が全体の悲劇的な調子と合わないため、1886年頃に扉から外されます。このように『地獄の門』は、一つの大作であると同時に、ロダンの代表作が次々と生まれてくる「彫刻の貯蔵庫」でもありました。

ロダンは生前、ブロンズとして完成した『地獄の門』を見ていません。1900年には石膏像が部分的な状態で展示され、全体のブロンズ鋳造は死後に実現しました。「いつ完成した作品か」を一つの年で答えにくいのは、ロダンが長い年月にわたって人物像を動かし、反復し、構成を変え続けたためです。

代表作『考える人』|何を考えているのか

『考える人』は、頬に手を添えて静かに物思いにふけるだけの像ではありません。右肘を左腿に置くねじれた姿勢、前へ沈み込む胴体、地面をつかむような足。そこには、考えることが全身を使う行為であることが表されています。

最初の像は1880年頃、『地獄の門』の上から地獄を見下ろす人物として構想され、「詩人」と呼ばれていました。ダンテ自身を思わせる存在であると同時に、眼下の人間たちを見つめる創作者、さらには人間の運命について考え続ける普遍的な人物へと、意味を広げていきます。1888年には独立した作品として展示され、1902〜04年に大型化されました。

そのため「何を考えているのか」に唯一の正解はありません。出発点にダンテと『地獄の門』があることを押さえたうえで、苦悩、創造、人間の運命を考える像として見るのが自然です。制作の経緯やポーズの見どころは、『考える人』とは|ロダンが表した“思索する彫刻”を解説で詳しく紹介しています。

『考える人』オーギュスト・ロダン-1880年頃原型、1910年頃鋳造-ブロンズ、高さ70.2cm-メトロポリタン美術館所蔵
『考える人』オーギュスト・ロダン-1880年頃原型、1910年頃鋳造-ブロンズ、高さ70.2cm-メトロポリタン美術館所蔵

代表作『接吻』|永遠の愛だけではない

『接吻』の男女は、ダンテ『神曲』に登場するパオロとフランチェスカです。夫の弟パオロと恋に落ちたフランチェスカは、二人の関係を知った夫に殺されてしまいます。滑らかな身体と抱擁は幸福な愛を思わせますが、その背景には、許されない恋、死、永遠の罰という悲劇が横たわっています。

よく見ると、二人の唇は完全には触れておらず、男性の手も相手を強くつかんではいません。結ばれる直前の時間をとどめることで、愛の高まりと、やがて失われる運命とが同時に表されているのです。『地獄の門』から独立した像は1887年に公開され、「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではなく、誰にでも親しみやすい『接吻』の名で知られるようになりました。題材となった物語や大理石像の制作については、「『接吻』とは|ロダンが彫刻で表した“永遠の愛”を解説」で詳しく解説しています。

『考える人』『接吻』以外の代表作

『青銅時代』|生きているような人体

『青銅時代』は、ロダンが彫刻家として認められる契機となった等身大の男性像です。英雄の身ぶりや物語を示す小道具を取り去り、目覚めようとする一人の身体だけに集中しました。重心の微妙な揺れと全身に広がる緊張が、生命が立ち上がる瞬間を感じさせます。

『カレーの市民』|六人の英雄を地上へ下ろす

百年戦争中の1347年、包囲されたカレーの町を救うため、六人の有力市民がイングランド王のもとへ自ら出頭したという逸話にもとづく群像です。ロダンは彼らを理想化せず、迷いや恐怖を抱えたまま歩む人間として造形しました。そして、高い台座の上ではなく、見る人と同じ地面の高さに置くことを望みます。英雄と観客の距離を縮めた、近代的な記念像です。

『バルザック』|外見より精神を彫る

ロダンは作家バルザックの肖像写真や伝記を読み込み、当時の仕立屋に生地を縫わせ、数多くの裸像や頭部を制作しました。そのうえで細部を大胆に削ぎ落とし、ガウンに包まれた塊から頭部が突き出す最終像へ到達します。注文主に拒否された作品が、のちに記念彫刻の転換点となった事実は、ロダンの造形が時代の理解より先を歩いていたことを物語っています。

Middelheim_Rodin_Balzac_1892_02© Ad Meskens / ウィキメディア・コモンズ
Middelheim_Rodin_Balzac_1892_02© Ad Meskens / ウィキメディア・コモンズ

『歩く人』|頭部も腕もない身体

『歩く人』は、1870年代に作られた胴体と脚の習作を組み合わせ、1890年代末から1900年代にかけて発展させた作品です。頭部と両腕はなく、接合の痕も隠されていません。それでも、大きく開いた脚と前へ進む胴体から、歩行という連続した時間が立ち上がってきます。欠けた身体を「未完成」とみなさず、断片だけで強い表現が成立することを示しました。

ロダンの彫刻は何が新しかったのか

表面の凹凸が光と感情を動かす

ロダンの像は、輪郭を滑らかに閉じるのではなく、粘土を押し、盛り、削った痕跡をそのまま表面に残しています。凹凸に当たる光は、見る位置や時間によって変化します。硬く不動であるはずの彫刻に、揺れ動く表情が生まれるのです。

この点から、ロダンを「印象派の彫刻家」と呼ぶことがあります。モネとの交流や光への関心を考えれば共通点はありますが、美術史のうえで、ロダンをそのまま印象派に分類することは通常ありません。古代彫刻、ミケランジェロ、ダンテ、ボードレールを吸収し、人体の動きと断片性を押し進めた近代彫刻家と捉えるほうが正確です。

断片、反復、組み替えを完成作にする

ロダンの工房には、頭、手、脚、胴体の石膏型が大量に蓄えられていました。同じ人物像を『地獄の門』の異なる場所に置き、向きを変え、別の身体と組み合わせます。一度作った像を単に使い回したのではなく、配置と縮尺を変えることで、同じ身体から別の感情や物語を引き出したのです。

古代彫刻は、腕や頭を失った状態でも長く鑑賞されてきました。ロダンはその断片の力を、現代の制作へと取り込みます。『歩く人』や手の彫刻は、身体の一部が全身以上の動きや感情を伝えられることを示し、20世紀彫刻へ大きな道を開きました。

「原作」は一点とは限らない

ロダンはまず粘土で形を作り、石膏型を取り、大理石やブロンズへ展開しました。大理石は実務を担う彫刻家たちがロダンの指示のもとで彫り、ブロンズは鋳造所が石膏型などから鋳造します。大型化には、測定器を使って寸法を移す専門技術も用いられました。近代彫刻の制作は、画家が一枚のカンヴァスを仕上げる場合とは異なる、工房による共同作業なのです。

したがって、世界各地にある『考える人』がすべて偽物というわけではありません。寸法の異なる原型があり、同じ原型から複数の正式なブロンズ像が鋳造されています。鑑賞するときは「原型の制作年」「その像の鋳造年」「鋳造所」「所蔵の来歴」を分けて確認することが大切です。現在、ロダン美術館が認めるオリジナル・エディションは、厳格な規定のもと、一つの原型につき最大12体とされています。

カミーユ・クローデルとの関係

カミーユ・クローデル(1864〜1943年)は、ロダンの弟子であり、助手であり、恋人でした。工房で実作に携わり、二人は人体のひねりや抱き合う群像の表現をめぐって刺激を与え合います。一方でロダンには、ローズ・ブーレとの長い生活がありました。クローデルとの関係は次第に緊張を深め、1890年代前半に終わりを迎えます。

クローデルを悲劇的な恋の相手としてだけ語ってしまうと、彫刻家としての仕事が見えなくなります。『ワルツ』『分別盛り』などで彼女は、男女の距離、流れるような動き、別れの心理を独自の構成へと高めました。ロダンとの関係は確かに重要ですが、それだけで彼女の作品を説明しないことが大切です。

日本でロダンの作品を見られる美術館

国立西洋美術館

東京・上野の国立西洋美術館は、『地獄の門』『考える人』『接吻』『カレーの市民』『青銅時代』など、ロダンの主要作品を所蔵しています。コレクションの核となったのは、実業家・松方幸次郎がパリで収集した作品群です。松方は1918年、のちにロダン美術館初代館長となるレオンス・ベネディットを通じて同館と契約を結び、ブロンズ像をまとめて注文しました。これが、日本における充実したロダン・コレクションの基礎になっています。松方の収集の歩みは、松方コレクションとは?国立西洋美術館を生んだ奇跡の美術コレクションで詳しく解説しています。

前庭では、『地獄の門』と大型の『考える人』の関係を、実際の距離と大きさで体感できます。館内の作品は展示替えや貸し出しで見られない場合があるため、訪問前に公式の所蔵作品ページをご確認ください。美術館全体の見どころは、国立西洋美術館 常設展の見どころ|モネ・印象派作品と松方コレクションで紹介しています。

静岡県立美術館 ロダン館

静岡県立美術館のロダン館は、『地獄の門』を中心に、『考える人』『カレーの市民』や『バルザック』関連の習作など、ロダンと周辺作家の彫刻を体系的に紹介しています。完成像だけでなく、一つの人物像が大作の中でどのように反復され、別の作品へ発展していったかを見比べられるのが魅力です。展示状況と開館情報は、訪問前に美術館公式サイトでご確認ください。

よくある質問

ロダンの最も有名な作品は何ですか?

一般には『考える人』が最も広く知られています。ただし、ロダンの創作全体を理解するうえで中心となるのは『地獄の門』です。『考える人』や『接吻』を含む多くの人物像が、この大作から独立していきました。

『考える人』は何を考えているのですか?

当初は『地獄の門』の上から地獄を見下ろす詩人ダンテとして構想されました。その後、創作者や人間の運命を考える普遍的な像へと意味が広がったため、考えている内容を一つに限定することはできません。

なぜ世界各地に『考える人』があるのですか?

ブロンズ彫刻は、同じ原型から複数の像を鋳造できるためです。『考える人』には小型像と大型像があり、それぞれに複数の正式な鋳造があります。真贋や位置づけを判断するには、原型の制作年と個々の鋳造年、鋳造所、来歴を確認します。

ロダンは大理石像をすべて自分で彫ったのですか?

ロダンは粘土で構想を練り、石膏像を基準に全体を監督しましたが、大理石への移し彫りには工房の彫刻家や職人が携わりました。これは当時の大規模な彫刻制作では一般的な方法です。ロダン作品の作者性は、構想、原型、選択、修正、監督を含む制作工程の全体にあります。

ロダンとカミーユ・クローデルはどのような関係でしたか?

師弟であり、工房の協力者であり、恋愛関係にもありました。ただし、クローデルはロダンの補助者にとどまらない独立した彫刻家です。二人の関係を見るときは、恋愛だけでなく、互いの造形上の影響と、それぞれの作品を分けて考えることが大切です。

ロダンは印象派の彫刻家ですか?

表面に生まれる光の変化を重視し、モネと二人展を開いたことから、「印象派的」と説明されることはあります。しかし通常は印象派に分類するのではなく、古典彫刻を出発点に、断片、動勢、制作工程を刷新した近代彫刻家と位置づけられています。

まとめ

オーギュスト・ロダンは、人体を美しく整えるだけでなく、そこに思考、欲望、恐怖、歩行の時間までを刻み込んだ彫刻家です。『青銅時代』の写実は模刻疑惑を生み、『カレーの市民』と『バルザック』は記念像の常識を揺さぶりました。頭や腕を欠く断片、同じ像の反復と組み替え、異なる縮尺への展開もまた、彫刻に新しい自由を与えています。

そして『考える人』と『接吻』は、孤立した二つの名作ではありません。どちらも『地獄の門』から生まれ、置かれる場所と大きさ、題名を変えるなかで意味を広げてきました。ロダンの作品を見るときは、正面の完成像だけでなく、表面を動く光、身体の重心、失われた部分、別の作品とのつながりまで追ってみてください。その近代性が、はっきりと見えてくるはずです。

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