フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の小さな町ズンデルトに生まれました。『ひまわり』や『星月夜』を描いた南フランスの時代がよく知られていますが、ゴッホが画家になると決めるのは27歳のころです。それまでには、ズンデルトでの少年時代、寄宿学校、画商、教師、書店員、伝道師という長い道のりがありました。
そして、現在ズンデルトにある「ファン・ゴッホの家」は、1853年当時の生家そのものではありません。ゴッホが16歳まで暮らした旧牧師館は1903年に取り壊されており、現在の施設はその生誕地跡に立っています。本記事では、ゴッホの生家とズンデルトでの生活、少年時代の教育、16歳で始めた画商の仕事、そして1880年に画家の道へ進むまでをたどります。ゴッホの生涯全体を先に知りたい方は、ゴッホとは|どんな画家?生涯と代表作を解説もあわせてご覧ください。

| 出生 | 1853年3月30日 |
|---|---|
| 出生地 | オランダ・北ブラバント州ズンデルト |
| 父 | テオドルス・ファン・ゴッホ/オランダ改革派教会の牧師 |
| 母 | アンナ・コルネリア・カルベントゥス |
| ズンデルトで暮らした時期 | 1853年から1869年まで |
| 生家 | 旧牧師館。1903年に取り壊された |
| 画商になる | 1869年、16歳でグーピル商会へ |
| 画家を職業とする道へ | 1880年、27歳のころ |
この記事の要点
- ゴッホは1853年、オランダ南部ズンデルトの牧師の家庭に生まれた
- 現在の「ファン・ゴッホの家」は生誕地跡に立つ施設で、1853年当時の建物ではない
- 少年期には自然に親しみ、ティルブルフでは正式な素描教育も受けたが、子どものころから画家を志していたわけではない
- 16歳で画商となり、その後教師、書店員、伝道師などを経て、1880年ごろから美術を職業として選んだ
- ズンデルトとは|ゴッホが16歳まで暮らした北ブラバントの町
- ゴッホの生家は残っている?|現在のファン・ゴッホの家との違い
- 牧師の家庭で育った少年ゴッホ|父母と6人きょうだい
- ズンデルトの自然はゴッホに何を残したのか
- 学校時代|ズンデルトからゼーフェンベルヘン、ティルブルフへ
- 16歳でズンデルトを離れ、画商グーピル商会へ
- 画商から教師・書店員・伝道師へ|画家になる前の遠回り
- 1880年、27歳で画家の道へ|テオへの手紙が示す転機
- ズンデルトを知ると、ゴッホの見え方はどう変わるか
- ゴッホの生誕地ズンデルトについてよくある質問
- まとめ|ズンデルトは「天才画家の伝説」ではなく、ゴッホの出発点
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ズンデルトとは|ゴッホが16歳まで暮らした北ブラバントの町
ズンデルトは、オランダ南部の北ブラバント州にある町です。ベルギー国境にも近く、フィンセント・ファン・ゴッホはここで1853年3月30日に生まれました。父テオドルスがオランダ改革派教会の牧師だったため、一家は教会に付属する牧師館で暮らしていました。
ゴッホがズンデルトを離れるのは1869年7月、16歳のときです。つまり彼の幼少期から少年期までの大部分は、この土地で過ごされています。後年のアルルやサン=レミのように、ズンデルトで代表作を描いたわけではありません。それでも、この町はゴッホという人物を考えるうえで重要な出発点です。
一家はしばしば周辺を歩き、少年フィンセントは田園や植物、季節の変化に親しみました。のちの作品を少年時代の体験だけで説明することはできませんが、自然や農村への関心は、その後の生涯にも長く残っていきます。
ゴッホの生家は残っている?|現在のファン・ゴッホの家との違い
ズンデルトを訪れると、マルクト26番地に「ファン・ゴッホの家(Vincent van GoghHuis)」があります。ただし、ここで注意したいのは、現在の建物をそのまま「ゴッホが生まれ育った家」と考えないことです。
1853年当時、この場所にはオランダ改革派教会の古い牧師館があり、ゴッホはそこで生まれ、16歳まで暮らしました。しかし旧牧師館は1903年に取り壊され、新しい牧師館が建てられています。幸い、取り壊される前の1900年に撮影された写真が残っているため、ゴッホが実際に生まれた建物の姿を現在も確認できます。
現在のファン・ゴッホの家は、この「生誕地」そのものを保存し伝える施設です。現在の建物などを活用して整備され、2008年からファン・ゴッホの家として公開されています。したがって、正確には「ゴッホの生家が現存している」のではなく、「生家の跡地に現在のファン・ゴッホの家がある」という関係です。
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牧師の家庭で育った少年ゴッホ|父母と6人きょうだい
父テオドルス・ファン・ゴッホは牧師、母アンナ・コルネリア・カルベントゥスはハーグの書籍商の家庭に生まれました。夫妻の間では、フィンセントよりちょうど1年前の1852年3月30日に最初の子が死産し、その子にも「フィンセント・ファン・ゴッホ」という名が付けられていました。その墓は現在もズンデルトの教会墓地に残っています。
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翌1853年3月30日に生まれたのが、のちの画家フィンセントです。ただし、「同じ名前の子の墓を見ながら育ったことが、ゴッホの精神や芸術を決定した」といった心理的な物語まで史料から断定することはできません。確認できるのは、同名の子が一年前に死産していたという家族史上の事実です。
その後、アンナ、弟テオ、ヴィレミーナ、エリーザベト、コルネリスが生まれ、成長した子どもはフィンセントを含め6人でした。なかでも4歳下の弟テオは、のちに画商となり、画家として生きようとする兄を長く経済的・精神的に支えます。二人の関係については、ゴッホの弟テオとは|兄を支えた画商と「ゴッホ」を世に残した兄弟の物語で詳しく紹介しています。
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ズンデルトの自然はゴッホに何を残したのか
ゴッホ一家は長い散歩をよくしており、少年フィンセントはズンデルト周辺の田園、植物、農村の風景に親しみました。妹エリーザベトが後年に残した回想には、植物や自然への強い関心を示す少年の姿が描かれています。ただし、この回想は1910年に書かれた後年の記憶であり、少年時代をそのまま記録した日記ではありません。
それでも、自然や農村への関心がゴッホの生涯を通して続いたことは、後年の作品からもわかります。オランダ時代には農民や畑、働く人々を描き、南フランスへ移ってからも果樹園、麦畑、オリーブ、糸杉などを繰り返し描きました。
重要なのは、ズンデルトの自然を『ひまわり』の黄色や『星月夜』のうねる筆触へ直接結び付けないことです。ゴッホ独特の色彩や筆触が形成されるのは、画家になった後、オランダ、パリ、アルルなどでさまざまな美術と出会い、長い制作経験を重ねてからです。少年時代に形成されたのは、むしろ自然を繰り返し見る習慣と、農村世界への長い関心だったと考えるほうが正確でしょう。
学校時代|ズンデルトからゼーフェンベルヘン、ティルブルフへ
村の学校から、11歳でゼーフェンベルヘンの寄宿学校へ
少年フィンセントは長く地元の学校へ通い続けたわけではありません。1861年1月から10月まではズンデルトの村の学校で学び、その後は家庭で教育を受けました。そして1864年10月、11歳でズンデルトから約20km離れたゼーフェンベルヘンのヤン・プロフィリーが運営する寄宿学校へ入ります。
このときの両親との別れは、少年フィンセントに強い記憶を残したようです。12年後の1876年、イギリスへ向かう途中でゼーフェンベルヘンを通過したゴッホは、両親に宛てた手紙の中で、プロフィリー先生の家の階段に立ち、雨にぬれた通りを両親の馬車が去っていくのを見ていた日のことを思い出しています。少年時代について、後世の伝記ではなくゴッホ自身が書き残した数少ない具体的な記憶の一つです。
13歳でティルブルフのHBSへ|正式な素描教育を受ける
1866年9月、13歳になったゴッホはティルブルフの高等市民学校(HBS)へ進みました。ここでは語学などとともに、画家で美術教育者のコンスタント・コルネリス・ホイスマンスから素描を学んでいます。ホイスマンスは観察や遠近表現を重視した伝統的な素描教育を行っていました。
1866年の学校集合写真も残っており、前列にいる少年フィンセントの姿を確認できます。また、1867年には鋤にもたれる男性を描いた素描が残されています。その意味では、ゴッホは少年期に絵を描いた経験も正式な素描教育も持っていました。
の集合写真、1866年。前列右から3人目、膝に帽子を置く少年がフィンセント・ファン・ゴッホ。オランダ国立公文書館所蔵。-1800x1486.jpg)
しかし、ここから「子どものころから天才画家だった」と考えるのは早計です。後年の画家ゴッホへ一直線につながるような少年期ではなく、本人自身もこの時期の素描教育について後の手紙でほとんど語っていません。学校の成績は良かったとされますが、2年目の途中で突然HBSを辞め、ズンデルトへ戻りました。退学した理由はわかっておらず、ホームシック、経済事情、人間関係などを原因として断定することはできません。
16歳でズンデルトを離れ、画商グーピル商会へ
1869年7月、16歳のゴッホはズンデルトを離れます。叔父フィンセントの縁を通じて、ハーグにあった国際的な美術商グーピル商会で働き始めるためでした。ここで重要なのは、ゴッホが「画家」として美術界へ入ったのではなく、最初は絵を売る側の画商の社員だったことです。
グーピル商会では絵画や版画、複製図版を扱いました。1873年にはロンドン支店へ移り、その後パリでも勤務します。若いゴッホは美術作品を日常的に見る環境に入り、美術館にも足を運びました。この時期の経験は、のちに自ら絵を描くようになったときの美術知識の土台となっていきます。
一方、この段階でもゴッホはまだ画家を職業として考えていません。美術に関心を持ち、多くの作品を見ていたことと、自分自身が画家として生きることの間には、さらに10年以上の時間がありました。
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画商から教師・書店員・伝道師へ|画家になる前の遠回り
グーピル商会での仕事は長く続きませんでした。1876年に退職すると、ゴッホはイギリスで学校の教師助手を務め、その後は宗教活動へ強く傾いていきます。オランダへ戻るとドルドレヒトの書店で働き、さらに牧師を志して神学を学ぼうとしました。
父と同じ聖職者への道も定着せず、やがてベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで伝道活動を始めます。貧しい鉱夫たちの生活に深く入り込みましたが、正式な伝道師としての契約は更新されませんでした。20代半ばのゴッホは、画商、教師、書店員、宗教家と、次々に進路を変えていたことになります。
しかし、この時期を単なる「失敗の連続」と見るだけでは十分ではありません。美術商として作品を見続けた経験、宗教や文学への関心、鉱夫や農民など働く人々への強い関心は、画家となった後のゴッホの主題にもつながっていきます。
1880年、27歳で画家の道へ|テオへの手紙が示す転機
ゴッホが美術を自分の仕事として本格的に選ぶのは1880年です。当時27歳でした。これは「幼いころから画家だけを夢見続け、ようやく成功した」という経歴とはまったく異なります。
1880年夏にはベルギーのキュエムで素描に取り組み、ジャン=フランソワ・ミレーらの作品を模写しながら技術を学んでいました。同年秋にはブリュッセルへ移り、シャルル・バルグの素描教材を使って練習を重ねます。
10月15日の弟テオ宛の手紙は、この時期の姿勢をよく示しています。ゴッホは、真剣な画家のアトリエで学べるよう画家との接点を求め、周囲で良い作品や画家の仕事を見る必要があると考えていました。そして当面の目標として、人に見せられ、販売できる素描をできるだけ早く描けるようになり、自分の仕事によって収入を得たいと書いています。

つまり1880年のゴッホは、単に「絵が好きだから描く」段階を越え、技術を身につけ、作品をつくり、それを自分の職業にすることを具体的に考え始めていました。弟テオもこの選択を支え、以後、画材費や生活費を援助しながら兄の制作を支えることになります。
ここから1890年に亡くなるまで、ゴッホが画家として本格的に活動した期間は約10年しかありません。その短い期間に、オランダの暗い農民画からパリの明るい色彩、アルルの黄色、サン=レミのうねる風景へと大きく変化していきます。
ズンデルトを知ると、ゴッホの見え方はどう変わるか
ゴッホの少年時代を知ると、「生まれながらの天才が衝動的に名画を描いた」というイメージとは違う人物像が見えてきます。少年時代には自然に親しみ、学校で素描を習った経験はありました。しかし画家という職業を選ぶまでには、画商として美術を見る年月と、教師、書店員、伝道師として進路を探した長い時期がありました。
27歳から本格的に絵を学び始めたゴッホは、教材を模写し、人物の比例や遠近法に苦労し、画家に教えを求め、何度も描き直しながら技術を身につけました。現在では感情のままに絵具を塗った画家のように語られることがありますが、実際の制作の背景には長い観察と訓練があります。
そして、ズンデルトで育った少年がそのまま『ひまわり』の画家になったわけでもありません。パリで印象派や新印象派、日本の浮世絵などに触れ、さらにアルルの強い光と色彩を経験して、私たちが現在「ゴッホらしい」と感じる絵画が形づくられました。黄色、厚塗り、うねる筆触などの変化は、ゴッホの絵の特徴|厚塗り・黄色・うねる筆触・浮世絵まで徹底解説で詳しく紹介しています。
ゴッホの生誕地ズンデルトについてよくある質問
ゴッホの生誕地ズンデルトはどこにありますか?
ズンデルトはオランダ南部の北ブラバント州にあり、ベルギー国境に近い町です。フィンセント・ファン・ゴッホは1853年3月30日にここで生まれ、1869年に16歳でハーグへ向かうまでズンデルトを生活の拠点としていました。
ゴッホの生家は現在も残っていますか?
1853年当時の生家そのものは残っていません。ゴッホ一家が暮らしたオランダ改革派教会の旧牧師館は1903年に取り壊されました。現在のファン・ゴッホの家は、その生誕地跡にある施設です。取り壊し前の旧牧師館を1900年に撮影した写真は残っています。
ゴッホは何歳までズンデルトで暮らしましたか?
出生から16歳までが基本となります。ただし11歳からはゼーフェンベルヘン、13歳からはティルブルフで学校生活を送り、途中でズンデルトの家を離れていました。1868年に学校を辞めて実家へ戻り、1869年7月にグーピル商会で働くためズンデルトを離れました。
ゴッホは子どものころから絵の才能があったのですか?
少年時代に絵を描き、ティルブルフでは正式な素描教育を受けていました。1867年の素描も残っています。しかし、幼少期から周囲が認める天才画家だった、あるいは最初から画家を目指していた、と考える根拠はありません。本格的に画家を職業として選ぶのは27歳になった1880年ごろです。
ゴッホはいつ画家になったのですか?
一般には1880年、27歳のころが画家としての出発点とされます。夏から秋にかけて素描の訓練を本格化し、10月にはブリュッセルで画家との接点を求めながら、販売できる素描を描いて自分の仕事から収入を得ることを具体的な目標としていました。
まとめ|ズンデルトは「天才画家の伝説」ではなく、ゴッホの出発点
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダ南部ズンデルトの牧師の家庭に生まれました。現在のファン・ゴッホの家は生家そのものではなく、1903年に取り壊された旧牧師館の跡地に立つ施設です。
少年ゴッホはズンデルトの自然に親しみ、ゼーフェンベルヘンの寄宿学校、ティルブルフのHBSで学びました。16歳で画商グーピル商会へ入り、美術の世界に接しますが、すぐ画家になったわけではありません。その後、教師、書店員、伝道師などを経験し、長く自分の進む道を探した末、1880年、27歳でようやく美術を自分の仕事として選びます。
『ひまわり』や『星月夜』だけを見ていると、ゴッホは強烈な個性を持って突然現れた画家のように感じられるかもしれません。しかし、その出発点にあるのは、ズンデルトの田園を歩いた少年と、何度も進路を変えながら27歳から一から絵を学び直した青年の姿です。その長い助走を知ることで、ゴッホの作品もまた違って見えてきます。
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