ルノワールの晩年を語るとき、最も有名なのは「重いリウマチで手が動かなくなり、筆を手に縛り付けて描いた」という話です。しかし、この説明には事実と後世の脚色が混ざっています。ルノワールは50歳前後から関節リウマチを発症したと考えられ、60代以降に症状が急速に進行しました。それでも1919年、78歳で亡くなるまで絵を描き続けています。ただし、筆を包帯で手に固定していたわけではありません。写真、家族の証言、書簡を検討した医学研究からは、変形した手に筆を差し込んで使い、包帯は主に汗を吸収して皮膚を保護するために巻かれていたことが分かっています。
さらに重要なのは、晩年を「病気に負けず描いた感動物語」だけで終わらせないことです。ルノワールは南フランスのカーニュ=シュル=メールに制作拠点を築き、地中海の風景、裸婦、神話、家族を描き、彫刻にも進出しました。晩年の豊満な裸婦や暖かな色彩は長く評価の分かれる作品群でしたが、20世紀に入るとマティス、ピカソ、ボナール、マイヨールら次世代の画家たちにも注目されます。病気が進んだ時期は、同時にルノワールが「印象派の巨匠」からさらに別の絵画へ進んだ時期でもありました。
ルノワールの生涯全体については「ルノワールとは|代表作と人生」、印象派の成立や特徴については「印象派とは」で詳しく解説しています。
関節リウマチはいつ始まったのか
ルノワールには現在の意味での診療録が残っていません。そのため、後世の医学者が本人を診断したわけではなく、写真、書簡、家族や友人の記録から症状を復元しています。医学誌『BMJ』に掲載された研究では、発症は1892年頃、ルノワールが50歳前後だった時期と推定されています。1896年の写真では手指の関節に腫れが見られますが、1901年にはまだパイプを普通に持つことができました。ところが1903年頃から症状が急速に進み、手指だけでなく右肩などにも大きな障害が生じたと考えられています。
移動能力も段階的に低下しました。1901年頃には杖を使い、1908年には二本の杖が必要になり、1912年頃からは車椅子を常用するようになります。背中にはリウマチ性結節ができ、晩年には手術も受けました。1918年には足の壊疽も記録されています。つまり、現在残る「車椅子に座ったルノワール」の姿は突然始まったものではなく、およそ20年以上にわたって進行した病気の最終段階でした。
一方で、病気の発症時期とルノワールの画風転換を混同してはいけません。ルノワールが印象派的な筆触から輪郭と人体の構造を重視する方向へ進んだのは1880年代で、関節症状が明確になる以前です。1881年のイタリア旅行でラファエロやルネサンス絵画に接し、アングルなどフランス古典主義も見直していました。「リウマチで手が動かなくなったため画風が変わった」という説明では、ルノワールが何十年も続けた造形上の探究を説明できません。
なぜ南フランスのカーニュへ移ったのか
関節の痛みを抱えるルノワールにとって、冬の寒さは大きな負担でした。19世紀末から南フランスで過ごす機会を増やし、1903年頃にはカーニュ=シュル=メールを生活拠点の一つとするようになります。そして1907年6月、妻アリーヌとともに「レ・コレット」と呼ばれる広大なオリーブ畑を購入しました。
レ・コレット購入には療養以外の理由もありました。古いオリーブの木々が伐採され、土地が開発される計画を知ったことがきっかけだったと伝えられています。現在のカーニュ市の資料でも、アリーヌが土地の購入を強く勧め、1907年6月28日にルノワール家の所有となった経緯が記録されています。つまりレ・コレットは、暖かな気候を求めて選ばれただけの「療養所」ではありません。ルノワールが描きたい自然そのものを守り、その中で生活するために選ばれた場所でもありました。

1908年には建築家ジュール・フェーヴルの設計でネオ・プロヴァンス様式の住宅が建てられました。当時としては充実した水道、電気、暖房を備え、家には二つのアトリエが設けられ、のちには庭にも制作場所が加わりました。現在のルノワール美術館は、この家と庭を保存したものです。オリーブ畑、農家、丘陵、地中海の光は、そのまま晩年の風景画の主要なモチーフになりました。
メトロポリタン美術館所蔵の《レ・コレット、カーニュの農場》では、樹木が前景を覆い、その向こうに農家と丘陵がのぞきます。対象の輪郭を一つずつ閉じるのではなく、黄、緑、橙、青の筆触が重なり、建物まで周囲の光に溶け込んでいます。南仏移住は病気への対応であると同時に、晩年の絵画を成立させた環境の獲得でもありました。
病気でもどうやって描いたのか
症状が進行すると、ルノワールは制作を身体に合わせるようになります。パレットを長時間手で支えることができなくなると、膝やイーゼルの縁に置き、さらに車椅子に取り付けた台を利用しました。大きな画面を描くためには、キャンバスの位置を変える仕組みや周囲の助けも必要でした。筆を交換するときも家族やモデル、助手が手を貸しています。
それでも、実際に筆を動かしたのはルノワール本人です。1915年には劇作家・映画監督サシャ・ギトリが《Ceux de chez nous》で制作中のルノワールを撮影しています。現在残る映像では、車椅子に座ったルノワールがモデルを前にして絵筆を動かす姿を見ることができます。晩年の制作方法を考えるうえで、後世の逸話よりもはるかに直接的な記録です。
「筆を手に縛り付けた」は本当か
ルノワールについて最も広く流布しているのが、「動かない手に筆を縛り付け、執念で描き続けた」という話です。しかし、1997年の医学研究はこの説明を否定しています。変形した手に筆を自分だけで持たせることが難しかったため、周囲の人が筆を渡し、親指と手の間にできた隙間へ差し込むようにして使っていました。筆そのものを包帯で固定していたわけではありません。
晩年の写真で手に巻かれている布には別の役割がありました。手のひらにたまる汗を吸収し、皮膚がふやけたり傷ついたりするのを防ぐためだったと、孫ポール・ルノワールの証言をもとにした研究は説明しています。したがって、「筆を手に縛った」は、実際の補助方法を劇的に単純化した俗説と考えるのが妥当です。
この違いは小さくありません。「手が完全に使えず、筆を縛り付けた画家」と考えるのと、「重い障害がありながら、道具と環境を適応させて自ら筆を動かした画家」と理解するのとでは、晩年の制作に対する見方そのものが変わります。
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晩年の裸婦はなぜ大きく豊満になったのか
1910年代のルノワールは、戸外の裸婦という主題に改めて集中します。この時期の女性像は、1870年代のパリの女性たちとも、1880年代の輪郭の強い裸婦とも異なります。身体は大きく、丸く、重量感を増し、輪郭は背景へ柔らかく溶け込みます。赤みを帯びた肌、黄土色、深い緑、青が画面全体を循環し、人間と自然を同じ色彩の世界に置こうとする表現が強くなりました。

ポーラ美術館所蔵の《水浴の後》では、裸婦の肌に置かれた暖色と、周囲の緑や黄色が互いに呼応しています。人物を背景から切り抜くのではなく、身体を自然の光の中に溶かしていく構成です。ポーラ美術館も、南フランスの強い光、豊かな自然、モデルの生命感が、最晩年まで続く「人物と風景の調和」につながったと位置づけています。

こうした裸婦像の背景には、ティツィアーノやルーベンスへの関心があります。若いころのルノワールが描いた近代パリの具体的な時間や場所から離れ、晩年には古典絵画のような「いつの時代とも特定できない人物と自然」を目指すようになりました。これは病気によって細部を描けなくなった結果というより、1880年代以来続けてきた古典絵画との対話が、晩年に大きく展開したものと考える方が美術史上の流れに合います。
アンドレ・ウシュリングと最晩年のモデル
1915年はルノワールにとって厳しい年でした。第一次世界大戦で息子たちは負傷し、妻アリーヌも亡くなります。その頃にルノワールと出会ったと考えられているのが、若いモデルのアンドレ・ウシュリングです。「デデ」の愛称で呼ばれた彼女はニースの装飾美術学校でモデルをしており、1915年頃からルノワールの重要なモデルとなりました。
アンドレは最晩年の女性像にたびたび登場し、《浴女たち》へつながるモデルの一人にもなります。ルノワールの死後、1920年に次男ジャン・ルノワールと結婚し、のちにカトリーヌ・エスランの名でジャンの初期映画に出演しました。つまり、ルノワール最晩年の絵画と、息子ジャンが切り開いた映画の世界は、一人のモデルを介してもつながっています。
《浴女たち》は最晩年の「絵画的遺言」
晩年の到達点とされるのが、オルセー美術館所蔵の《浴女たち》です。1918年から1919年にかけて描かれた縦110cm、横160cmの大作で、前景に二人、奥に三人の裸婦が置かれています。モデルたちはレ・コレットのオリーブの庭でポーズを取りましたが、完成した画面には1910年代の生活を示す衣服や建物はほとんどありません。

オルセー美術館はこの作品を、ルノワール晩年の探究を象徴する「絵画的遺言」と位置づけています。地中海の風景は古代ギリシャやイタリアの古典世界を思わせ、人物にはティツィアーノやルーベンスを連想させる豊かな量感があります。しかし、古典作品をそのまま模倣しているわけではありません。輪郭を溶かし、色彩の振動によって肉体と風景を一体化する方法は、長い画業の末に到達したルノワール独自のものです。
この時代の作品は、かつて「印象派時代より衰えた」と見られることもありました。しかし現在では評価が大きく変わっています。オルセー美術館が2009年から2010年に開催した「Renoir au XXe siècle」展は、晩年を独立した重要な時期として取り上げ、ピカソ、マティス、ボナール、マイヨールらへの広がりを検証しました。メトロポリタン美術館も、晩年の古典的で記念碑的な人体表現がピカソら前衛世代から評価されたことを指摘しています。
なぜ晩年に彫刻を始めたのか
1910年代のもう一つの重要な仕事が彫刻です。画商アンブロワーズ・ヴォラールの働きかけにより、ルノワールは若い彫刻家リシャール・ギノと共同制作を始めました。ギノはアリスティド・マイヨールのもとで仕事をしていた彫刻家で、粘土による実際の造形を担いました。ルノワールは絵や素描を示し、形について指示を与え、二人の共同作業によって作品が作られていきました。

《勝利のヴィーナス》は共同制作を代表する作品です。豊かな肉体をもつ女神像は、同時期の裸婦画を立体へ移したようにも見えます。ここでも「身体が不自由になったルノワールの代わりにギノが手を動かした」とだけ説明すると不十分です。ギノは単なる助手ではなく、造形に自らの彫刻家としての判断を加えていました。
この点は後世、法的にも争われました。1971年、パリ大審裁判所はギノをルノワールとの彫刻作品の共同作者と認定し、控訴審でも維持され、1973年には破毀院によって確定しています。現在、オルセー美術館やナショナル・ギャラリー・オブ・アートなどが「Auguste Renoir and Richard Guino」と二人の作者名を併記しているのは、この共同制作の実態を反映したものです。
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《母子(ルノワール夫人と息子)》は、1915年に亡くなった妻アリーヌを記念する墓碑の構想に関係する作品です。ルノワールがかつて描いた、アリーヌが長男ピエールに授乳する母子像を立体化しました。晩年の彫刻は新しい分野への気まぐれな挑戦ではなく、女性、裸婦、母子、古典神話といった生涯にわたる主題を別の素材へ展開したものだったのです。
1919年、最後まで「現役の画家」だった
1919年のルノワールは、単に死を待つ老画家ではありませんでした。《浴女たち》を完成させ、静物や人物も描き続けています。レ・コレットのルノワール美術館には1919年頃の《リンゴとアーモンドのある静物》も残されており、最晩年まで制作が継続していたことが作品そのものから確認できます。
同年には、自作が歴史的巨匠たちの作品とともにルーヴルに展示される時代も目にしました。印象派としてサロンや保守的な美術界に挑戦した若い画家が、生前にフランス美術史の一部として位置づけられるところまで生きたことになります。
ルノワールは1919年12月3日、カーニュ=シュル=メールで78歳の生涯を閉じました。死の直前にも花を描いたという逸話や、「ようやく絵が分かり始めた」と語ったという有名な言葉が伝えられていますが、こうした最期の言葉は伝承として扱うべきでしょう。それより確かなのは、1919年制作の作品が現存し、最晩年まで絵筆を置かなかったという事実です。
晩年のルノワールを「病気」だけで見ない
ルノワールの関節リウマチは重く、晩年の生活と制作方法を大きく変えました。しかし、それは作品の説明そのものではありません。手の変形に合わせて筆やパレットの扱いを変え、車椅子でも制作できる環境を整え、家族やモデルの助けを借りながら絵を描き続けました。その一方で、作品では地中海の自然、古典絵画、豊かな裸婦、神話、彫刻という新しい課題へ進んでいます。
「筆を手に縛り付けても描き続けた」という一文だけでは、ルノワールの晩年は理解できません。より重要なのは、身体の条件が大きく変わっても、制作の方法を変え、美術上の探究そのものは止めなかったことです。そして、その最晩年の作品がマティスやピカソら次の世代から注目され、20世紀美術の中で改めて意味を持ったことです。ルノワールの晩年は「衰えの時代」ではなく、長い画業の末に古典と近代をもう一度結び直した時代として見る必要があります。
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