クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』とは|意味・第九・ウィーン分離派との関係を解説

グスタフ・クリムトの《ベートーヴェン・フリーズ》は、1902年の第14回ウィーン分離派展、いわゆる「ベートーヴェン展」のために制作された全長34メートルを超える壁画です。単なるベートーヴェンの肖像画ではありません。人間が幸福を求め、苦しみや欲望に阻まれ、それでも芸術を通して歓喜と愛へ向かう過程を、三つの壁面に展開した作品です。

作品の構想には、ベートーヴェンの交響曲第9番と、それを「人類が幸福を求めて闘い、芸術によって救済へ向かう物語」として読むリヒャルト・ワーグナーの解釈が深く関わっています。この記事では、作品そのものの意味、壁面全体の構成、敵対する力、最後の抱擁、使用素材、解体後の来歴、修復、現在の展示までを一つずつ見ていきます。ウィーン分離派という芸術運動全体については、ウィーン分離派とは|クリムトと世紀末ウィーンの芸術運動を解説をご覧ください。

《ベートーヴェン・フリーズ》 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 全長34.14m ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 全長34.14m ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

『ベートーヴェン・フリーズ』とは

《ベートーヴェン・フリーズ》は1901~02年に制作された壁画で、ベルヴェデーレの作品記録では、カゼイン絵具、漆喰による盛り上げ、鉛筆、ガラス、真珠母などの異素材、金箔をモルタル上に組み合わせた作品とされています。高さは約2.15メートル、全長は34.14メートルに及びます。

重要なのは、この作品が独立した一点の絵ではなく、分離派会館の一室を歩きながら見ることを前提にした壁面作品だという点です。左壁から始まる「幸福への憧れ」、正面壁の「敵対する力」、右壁の「芸術」「楽園の天使の合唱」「抱擁」へと視線が移動することで、一つの物語が進みます。

1902年第14回ウィーン分離派展とベートーヴェン展

第14回ウィーン分離派展は1902年4月から6月にかけて開催され、ベートーヴェンへのオマージュとして構成されました。ヨーゼフ・ホフマンの指揮のもと21人の芸術家が参加し、会場中央にはマックス・クリンガーの巨大なベートーヴェン像が置かれました。クリムトのフリーズは、来場者が最初に入る左側の展示室を取り囲むように設置されました。

展覧会の目標は、絵画、彫刻、建築、音楽を一つの主題のもとに統合することでした。つまり《ベートーヴェン・フリーズ》だけを眺めるのではなく、会場空間、クリンガーの彫刻、装飾、そしてベートーヴェンの音楽を総合して体験する「総合芸術」が企図されていたのです。この点で、作品はクリムトの生涯と代表作を考えるうえでも転換点となりました。

第九とワーグナーの解釈|幸福への憧れ

作品の精神的な骨格となったのが、ベートーヴェンの交響曲第9番と、ワーグナーによるその解釈です。第九の終楽章ではシラーの詩「歓喜に寄す」が歌われ、人類が歓喜のうちに結ばれるという理念が示されます。クリムトはこれをそのまま場面化するのではなく、「幸福への憧れ」が試練を越えて成就へ向かう象徴的な物語に置き換えました。

《ベートーヴェン・フリーズ》左壁「幸福への憧れ」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×300cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》左壁「幸福への憧れ」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×300cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

左壁には空中を漂う女性像が描かれます。ベルヴェデーレはこれらを、人間の「幸福への憧れ」を表す存在として説明しています。物語はここから始まり、弱い人間が救いを求め、武装した強者が前へ進む構成へ続きます。

《ベートーヴェン・フリーズ》左壁「弱い人類の苦しみ」と「武装した強者」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×276cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》左壁「弱い人類の苦しみ」と「武装した強者」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×276cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

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敵対する力|テュポーン、ゴルゴン、欲望

物語の最大の障害が、正面壁に現れる「敵対する力」です。中心には巨大な猿のような姿のテュポーンが置かれ、その周囲にゴルゴンたち、病、狂気、死、欲情、淫蕩、不節制など、人間を幸福から遠ざける力が集められています。ここでクリムトは、古代神話の怪物と近代人の内面にある不安や欲望を一つの壁面に重ねました。

《ベートーヴェン・フリーズ》正面壁「敵対する力」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×315.5cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》正面壁「敵対する力」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×315.5cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

テュポーンの左右に配された女性像は、甘美さと不気味さを同時に持ちます。裸身、蛇、髪、金色の装飾が結びつき、魅惑と危険が切り離せない形で表されています。怪物を単純な「悪」として描くのではなく、人間自身が引き寄せられてしまう欲望として描いたところに、この作品の複雑さがあります。

「ゴルゴン」《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作 グスタフ・クリムト 1902年 ウィーン・ミュージアム所蔵 Wien Museum/CC0
「ゴルゴン」《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作 グスタフ・クリムト 1902年 ウィーン・ミュージアム所蔵 Wien Museum/CC0

芸術が幸福への道をひらく

右壁に進むと、構図の性格が変わります。敵対する力の重苦しさを離れ、人間の憧れは「詩」によって慰められ、さらに「芸術」の領域へ導かれます。ここでは芸術は娯楽ではなく、人間を理想の世界へ導く媒介として位置づけられています。

《ベートーヴェン・フリーズ》右壁「幸福への憧れは詩によって癒やされる」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×516cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》右壁「幸福への憧れは詩によって癒やされる」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×516cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

分離派がベートーヴェン展で目指したのも、まさに芸術の統合でした。建築、絵画、彫刻、装飾、音楽を分けず、一つの体験として人間に働きかけるという考え方です。《ベートーヴェン・フリーズ》は、その思想を題材だけでなく展示方法そのものでも示した作品でした。

「歓喜」と「抱擁」|第九の終結とつながる場面

《ベートーヴェン・フリーズ》右壁「芸術・楽園の天使の合唱・抱擁」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×481cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
《ベートーヴェン・フリーズ》右壁「芸術・楽園の天使の合唱・抱擁」 グスタフ・クリムト 1901~02年 カゼイン絵具・漆喰・鉛筆・ガラス・真珠母・金箔など/モルタル 215×481cm ベルヴェデーレ所蔵・ウィーン分離派会館に永久貸与 Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0

物語の終点では、楽園の天使たちの合唱を背景に男女が抱き合います。ここで連想されるのが、第九の終楽章に現れる「歓喜」と「全世界への接吻」という理念です。苦しみと欲望を越えた先に、芸術、歓喜、愛が結びつく構成になっています。

この抱擁は、のちのクリムト『接吻』を思わせます。ただし、両者は同じ作品ではありません。《ベートーヴェン・フリーズ》の抱擁は、個人的な恋愛場面というより、人類が求める幸福の成就を象徴する終結部として機能しています。

絵具だけではない|金箔・ガラス・真珠母を使った素材

この作品は、通常の油彩画とは大きく異なります。カゼイン絵具に加え、漆喰を盛り上げ、鉛筆による線を残し、ガラスや真珠母などの素材を貼り付け、金箔を用いています。人物の身体は細長く平面的に処理される一方、表面には物質的な凹凸と反射が生まれます。

この異素材の使用は、後年の黄金様式へ向かう重要な段階でもあります。平面性、装飾文様、金色、写実的な身体と抽象化された背景の組み合わせは、クリムトの1900年代の作品に繰り返し現れます。クリムトの画風全体については、クリムトとは|生涯・代表作・黄金様式をわかりやすく解説で詳しく紹介しています。

一時展示の作品がなぜ残ったのか

《ベートーヴェン・フリーズ》は、もともと恒久保存を前提とした作品ではありませんでした。1902年の展覧会が終われば、ほかの装飾画と同じように撤去・破棄される予定でした。ところが翌1903年にクリムトの大規模な回顧展が計画されたため、しばらく壁面に残されることになりました。

1903年、作品は収集家カール・ライニンガウスに購入され、壁から外すため8つの部分に切り分けられました。その後約12年間ウィーンの家具倉庫に保管され、1915年にはクリムトの主要な支援者だったアウグスト・レーデラーへ売却されます。長い保管と移動を繰り返したことで、作品の保存状態は大きく損なわれました。

所有・修復・1986年の再展示

レーデラー家はユダヤ系の収集家一家で、1938年にはナチ体制下で資産を奪われました。戦後、作品は相続人エーリヒ・レーデラーへ戻り、1972年にオーストリア共和国が購入しました。その後、連邦記念物局ウィーンのマンフレート・コラー率いるチームによって、約10年をかけた修復が行われました。

1985年の分離派会館改修では、作品を保存しながら公開するため地下に専用室が設けられました。1986年から《ベートーヴェン・フリーズ》は、ベルヴェデーレからの永久貸与という形で、もともと作品が生まれたウィーン分離派会館に再び常設公開されています。

現在はどこで見られるのか

現在、《ベートーヴェン・フリーズ》はウィーン分離派会館の地下展示室で常設公開されています。作品の所有・管理上はベルヴェデーレのコレクションに属し、分離派会館へ永久貸与されています。分離派会館は現在も現代美術の展覧会場として使われており、歴史的なフリーズと新しい展示が同じ建物の中に共存しています。

現地を訪れる場合は、臨時休館や展示室の運用変更があり得るため、ウィーン分離派公式サイトのベートーヴェン・フリーズ案内を事前に確認するのが確実です。

『ベートーヴェン・フリーズ』の見どころ

この作品を見るときは、人物を一人ずつ読むだけでなく、左壁から正面壁、右壁へと移動する流れを見ることが重要です。「幸福への憧れ」が出発点となり、「敵対する力」に妨げられ、「芸術」を通して「歓喜」と「抱擁」に至る。三方の壁全体が、一つの精神的な旅として設計されています。

また、写真では平面的に見える部分にも、実物では漆喰の盛り上げ、金属の反射、ガラスや真珠母の質感があります。クリムトは絵画を「窓」のような奥行きのある空間としてではなく、壁そのものを光と文様で変化させる表面として扱いました。《ベートーヴェン・フリーズ》は、ウィーン分離派の総合芸術思想と、クリムトの黄金様式へ向かう実験が交差した作品です。

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