2025年1月15日から伊勢丹立川店で2人展を開催する画家の加納芳美さんに、ライターのイチノセイモコがインタビューしました。それではさっそくインタビューをお楽しみください!
画家・加納芳美さんにインタビュー 「強くて弱いあなた」は美しい!
「前は海、後ろは山、動物がたくさんいる場所で育った」
――加納芳美さんといえば、様々な動物をパッチワークする作品(布だけでなく異素材や画材を切り貼りした表現)が印象的です。今回は、どうしてこのような作風で制作されているのかに迫りたいです。もともと動物がお好きだったのでしょうか?
私は島根県の松江市で生まれ、人よりも動物の方が多い田舎で育ちました。目の前には海、後ろが山、たくさんの動物がいて自然がいっぱい、そんな所でした。
――どんな動物がいたのですか?
今まで飼ったのは、犬2匹、猫1匹、ハムスター2匹。昆虫や爬虫類もたくさん飼いました。動物が好きなんです。人間の友だちと一緒に遊ぶのと変わらない感覚で、動物と過ごしていました。
カエルはその辺にいっぱいいるのに、自宅に連れて帰っていましたね。捨てられて、うろうろしている動物の子供を拾ってきては、こっそりかくまっていました。親に見つかると叱られるのですが、泣いて許可をもらっていたんです。
――その頃から絵も描いていましたか?
幼少期から、紙とペンさえあれば、ずっと描いていました。それ以外の時間は、ぼーっとしていたと思います。「何を考えてるかわからないよ」と、よく言われていました(笑)
両親がパワフルで、しょっちゅう喧嘩していましたね。喧嘩が始まったら私は犬小屋に逃げて、犬と一緒に過ごしていました。
――別の部屋ではなく、なぜ犬小屋に?
犬は両親が喧嘩していてもケロッとしているんです。すると自分も「たいしたことない」と思えました。それが癒しなのか、勇気をもらっていたのかはわからないですが。それで、いつも動物たちと一緒でした。
我が家では、私が散歩担当でした。散歩に出る辺りの時間は、帰宅する小学校の先生によく出会うんです。先生は「あなたはいつも満面の笑顔だね」とおっしゃっていました。自分では笑顔であることに気がついていなかったのですが、「犬が笑っているから私も」となっていたのでしょう。とにかく一緒にいるだけで楽しかったですね。
――動物を飼っていて印象に残っていることはありますか?
動物たちからは、色々なことを学ばせてもらったと感じています。
猫とハムスターを同時に飼っていた時のこと。ハムスター小屋を掃除しようと、ハムスターを箱に隔離しました。小屋を洗い、ハムスターを戻そうと蓋を開けた瞬間、飼い猫がハムスターをくわえて、一気に山に走って行ったんです。私は猫が隣で気配を消していたことに全く気づかなかったんですよ。外に出て「ニャーコ!」と猫の名前を呼び続けたのですが、帰ってこない。
猫はネズミを食べると聞いていたけども…。それが我が家の猫とハムスターの間で起きてしまって、頭の中が真っ白になりました。私が愛するものたちが食物連鎖の中にいて、「生き物ってそうなんだ。生きるってこういうことか」と思い知らされました。
猫は猫で死に際を見せない動物だし、居なくなると、こちらが悟るしかありません。命をコントロールする術は人間には無いんですよね。
小さい動物たちでも、生きることにはとても忠実です。動物たちは、幼い私に色々なことを教えてくれました。
イラストレーターを志した学生時代
――絵の道に進もうと思ったのは、いつ頃からだったのでしょうか?
子供の頃は漫画が大好きで、「自分は漫画家になるんだ」と思っていました。当時は絵画や芸術という世界を知らなかったので、漫画家を目指したんですね。でも、「実際に漫画を描いてみよう!」と試しに描いてみた時に、自分にはストーリーを書く才能が無いことに気づきました。でも絵は好きだったので、次は「イラストレーターを目指そう」と考えるようになったんです。
イラストレーターになるために、中学生時代は、いろんなものを模写するようになりました。マンガやアニメ、映画などを模写して、色や形を自分のものにしていきましたね。描いたものは担任の先生に見せていました。担任が美術の先生で、いつも褒めてくださったので、なおさら頑張れましたね。
その後、高校で美術部に入り、油絵を始めました。イラストレーターになりたいという夢は、もちろん、その頃も持っていましたよ。
――その後、専門的にイラストの勉強などをなさったのでしょうか?
「実際、フリーでイラストレーターになることは、やはり難しいのではないか」と思い、現実的な進路とのはざまで悩みました。学校の先生に相談しながら悩んだ末、私は公務員の道を選び、1年浪人して公務員試験に合格しました。
ただ、浪人期間にまったく絵を描かなかったことで、精神的に落ち込んでしまったんです。実は、絵を描かないで暮らすのは、その時が人生で初めてのことでした。試験に受かったのはいいのですが、もともと「絵を描いて生きていきたい」と思っていたのに、1年間、想い描いていた生活とは違う暮らしをしたことで精神的に辛くなってしまったんですね。それで「これはダメだ。私は結局、絵がやりたいんだ」とわかり、公務員を辞退して、イラストレーターへの道を目指すことにしました。
――確信したのですね。
とはいえ、厳しい世界ですから、「イラストレーターになるために絵を学びたい」と両親に話しても、もちろん反対されました。でも、私の意志が固かったので、自分でアルバイトして費用を工面することを条件に許してもらいました。
学校を決める時、今まで取り寄せた資料を見ながら、「イラストの専門学校に行きたいです」と高校の美術の先生に言ったのですが、「基礎として4年制の大学で学んだほうがいい。イラストは2次元だけど、長く使える土台を作るために彫刻を学ぶといい」と、彫刻科を勧められたんです。
――イラストをやりたい立場からすると、彫刻というのは意外な選択肢でしたね。
そうですね。私も驚いたのですが、先生は「知り合いの彫刻家に頼みに行こう。そこでアルバイトさせてもらいながら学びなさい」と、知り合いの彫刻の先生のところへ一緒に行ってくださいました。
その後、私は彫刻の工房でデッサンを見てもらったり、粘土で彫刻を作らせてもらったりしました。アルバイトをしながら。1年間浪人して、希望した広島の大学に入りました。
大学では木や石を掘ったり、石膏に触ったり、粘土を練ったり、体を動かして制作しました。イラストとは全然、違う世界でしたね。いろんな素材や制作方法に触れたことが、その後、自分の引き出しとなり、長い画業のなかで役に立っています。
――フリーのイラストレーターとしては、どのようにスタートされたのでしょうか?
大学2年の時、先生から「舞台芸術の演出をしている知人が、次回の舞台背景を描ける人を探しているが、やってみない?」と声をかけていただき、「ぜひ、やらせてください!」と即答しました。
それは、子供向けに年に数回、童話に絵や音楽を取り入れた舞台を作るプロジェクトでした。舞台は好評で、その一員として携われたことは私の財産となりました。それがきっかけとなり、イラストレーターとしてスタートすることができたからです。その後、大学を卒業して10年以上を広島で過ごしました。
「強くて弱い、そんな自分に自信を持ちたい」
――画家への転身のきっかけは何だったのでしょう。
イラストレーターは、基本的に際立つ個性があって選ばれます。でも私は、求められるテーマに合わせてタッチを変える作風でした。この話は切り絵みたいなタッチとか、こっちの話はちょっとクレヨンっぽいガサガサした感じとか。
広島にいて7、8年くらい経った頃、「あ、このイラストレーターさんの作品、よく見るな。」と思った時に、「あれ? 私はどんな風に見られてるんだろう?」と疑問が湧いてきたんです。
今まで「どんなタッチでも描けます」と売り出していたのですが、「本当にそれでいいんだろうか?」と引っかかるようになりました。
それからは、描けば描くほど、自分の個性がよくわからなくなっていました。どの作風も好きだし、得意だと言えましたが、葛藤を密かに持ち続けて、自分なりの答えを探すようになっていたんです。
イラストレーターの仕事を続けながら数年たった頃、知人が多かった大阪へ移転することを決めました。「環境を変えて画家へ転身し、個展を開く。自分の世界を打ち出したい」と考えたからです。
――思い切った転身でしたね。それからどのような作品を描いていたのでしょうか?
大阪に行って最初の2年ぐらいは、正直、まだ画風が定まっていませんでした。それでも、年に1、2度は個展を開催するようにしていましたね。自分の現在地をお客様に見ていただきながら、自分でしか作れない作品を自分にもとめていました。
そんな中、コロナ禍が始まり、引きこもり生活がスタートして個展もできなくなってしまったんです。行き詰まっていました。
――状況を打開したきっかけは?
そんなある時、店先のショーウインドーでパッチワークのテディベアを見かけ、「これだ!」とひらめきました。
パッチワークって、柄が違う布で作りますよね。「私が今まで描いてきた様々な画風やタッチを、パッチワークのように1つにまとめよう」と思ったんです。それまでは作風を1つに絞らなければ、と考えていたのですが、「多いままでいい」と、窮屈さから抜け出せた気がしました。
――それからパッチワークの作品が生まれたのですね。
帰って、手当たり次第に、いろんなものを組み合わせて描きましたね。捨てようとしていた洋服、家にあったショッピングバッグなどを切って貼って、切って貼って…と手を動かしました。清掃業者さんから、「捨てないで」と廃棄前のカーペットをいただいて来たこともあります。
素材だけでなく、技法も研究して画材を組み合わせました。油性と水性の違いを利用して描いたり、アクリル絵の具で描いた上にクレヨンで描いたり、と。
そうやって初めて作ったのが「Hippopotamus(カバ)」でした。
それをinstagramで発信したのが2019年でした。反響がすごく良くて、そこからようやく画家としてのスタートを切れたと感じます。企業とのコラボレーションや、イベントなどで作品が売れるようになりました。今では「私らしい」と思える作品を、みなさんに楽しんでいただいています。かつて「自分らしい作品とは」と葛藤していたことに対して、自分なりに答えを出せたようで手ごたえを感じていますね。
――パッチワークの動物が、多くの人に受け入れられるのはなぜでしょうか?
「絵のように、強くて弱い自分に自信を持ちたい。」そう私におっしゃったお客さんがいました。
誰しもが生きていく中で、強い自分、弱い自分、強がりな自分、素直な自分といった、さまざまな側面を常に抱えています。それを私が作ったパッチワークの色や形に、見た人が投影するからかな、と感じます。どれか一つが欠けても、その人にはなり得ません。さまざまな部分が重なった絵を遠くから見ると、美しい一人の人間になっています。
イラストレーターの仕事を続けていた頃、決断するのはいつも自分自身でした。失敗するのではないか、という恐れの気持ちや自信の無さから、決断を恐れてしまうこともあったんです。そういったネガティブな面を持つ一方で、自信や喜びというポジティブな面も持っているから、自分はこれまでやって来れたんですよね。だから作品には汚い色も使いたいし、綺麗な色も使いたい。そういうのが一緒になった時に、すごく綺麗だなって思う作品にしていきたいです。
幼い頃、私を助けてくれたように、動物は生き物本来のパワーを持っています。私はライオンを見るだけで乗り移ったように自信が出ますし、ごろごろしている猫をなでると、自分もごろごろしたくなりますね。動物は周りに与えるパワーを持っているから、私が動物を描いたり作ったりする時にも、作品そのものにパワーが乗るんですよ。
――本日は、ありがとうございました。
(聞き手・文/イチノセイモコ)
加納芳美さんのプロフィール
加納芳美 Yoshimi Kanou
鳥取県生まれ、島根県育ちの加納芳美は、自宅の前が海で裏が山という環境で育ちました。この自然に囲まれ育った体験が彼女の作風に大きな影響を与えています。彼女の作品の多くは動物を題材にしており、彫刻を専攻した経歴を反映して、布や紙などの異なる素材が立体的に貼り付けられています。さらに多くの色彩や模様がレイヤーとして描かれ、様々な素材を調和させる役割を果たしています。
学生時代からイラストレーターとしてキャリアを積んできた加納芳美は、2016年に画家へ転向しました。彼女の明るい色彩で表情豊かに描かれた動物の作品は多くのファンを魅了しており、Instagramのフォロワーは6,000名を超えています。これまで一般企業とのコラボレーションで展示を行ってきましたが、今後はギャラリーのお客様にも楽しんでいただける機会が増えることでしょう。
2005 広島市立大学芸術学部 美術学科彫刻専攻卒業
2016-18 個展 大阪
2022 月刊美術 美術新人賞デビュー 入選
2023 個展 東京
作品解説 加納芳美「戦いのとき」
「戦いのとき」
加納芳美
ミクストメディア、S25号(80.3×80.3cm)
新しい事に挑むとき、私たちがまず向き合わなければならないのは、自分自身の弱さや恐怖だ。人は知性があるゆえに、未来への不安を抱いてしまう。何の根拠もないにもかかわらず、その不安は容赦なく襲いかかってくる。
しかし、このライオンの鋭い眼光は、その不安を自らが生み出した幻影であると見透かし、心を丸裸にする。ライオンの力強い視線の前で自分の脆さや弱さを受け入れることができた時、すべてが反転し、本来持っている自分の強さに気づくことができる。
次の瞬間、ライオンが自分そのものになったような感覚に包まれる。それはまるで、鏡を通して自分を見つめているような体験。力強く前を見据え、一歩を踏み出すパワーが自分の中から湧き上がってくるのを感じることができる。
(作品解説・福福堂編集部)
加納芳美さんの展覧会情報
午後の美術館 ~中上佳子・加納芳美 2人展~
2025年1月15日(水)~21日(火)
10:00~18:30 [最終日17:00終了]
伊勢丹立川店 8階 アートギャラリー〈入場無料〉
東京在住の日本画家・中上佳子氏と、大阪在住の画家・加納芳美氏による当店初の展覧会です。自然体の2人のアーティストが描く、カラフルで暖かい世界を、食後のひとときのようなリラックスした気持ちでお楽しみいただければ幸いです。
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