日本画家 柏木菜々子さん インタビュー│廃墟を背景に動物を描く画家 生きているものにも無くなったものにも持つ愛情

2024年11月13日から埼玉県の伊勢丹浦和店で個展を開催する日本画家・柏木菜々子さんにイチノセイモコがインタビューしました。――それではさっそくインタービューをお楽しみください! 

日本画家 柏木菜々子さん インタビュー

転校が多く周りに馴染めなかった小学校時代、お出かけ先は動物園

――本日はよろしくお願いします。まず、柏木さんは子供の頃、どのように過ごしていましたか?

やっぱり絵を描くのが好きな子供でしたね。物心ついた時から、落書きで描いていました。幼稚園の友達と、外で鬼ごっこしたり、ブランコに乗って遊ぶのも好きでしたよ。それなりに外で遊ぶこともあったけども、やっぱり絵を描くのが1番好きでしたね。動物や家族、友達の絵などを描いていました。
小学校低学年までだったと思いますが、休日には、よく両親が動物園へ連れて行ってくれました。1番多いお出かけ先は動物園でしたね。2、3ヶ月に1回くらい。私自身は子どもの頃、引っ越しが多くて周りになじむのに時間がかかる方だったのですが、動物は周囲との馴染めなさに悩んでいないように見えたんです。動物たちの自然体なところに惹かれましたね。

幼い頃の柏木さん。上野動物園によく出かけていた。ただのハトにも興味津々!
日本画家になってもゾウはよく登場する題材だ。作品『はなむけ』

――子供時代の絵にまつわる思い出はありますか?

学校の課題で描いた絵が賞を取ったのですが、その時の美術の先生が私のことを気にかけてくださっていて、シンガポール旅行のお土産をくれたことがありました。賞を取ったご褒美的な感じで。自分がすごく好きな絵のことで、そんな風に思ってくださっていることがとても嬉しかったです。認められたみたいな気持ちでした。

小学校時代の柏木さん。この頃好きだったテレビは「8時だョ! 全員集合」だったそう。

その後、引っ越しをして小学5年生~中学3年生までは山口県小野田市(当時)にいました。山の中に社宅があったので、友達と外で遊ぶことが多かったです。今になって子供が遊ぶにはいい環境だったなと思います。家にいる時は、やっぱり絵を描いていましたね。

不登校脱却のきっかけは好きだった『美術』

――絵の道に進むきっかけはどういったことだったのでしょうか?

高校進学と同時に千葉に戻って来たのですが、周りに一緒に育ってきた子がまったくいない状況でした。高校であまり仲のいい友達ができなかったのと、もともと人と話すのが得意な方ではなかったので、ちょっと浮いてしまうような感じになってしまったんですよね。それが少し息苦しくて、2年生の後半くらいから少しずつ学校に行きにくくなり、不登校気味でした。家にいて「この先、どうなるんだろうな」と思いながら、悶々と過ごす日々が続きましたね。

兄の後ろに乗って江戸川へ!

私が家にこもりがちになっていると、兄が「ちょっと江戸川にでも」とバイクの後ろに乗せてくれました。自由に出かけられる感じや、風を感じることに魅力を感じ、バイクに興味を持ちました。
当時、近所にあった公共のカウンセリング施設で、週に1回カウンセリングを受けているときに「本当にやりたいことってなんだろう?」という話になり、「子供の頃から絵を描くことが好きでした」と口にしたんです。両親が硬い職業に就いていたので、絵を描く道に進むことは選択肢から外していたんですけども、ふと、「専門的に絵を描く道っていうのが世の中には存在しているんだよな」と気がついて。美術を学べる大学に進みたい、と進む先が少しクリアになった時に、ようやく高校へ行けるようになりました。

――「絵の道に進みたい」と話したとき、ご家族はどのような反応だったのでしょうか?

父からは、わりと早い段階で「つぶしが利くように経済学部に入りなさいね」と、まったく興味のない道を薦められていたんです。だから両親に対して「言い出していいのかどうかわからないな…」と思いながら話した記憶がありますね。両親は、私が芸術系に進むとは思いもしていなかったと思います。でも実際問題、「ひとまず好きなことをやって活き活きしている方が親にとっても良い」という感じで認めてくれたんだと思います。最終的には応援してくれていましたね。

『ゾウ』で、卒業制作展の大賞を受賞した。

3年生の夏くらいから美術予備校に通い始め、授業が終わってから予備校に行くのを楽しみにしていました。高校の時間はちょっと辛かったり、嫌だったりもしたんだけども、それがあって頑張れたところがありますね。高校の先生方が配慮してくださり、そういう意味では恵まれていて、無事に卒業できました。

結婚後、思いがけず福岡県へ移住

――そうだったんですね。学生の時の制作や興味を持っていたこと、大学卒業後のことを教えていただけますか?

筑波大学の日本画を専門的に学ぶコースに入って、ひたすらデッサンしたり、日本画を描く毎日でした。大学1年生の時、たまたま周りの同級生に「バイクの免許を取りに行こう」という子が男女ともに多かったので、一緒にバイクの免許を取りに行き、ツーリングにも行っていました。
卒業後、1番最初はデザイン事務所に勤めました。でもハードな職場だったので、すぐに辞めてしまったんです。当時は実家に住んでいたので親の勧めを素直に聞いてしまい、公務員試験を受けました。合格して就職できたのですが、結局は1年半くらいで辞めました。「仕事を毎日こなして、家にいる間に絵を描けばいい」と思っていたんですけれども、実際にはうまくいきませんでした。やっぱり絵と無関係の仕事を続けることはしんどかったし、家に帰っても失敗を引きずったり、業務のやり方を見直したりしていて、全然、絵を描く気持ちになれなかったんです。今の夫にはずっと相談していて、私が本当は大学院に進学したかったことや、事務職に向いてないことも知っていたので「辞めてもいいんじゃない?」と言ってくれたんです。

動物園やツーリング先でもスケッチをするのが習慣に
宮地嶽神社を取材して描いたミミズクの作品『花鳥水』

それで、大学院受験にチャレンジして受かったので退職しました。同時に結婚もしたのですが遠距離結婚がなかなかしんどくて、結局、半年で中退して同居したんです。その後は自宅近くにあった小田原城址公園まで、よくスケッチしに行っていましたね。

――福岡に移住されたのはその後ですか?

夫が東京に本社がある会社の面接を受けに行ったんですけども、いざ入ってみたら「福岡の方に」と言われて。2011年に起きた東日本大震災の後、各企業が地方へのリスク分散を考えていた時期だったんですよね。
福岡は住みやすい所と聞いていたけれども、実際に住んでみて本当にそう思います。でも、始めは「どうなっちゃうんだろうな」っていうのが大きかったですね。関東でご縁があったから細々と画家活動を続けられていたのに、急に転居が決まったので。

第22回ART BOX大賞展で準グランプリ受賞となった作品『アフタヌーン』

――福岡ではどのように画家活動を続けて来られたのですか?

最初のきっかけは移住したばかりの頃、たまたまバイクで走っていた時に、山の中にある道の駅に佐賀県の老舗温泉のアート公募ポスターが貼ってあったんですね。出してみたところ、賞をいただいて。その後、いろんな所にお知らせを出すことで、画廊さんが興味を持ってくださったり、東京でおこなわれた公募展の会場で、福岡在住の日本画家・立木美江さんと知り合ったり。そういった形で少しずつご縁が繋がってきて、福岡でも画業と子育てを自分なりに続けてこられました。

子育てしながら必死に描いて円形脱毛症に。今は子どもが応援してくれる

――これまでにも多くの画家が家事や子育てと、画業の両立に悩んできたと思います。柏木さんの場合は、いかがでしたか?

小さい子供を育てながら絵を描くことは、当初は本当に不安でした。生まれて数ヶ月だと赤ちゃんは昼夜関係なく起きちゃうし、寝ていても起こされるのはわかっていたので「授乳と授乳の間の数時間だったら、夜寝ないで描いてしまおう」と睡眠時間を削って必死に描いていた時期がありましたね。「ここでぱったり休んだら、そのまま描けなくなっちゃいそう」とすごく焦っていたんです。子どもが少し成長すると「今しかない子育ての時期を大事にしなきゃ」という気持ちがある一方で、絵を描きながら「どれも中途半端なんじゃないか?」「子どもをほったらかしにしてるんじゃないか?」と悩んだりして。そんな中、必死で描いていました。

お子さんがまだ赤ちゃんだったころの柏木さん

今振り返ってみると、「あの授乳の時期があって今がある」とも思えるし、「寝ていたとしても大して変わらなかったのでは?」とも思います。当時は体に負担がかかってしまい、円形脱毛症になりました。でも、後悔はないですね。今、娘は中学生になったので、すっかり手が離れて絵に費やせる時間がかなり増えました。

伝統的な技法を用いて描かれる柏木さんの日本画作品たち

今でも家事も子育ても、毎日どうにか、こなしているという感じです。でも、好きなことは救ってくれます。不登校の時期を救ってくれたのは絵だったし、苦手な仕事から絵画へ転向できたのも人生の救いだった。好きなことは、人生の核になるんですよね。後ろ髪を引かれるような思いで続けてきた絵を、今や子供が応援してくれているんですよ。お母さんが本当に必死になって好きなことを続けている姿は、めぐりめぐって子供に伝わると思います。私の母も仕事をずっと続けている人で、寂しく感じた時期もあったけども、今となってはすごく尊敬しているんですよ。
今も周りの人に助けてもらい、続けられています。応援してくれる人には、ただただ感謝していますね。

――スランプはなかったのでしょうか?

実は、少し前がまさにそういう時期でした。年齢的に45歳前後というのが更年期の始まりかもしれないと思うんですけれども、ちょっとやる気が出なかったり。せっかく子供の手が離れて時間はあるけれども、昔の必死になっていた頃みたいな密度では描けなかったりして、「どうしたらいいんだろう」と悩む時期でしたね。

博多別府間を東西に走る「かんぱち・いちろく」の車内に飾られた柏木さんの作品『流れゆく/流れくる』

そんな中、今年の春に運行が始まったJR九州の観光列車「かんぱち・いちろく」の車内アートを描く、九州ならではのお仕事をいただいたんです。そこをきっかけに、また絵を描くことの楽しさを思い出せたし、今この場所にいることの意義を感じたことで作家活動のスイッチが入りました。この土地のご縁に恵まれてのお仕事だったので、すごく意欲を持って取り組める制作でした。

無くなったものに持つ愛情

――ところで、学生の頃に始めたというバイクですが、今でも乗ってらっしゃるのでしょうか?

今もひとりで乗りに行ったり、夫と一緒にツーリングに出かけたりしますよ。時々、夫の後ろに娘が乗って、親子でツーリングに行きます。

「ツーリングは親子水入らずで過ごせる時間」と語る柏木さん

――バイクの疾走感と日本画を描くことは、動作のギャップがとても大きいと思うのですが、ご自分の中ではどのように捉えていますか?

けっこう言われるんですよ(笑) 確かに日本画を描くことは、ひたすら集中して家にこもる作業で、反対にバイクは屋外での移動ですよね。でも、バイクで走り続けていると、かえって静かな気持ちになるというか。日本画で集中した時と、バイクに乗って山などの静かな環境の中を1人で走っているのが、意外と似た気持ちになることが多いので、なんとなく私に合っているんだなと思いますね。

――ツーリング途中で廃墟に出会い関心を持たれたそうですが、具体的なきっかけを教えていただけますか?

最初は、2010年に熱海へ行ったときです。ホテルが朽ちて廃墟になっている所があって、あまり見たことがなかったのでスケッチをして、それを題材にして創画展に出品しました。「こういう場所は、私の絵の題材になる」とピンと来たんです。

対馬で出会った姫神山砲台跡に惹かれて描いた作品「天上の樂園」

――廃虚の魅力は、どういうところでしょうか?

今の私たちには見えないけれども、明らかに存在していた過去の時間や、風化している廃墟の佇まいに惹かれます。「今はないもの」への思いは、私が持つ愛情だと思うんですよね。
人工物として作られた建物が人から必要とされなくなった後、膨大な時間をへて自然と一体化していく。熱海で初めて廃墟と出会い、「描いてみたい」という思いが生まれました。その後、2015年に思いがけず移住した九州が廃墟の題材に恵まれていたので、その思いがより強くなりました。

大分県の豊後森機関庫公園にある扇形機関庫および転車台と、それをヒントに描いた作品『夜行路』

移住当初、「まずは長崎県の軍艦島に行きたい」と、すぐに出かけました。ガイドツアーであまり時間のない中、必死にスケッチをしたり、写真を撮ったりして、それを絵にしていましたね。九州に来てからは、探してみると名もない廃墟が各地に残っているので、足を運んでスケッチをしています。軍艦島以外にも、大分県の豊後森機関庫公園(ぶんごもりきかんここうえん)にある、ものすごく広い扇形機関庫と転車台や、永ノ島炭鉱跡などにも行きました。ツーリングの途中でスケッチして帰るのが習慣になっていましたね。最近は車が多いですけども。
少し話が逸れますが、廃墟には戦争遺産も多く、知るとすごく痛ましくて、辛くなることもあります。でも、それが今は使われなくなったところにも意義を感じたり、感動を覚えますね。

現在、飼っている2羽のウズラ『もづく』と『つくも』は、娘さんが命名。「2年前に孵卵器で卵からかえした子たちは、人の後をついてきて可愛い」と語る。
作品『吉兆うずら』 ウズラは身近な存在で、柏木作品によく登場する。「この絵をウズラに見せてみたら、絵に向かってつつこうとしていました。本物だと思ってくれたんだなあ。雨月物語「夢応の鯉魚」の最後にも、似た話があったなあ」と嬉しそうに語る柏木さん。

――廃墟を背景に動物を描くことには、どういった意図があるのでしょうか?

生き物を描くときは、目の前に生きている動物を「愛おしいな」と思って描くのですが、「いたこと」にも愛情があるんです。生きていた証と言いますか。廃墟と似た魅力を感じます。
いつか見た展覧会で、ノアの方舟を画題にした屏風絵に鵺(ぬえ・妖怪の名前)が描かれているのを見たんです。それで「実物を写生して描かなくてもいいんだ」と感じたので、そのときは昔から可愛いと思っていた、絶滅した鳥、ドードーを描きました。
それから、私自身は子どもの頃に引っ越しが多く、周りになじめなかった経験があるので、改めて動物園に通うようになってから動物たちの自然体なところに惹かれるようになりました。動物は周囲とのなじめなさに悩むこともなく、それこそ廃虚に置かれたとしても、その動物らしくいるんだろうなと想像しています。
人が省みなくなった廃墟の前に、いつか無くなる存在である動物を描いて、「今、生きていること」を引き立たせています。私が廃墟や動物に感じる愛情を、今を必死に生きる人へのメッセージとして絵に転換させているんですよね。

――これからも柏木さんの作品を楽しみにしております。本日はありがとうございました。

(聞き手・文/イチノセイモコ)

柏木菜々子 日本画展
~都会のフクロウ~

2024年11月13日(水)~19日(火)
[各日10時~19時30分 / 最終日17時終了]
伊勢丹浦和店6階ザ・ステージ#6アート

プロフィール

柏木菜々子 NANAKO KASHIWAGI

1977 年     千葉県生まれ

2000 年     筑波大学芸術専門学群

                美術専攻日本画コース卒業

2005 年     臥龍桜日本画大賞展入選(’06,’09)

2012 年     ART BOX 大賞展準グランプリ

2015 年     美術新人賞「デビュー2015」入選

2016 年     Seed 山種美術館日本画アワード入選

《個展》

2006 年      個展/神奈川(’08) 

2009 年      個展/神奈川(’10)

2016 年      個展/福岡(’19,’20,’22,’24)

2017 年      個展/神奈川

2018 年      個展/東京

他多数


制作後記 柏木菜々子 日本画『風見鳥』

『風見鳥』
柏木菜々子
日本画、F6号サイズ(410×318 mm)

 娘を出産し神奈川に家を建て、落ち着いて生活をと思っていた矢先、夫の転職で急遽福岡へと移住することが決まりました。生まれ育った関東で購入した注文住宅を手放し、縁もゆかりもない土地での育児と、先の見えない作家活動という不安の毎日でした。でも、「せっかく九州に来たのなら」と前々から行きたかった軍艦島に行こうと思い、すぐガイドツアーに申込んで上陸が叶いました(娘が小さい頃だったので年齢制限ギリギリのガイドツアーが一社だけだったり、上陸できる天候も限られていたりなので、ラッキーでした)。「風見鳥」はその時のスケッチをもとにしています。
 軍艦島の景色は圧巻で、今まで目にしたことがないものだったので夢中でスケッチしました。朽ちていくコンクリート群も美しさがあります。子供の頃から動物は好きですが、何を描こうかと思った時に、先を見通す目と聡明さとを持ったフクロウ(ミミズク)を描くことにしました。
 「風見鶏」という言葉にはなんとなく日和見的なマイナスのイメージがありますが、この作品『風見鳥』は(生きている『鳥』の字を使って)、そのときどきの風に自分の意志や考えを乗せて進んでいこうという想いで描いています。思いがけない状況でも、どこに居ようとも、自分らしくありたいという願いを込めて。そしてこの作品を見てくださる方が「いま居る場で吹く風をご自分のものにしてくだされば」という祈りを込めて。
 良い風が吹きますように。

(日本画家 柏木菜々子)


柏木菜々子さんの展覧会情報

柏木菜々子 日本画展
~都会のフクロウ~

2024年11月13日(水)~19日(火)
[各日10時~19時30分 / 最終日17時終了]
伊勢丹浦和店6階ザ・ステージ#6アート

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