BUKURO創設者のTimothy Shillさんに聞く、BUKUROの現在地
――Timothy Shillさん、本日はよろしくお願いします。さっそくですが「BUKURO」の活動について教えて頂けますか?
Tim こちらこそ。アート集団「BUKURO」を始めた動機は、最初は単純だったんです。テンプル大学のアート学科を専攻した私は卒業後も仲間に「作品を作りたい、学びたい」という気持ちを失ってほしくなかった。お互いにアートを作り続けることに挑戦するグループを作ることにして「BUKURO」と名付けたんです。私たちのミッション・ステートメントは「互いに励まし合いながら、創作を続け、インパクトを与える」です。
――「BUKURO」の名前はどこからきたのですか?
Tim 「BUKURO(ブクロ、袋)」という言葉は、先進的で多用途で自由な文脈を示唆しています。例えば「手ぶくろ」や「レジ袋」、つまり「BUKURO」なら何でもありだし、ユニークなライフストーリーを持つ人なら誰でも、「BUKURO」に何でも含めることができるわけです。私の故郷ではもうビニール袋を見かけないのですが、日本ではいまでも使われますね。日本っぽい印象を持ちます。ビニール袋に。そういうわけで、様々なタイプのアートを詰め込めるよりどころとして「BUKURO」と名付けました。
――「BUKURO」はどんな活動をされていているのでしょうか。
Tim まだまだアーティストとしては無名の我々ですがちょっぴり手応えを感じています。「BUKURO」は何度かこれまでに展覧会を開催し、少しずつ来場客を獲得できてきました。日本の方にも外国の方にも徐々に活動が知られるようになってきました。いずれは自分たちのスタジオを構え、そのスタジオを使ってアート展やイベントをしたいですね。
そして私たちの出身地であるアート・コミュニティに恩返しをしたい。テンプル大学ジャパンにアーティスト・レジデンスを提供し、アート奨学金を提供したいのです。これには長い年月がかかるかもしれませんし、その過程で多くのチャレンジがあるかもしれません。
――「BUKURO」メンバーには現在どのような方々がおられるのでしょうか。
Tim 「BUKURO」のメンバーは10名以上と多く、今後も増えていく予定です。「BUKURO」には、写真家、デジタルアーティスト、グラフィックデザイナー、画家、シルクスクリーナーなどがいます。私たちは多種多様です。私たちは大きなアートファミリーのように成長したいと思っています。各メンバーを紹介したいところですが、彼ら彼女らからの直接の声をぜひ聞いてみてください。インタビューを通じて読者のみなさんがアーティスト一人ひとりを知れば、そこから私達の活動にも生興味をもっていただけると思います。そして私達だけでなく他のアーティスト(有名無名を問わず)の存在にも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
ゴールは、議論を続けるための具体的な疑問を探すこと(Rika Murakami)
――紙を丸めてスキャンしてプリント、それを100回繰り返したこの作品。意図的に色をつけた作品だと思っていましたが、そうではなかったのですね。
Rika はい、影によって偶然生まれた色彩です。いつの間にか現れた色や現象です。100度スキャンとプリントを繰り返すのはとっても疲れました!でもそれが私の目標でした。当時、何を描こうかと考えるのがもどかしかったんです。だからただ白い紙をスキャンして、プリンターに判断を委ねました。実はこれは現在進行中のプロジェクトです。そういうものがアートピース(芸術作品)の本質だと考えています。「練習」は私の人生と重なります。私がスキャンしたものは成長を描いたもので、それは私が人生でどのように成長していくかと似ています。真っ白な紙から始まり、人生によってスキャンされ、つぶされ、繰り返されます。
――「練習」があなたのテーマなのですね。そこから生まれた作品から、なんとも言えない驚きと興味を感じます。
Rika ありがとうございます。私は日本人ではありますが18歳までベトナムで育ちました。4人兄姉がいて2人が病を抱えていたので、父母の注目はどうしても私には向けられなかった。私は私自身で自分の世話をしなければなりませんでした。自分で練習して成長して乗り越えることが私の人生でした。
――その経験が密接に作品と重なっているのですね。その背景を伺うと一層、他の作品も興味深く感じます。
Rika 練習というのは上達するためには何度もやらなければならないし、その過程で何度も失敗します。何かを達成するために失敗したり、何かをするために失敗したり。失敗するとわかっているその過程が、私が作品を作るときに満足させる要素です。私の作品のほとんどは、すべてとは言いませんが、繰り返しが多いです。繰り返されるイメージ、オブジェクト、被写体…など。
――作品づくりのきっかけ、インスピレーションはどこから得ていますか?
Rika 私は個人的な経験や、特に私たちが生きている時代のルールや考え方に「疑問」を持つことから多くのインスピレーションを得ています。私のゴールは、作品を作るときに抱いた「疑問」に対する答えを見つけることではなく、議論を続けるための具体的な「疑問」を探すことです。
Rika この文は、読者への指示書です。有名なものにオノ・ヨーコ氏の『カットピース』があります。『カットピース』ではCut(切れ)の指示書に従い観客が彼女の衣服を切っていき、さまざまな観客たちの反応が見られました。私たちは、理論的には可能だが物理的には不可能なことをするというアイデアを探求するためにこのパフォーマンスに参加しました。指示書の具体的な内容は「水を半分に割って、半分を飲むということを、水がなくなるまで繰り返そう」というものでした。このジャンルは、インストラクション・アート(指示書・設計図による作品)と呼ばれます。
Rika 私の手と一緒に写っている写真は、私の手に書いた招待状です。パフォーマンスアートをやってみたかったんです。オノ・ヨーコ氏のグレープフルーツ・ブックに触発されたから。私の手のひらに描かれている文字は招待状です。だから人々は招待状の物理的なコピーを持つことができません。私は彼らに「私の公演に来ませんか?」と言いましたが、彼らは「考えるけど、覚えていないかも」といいます。私は指示をしていないけれど、彼ら彼女らは自ら写真を撮りはじめました。
――今後の活動も楽しみにしています。今日はインタビューに応じてくださりありがとうございました!
Mika Murakami 18歳までベトナムで育ち、テンプル大学日本校でアートを専攻。21歳。
Savor日常、日常を味わう―私たちは経験したことを忘れるのが怖いから写真を撮る―(Timothy Shill)
思い出は毎日作られ、思い出は家族や仲間と共有されるものです。時間が経つにつれて薄れていく記憶もあれば、お気に入りの洋服のように、心のクローゼットの中にしっかりと保存されている記憶もあります。思い出は、私たちが生きていく上で、また新しい場所を旅する上で大切なものです。私が写真を撮るのは、その瞬間を忘れてしまうのが怖いからだと思います。日常を大切にしたいと私は思います。
人はそれぞれ違う人生を歩んでいるけれど、他人の経験を見ることで何かを得ることができる気がします。私は日本に住む外国人として、自分の経験を日本の新しいコミュニティーに持ち込んでいます。私のフィルム写真を使った作品は、日本で出会った人々の思い出と、彼らに会うために旅をし彼らとの交叉点に焦点を当てています。私はたくさんの写真を撮り、たくさんの思い出を保存してきました。
私の日本に対する見方は、フィルム写真にも写し出されています。私は日本に住んでいる外国人なので、日本人とは違った見方をしているのかもしれません。例えば、普通の道でも自動販売機や面白い照明の写真を撮るのが好きだ。富士山のような場所の美しさにも惹かれるが、日本人が思うような「美しい自然」とは違う見方をしているのかもしれない。私の好きな富士山の写真には、電車や工事中の建物がたくさん写っています。だから、私は日本を違った角度から見ることができるし、フィルム写真で撮影されたこれらの思い出を共有することで、人々に教えることができればと思っています。
フィルム写真には、瞬間を切り取る以外にも面白い要素があります。フィルムカメラとフィルムロールでは、しばしば不鮮明な写真や不完全な照明の写真が撮られます。これは私が1960年代のフィルムカメラ、ミノルタSRT101やリコーハーフフレームを使っているせいでもあります。ぼやけた写真や不完全な写真は、頭の中の記憶と同じで、物事の様子や出来事を完璧に思い出すのは難しい。
だから私にとってフィルム写真は、思い出を完璧に切り取り、他の人と共有したり見せたりできるものなのです。
フィルム写真に収められたこれらの思い出は、台所の様々な引き出しやキャビネットのように、私の頭の中に保管されているものです。
しかし、なぜ私たちはさまざまな方法で思い出を整理するのでしょう。なぜ私たちはカメラや携帯電話を手に取り、ありふれた写真を撮るんでしょう。
それは、私たちが経験したことを忘れるのが怖いからだと思います。その日の楽しかったこと、悲しかったこと、退屈だったことを、私たちはいつも覚えていたいのです。
(文・写真 Timothy Shill)
ストーリーテラーが用いる絵画と音楽(MARUKOME)
MARUKOME インパクト・ユーモア・中毒性のあるコンテンツを、映像・絵画・写真と多岐にわたる方法で発表するアーティスト。和名表記は丸米。アメリカのテキサスで生まれ、ケンタッキー、ミシガン、ルイジアナ、フロリダで育ったのち、ドイツへ移り住んだ。その後アメリカへ戻り、カリフォルニア、コロラド、ハワイで過ごした。大学時代に日本で暮らし始め、現在は日本でアーティストとして活動する。
テンプル大学で、動詞だけをインスピレーションにして絵を描くという課題があったという。MARUKOMEはランダムに動詞を選ぶことにし、「笑う、塗る、積む」の3つの動詞を使った。これはtiktokのようなソーシャルメディアと広告に対する彼の視点である。そして、SNSと広告たちが巻き起こす社会の注意欠如を表している。
インフルエンサーが広告収入目的で過激な言動をしている様子を描いている作品。 dikthepusscrusher → dick the puss crusher この名前は、インターネット上で女性差別を押し付けるアルファ・オス(ボス猿)を表している。 RAID → インターネット上のコンテンツクリエイターは、Raid Shadow Legends(2018年に発売されたイスラエルの人気ネットゲーム)を宣伝するためにお金をもらっている。たどたどしい筆致(実際は上手いのだが)が、社会問題とマッチしていて非常に面白い。
――MARUKOMEさん、ジェフとクララの人物設定を教えてくれますか?
MARUKOME ジェフとクララは近未来に住んでいるんだ。僕は複数の登場人物と複数のストーリーを計画してるよ。次のキャラクターは、100歳のおじいさん。宇宙への旅を描く予定だ。
――魅力的な設定ですね(笑)
MARUKOME 子供の頃、僕は物語を作ることにもっと興味があったんだ。でも演技は下手だったんだ。音楽を作るのは好きだった。それで僕は独学で音楽の作り方を学んだんだ。僕のアニメーションは、子供が作ったような、ちょっと平板な感じ。それが好きなんだ。
――インタビューではMARUKOMEさんのインスタへ画像リンクを貼っておきますね。
――Tiktokはなさっていますか?
MARUKOME Tiktokは面白いと思うけど、スワイプが多いのは好きじゃないんだ。
――そうですか。こういった物語は昔から作っていたのですか?
MARUKOME 子供の頃はよく物語を書いていたし、ごっこ遊びが大好きだったんだ。物語を語ることは僕にとってとても自然なことで、物語を作らずにはいられない。お母さんは、僕が眠りにつく前にたくさんの物語を読んでくれた。それがルーツかもしれない。
――ところでMARUKOMEさんは、BUKUROの共同創立者の1人なのだそうですね。
MARUKOME ブクロ・アート・コレクティブのアイデアは、もともと仲間のアーティストがアートを作り続けられるように手助けすることが目的だった。僕自身は、アートを探求し、それでどんな物語を作れるか見てみたいんだ。自分の進歩を見るのが楽しいんだ。
――今日はありがとうございました。
(聞き手・福福堂編集部)
移民の子の心理(EMILY MA)
絵と音楽に触れた、幼少時代の上海
私は上海で育ちました。両親は鉄鋼の研究をしており、非常に忙しかったため、乳母と過ごすか、一人で過ごす時間が多くありました。このため、退屈や寂しさを紛らわせるために、毎日のように絵を描いていました。
また、両親は非常に厳格で、宿題や勉強を重視していたため、ストレスを感じることも多かったです。この時期、6年間にわたって筝(そう)という中国の楽器を習い、毎日何時間も練習をしていました。音楽は後に私の芸術にインスピレーションを与える重要な要素となりました。
「言葉が全く通じない」オランダ時代
8歳のとき、私はオランダに引っ越しました。しかし、英語もオランダ語も話せなかったため、最初の2年間は学校でほとんど誰とも話すことができませんでした。言葉が全く通じないのです。ただ周りの子どもたちの隣に座るだけで、何が起こっているのかを理解するのに長い時間がかかりました。
引っ越し当初、父も英語やオランダ語を話せなかったため、私たちは多くの困難に直面しました。ある日、アムステルダムで自転車に乗っている最中、父とはぐれてしまい、助けを求めるために大きな店に入って店員に「助けて」と言いました。まだ幼かった私は、警察に保護されることになり、その後、父と無事に再会することができました。
文化の違いや言語の壁は、周囲の人々や環境を理解するのに多くの時間を要しました。しかし、これらの経験は、異なる文化や背景を持つ人々に対する興味を深めるきっかけとなりました。
言葉が通じない経験が心理学へ向かわせた
言葉が通じなかった経験のせいでしょうか、心理学に興味を持つようになり、アートの分野ではシュルレアリスムに興味を抱くようになりました。私たちがなぜそのように考え、感じるのかを探求することに強い関心を抱くようになったのです。特に、現代社会では多くのものが私たちの注意を引こうとしており、私たち自身の思考や感情を完全にコントロールできていないと感じることがあります。そのため、自分の感情や考えがどこから来るのかを深く理解しようと努めています。
私の作品の中には、特定の人物やその人物にインスパイアされたキャラクターが登場します。絵を描くことは、私が世界や他者をどのように解釈しているかを表現する手段なのです。
異なる文化に自ら飛び込む 日本への移住
オランダへの移住は私の意思ではなく両親の仕事の都合によるものでした。移民として思春期を過ごす中で自分なりに社会をとらえ自分なりに対応方法や回答を持つようになると、今度は自らまた異なる文化へ飛び込みたくなりました。私はヨーロッパ以外の国で学びたいと考えました。特に日本の美術が好きで、浮世絵などの伝統的なスタイルに魅了されていました。そのため、日本で生活しながら美術を学ぶことを決めました。
東京に来た当初、留学生向けのアパートを探すのは非常に困難でした。手続きには多くの書類が必要で、電話対応も必要でしたが、誰も英語を話してくれませんでした。幸運にも、日本語を話せる中国人の友人が助けてくれたおかげで、この困難を乗り越えることができました。
現在は、美術だけでなくデザインやブランディング、イラストレーションにも興味を持ち、ロゴやタイポグラフィなど、ブランドイメージを構築するためのデザインを学んでいます。また、美術史や商業美術にも興味を持ち、それらを深く探求しています。
「人々がつながりを感じられるようなアートを作りたい」
私は、人々がつながりを感じられるようなアートを作りたいと考えています。私の作品に共鳴してくれる人を見つけたいと思っています。日本やオランダ、ヨーロッパの他の国々で展示を行い、より多くの人々とつながりたいです。
また、ベルギーでギャラリーを経営している親友がおり、そのギャラリーが私の作品に共鳴してくれています。将来的には、ベルギーでも展示を行い、より多くの人々と芸術を通じて交流したいと考えています。
(文 EMILY MA、写真 Timothy Shill)
世界を旅して火山を描く(Louis Claude Lafferty)
Louis Claude Lafferty(ルイス・クラウド・ラファティ)さんへのインタビューは、画像をクリックするとご覧いただけます。ルイスさんもBUKUROの参加メンバーです。