レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年5月2日、フランス中部アンボワーズのクロ・リュセで67歳で亡くなりました。では、死因は何だったのでしょうか。結論からいえば、レオナルドの死因を確定できる史料は残っていません。晩年には右手の麻痺が記録され、脳卒中だったとする説もありますが、近年は末梢神経障害など別の可能性も指摘されています。
また、「フランス王フランソワ1世の腕の中で息を引き取った」という有名な逸話も、そのまま史実とはいえません。レオナルドの最期を知るには、1516年に始まるフランスでの晩年、1517年の身体状態、1519年4月の遺言、そして後世につくられた伝説を分けて見る必要があります。
レオナルド・ダ・ヴィンチはいつ、どこで亡くなった?
レオナルドは1452年4月15日にトスカーナ地方のヴィンチ近郊で生まれ、1519年5月2日にフランスのアンボワーズで亡くなりました。最晩年の住まいは、アンボワーズ城からほど近いクロ・リュセでした。1516年、フランソワ1世の招きに応じてフランスへ移り、弟子のフランチェスコ・メルツィや従者のバッティスタ・デ・ヴィラニスらとともに暮らしました。

フランスでは「王の第一画家・技師・建築家」として厚遇され、年金を受けながら、絵画の仕上げ、建築や水利の構想、宮廷祝祭の演出などに関わりました。画家としてだけでなく、長年蓄積してきた知識を王や周囲の人々に伝える立場でもあったのです。レオナルドの生涯全体は、レオナルド・ダ・ヴィンチとはで詳しく紹介しています。

1517年、右手の麻痺が記録されている
レオナルドの晩年の健康状態を考えるうえで重要なのが、1517年10月の記録です。枢機卿ルイージ・ダラゴーナ一行がクロ・リュセを訪れた際、同行していたアントニオ・デ・ベアティスは、レオナルドの右手が麻痺していたことを書き残しました。
この記録は、晩年のレオナルドに身体的な障害があったことを示す有力な史料です。一方で、右手の麻痺がそのまま死因だったことを意味するわけではありません。レオナルドは左手で素描や筆記を行う能力を保ち、弟子に指示を出しながら研究や制作を続けていました。
クロ・リュセへ移ったレオナルドは、『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』などを携えていたと伝えられています。少なくとも晩年まで絵画を手元に置き、加筆や検討を続けていたことは、彼が完全に創作活動を失っていたわけではないことを示しています。『モナ・リザ』については、モナ・リザとはで詳しく解説しています。

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死因は脳卒中だったのか?
レオナルドの死因としてよく挙げられるのが脳卒中です。右手の麻痺があったこと、後世の伝記に急変を思わせる描写があることなどから、脳血管障害を想定する説が広まりました。しかし、これは現在でも確定診断ではありません。
2019年に医学誌で発表された研究では、肖像素描に描かれた右手の形や1517年の記録を検討し、典型的な脳卒中後の痙性麻痺よりも、尺骨神経麻痺のような末梢神経障害の可能性があると論じられました。別の研究では脳卒中説が支持されており、医学的な見解も一つに定まっていません。
重要なのは、「右手が麻痺していた」という同時代の記録と、「死因が脳卒中だった」という後世の推定を同一視しないことです。1519年の死について、現代医学の基準で確定できる診療記録や検査結果は存在しません。したがって、最も正確な答えは「死因は不明。脳卒中説は有力な仮説の一つだが、断定はできない」となります。
「フランソワ1世の腕の中で死んだ」は史実?
レオナルドの最期を語る場面として有名なのが、フランソワ1世が病床のレオナルドを抱き、その腕の中で巨匠が息を引き取ったという逸話です。この物語はジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』によって広く知られるようになり、18世紀以降の絵画でも繰り返し描かれました。
しかし、現在のクロ・リュセは、レオナルドが亡くなった1519年5月2日、フランソワ1世は第二子の誕生に立ち会うためサン=ジェルマン=アン=レーにいたと説明しています。距離を考えても、王がレオナルドの臨終に居合わせたという話は史実として扱いにくく、後世に形成された象徴的な伝説と見るのが妥当です。

死の9日前に遺言を残した
レオナルドは1519年4月23日、死の9日前に遺言を作成しました。遺言では、弟子フランチェスコ・メルツィを中心に、家族や使用人への財産分配を定めています。メルツィはレオナルドの手稿や素描の多くを受け継ぎ、のちにその知的遺産を保存する重要な役割を担いました。
レオナルドは自らの埋葬場所についても希望を示していました。死後、遺体はアンボワーズ城内のサン・フロランタン教会に葬られます。この教会は後世に失われました。1863年の発掘で見つかった遺骨は、墓碑の断片などを根拠にレオナルドのものと考えられ、現在はアンボワーズ城のサン・ユベール礼拝堂に墓が置かれています。
現在の墓はアンボワーズ城サン・ユベール礼拝堂にある
現在、レオナルドの墓はアンボワーズ城のサン・ユベール礼拝堂にあります。アンボワーズ城の公式案内でも、1519年5月2日にアンボワーズで亡くなったレオナルドが、自らの希望に従ってこの地に眠っていることが紹介されています。
ただし、最初から現在の礼拝堂に埋葬されていたわけではありません。もともとの墓所は城内のサン・フロランタン教会でした。現在の墓には、失われた旧墓所付近で1863年に発見され、レオナルドのものと考えられた遺骨が移されています。レオナルドの墓を見ることは、彼がイタリアではなくフランスで人生を終えたという事実を実感できる場所でもあります。

最期まで「画家」だけではなかった
右手に麻痺があり、絵を描く能力に制約が生じていたとしても、レオナルドの知的活動が止まったわけではありません。フランス時代にも水の流れ、建築、都市計画、幾何学、自然現象などへの関心を持ち続け、弟子とともに研究や構想を進めていました。
彼の晩年を「病気で何もできなくなった天才」と見るのは正確ではありません。制作の速度や身体能力は衰えても、観察し、考え、構想し、人に伝える活動は続いていました。『聖アンナと聖母子』のように長年手元で改良を重ねた作品もあり、完成と未完成の境界そのものがレオナルドらしさを物語っています。作品については、レオナルド・ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』もあわせてご覧ください。
まとめ|レオナルドの死因は断定できない
レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年5月2日、フランスのクロ・リュセで67歳で亡くなりました。1517年には右手の麻痺が記録されており、脳卒中だったとする説がありますが、末梢神経障害など別の可能性も指摘され、死因を確定することはできません。
また、フランソワ1世の腕の中で亡くなったという逸話は、美しい物語として後世に広まりましたが、王の所在を考えると史実とは考えにくいものです。確実なのは、レオナルドが晩年をフランスで過ごし、死の直前まで自らの財産と膨大な知的遺産の行方を整え、アンボワーズに葬られることを望んだということです。
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