レオナルド・ダ・ヴィンチは、完成した絵画よりはるかに多くの「考え」を紙の上に残しました。人体の構造、水の流れ、飛行、歯車、建築、数学、光学、絵画技法――一見すると別々の分野が、同じページの中で素描と短い文章によって結び付けられています。現在「手稿」「ノート」「コデックス」と呼ばれる資料群は、画家レオナルドの制作過程だけでなく、彼が世界をどのように観察し、問題を解こうとしたのかを知るための重要な記録です。
そして、レオナルドの手稿を初めて見る人が驚くのが、文字の向きです。文章の多くは右から左へ進む「鏡文字」で書かれています。なぜこのような書き方をしたのでしょうか。秘密を隠すためだったという説は有名ですが、それだけで説明することはできません。ここでは、レオナルドの手稿とは何か、鏡文字の理由、代表的な手稿、そこに記された研究内容を順に見ていきます。人物全体についてはレオナルド・ダ・ヴィンチとはもあわせてご覧ください。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿とは
レオナルドは1480年代半ば頃から、自分の観察や発想を大量の紙に書き留めるようになったと考えられています。現在のように一冊のノートを最初から最後まで順番に使ったわけではなく、持ち歩いた紙や小冊子に、その時々の問題を書き込みました。のちにそれらの紙がまとめられ、現在では『アランデル手稿』『アトランティコ手稿』『フォースター手稿』『マドリード手稿』など複数のまとまりとして各地に所蔵されています。
大英図書館の『アランデル手稿』は283葉からなり、科学、芸術、機械、数学、個人的な覚え書きまで内容が非常に幅広い手稿です。1508年にはレオナルド自身が、さまざまな紙から集めたものを「秩序なく」写し、後で主題別に整理したいという趣旨を書き残しています。完成された教科書ではなく、考えながら書き、描き、また別の問題へ移っていく「思考の現場」がそのまま残っている点に大きな価値があります。

なぜ右から左へ「鏡文字」で書いたのか
レオナルドの鏡文字は、通常のイタリア語を左右反転させたように見え、鏡に映すと読みやすくなります。彼は左利きで、右から左へ筆を動かす方が、書いたばかりのインクを手でこすりにくかったと考えられています。ヴィクトリア&アルバート博物館も、左利きのレオナルドにとって右から左へ書く方が自然だった可能性を挙げています。
一方で、「発明を盗まれないための暗号だった」「秘密結社の知識を隠していた」といった説明を、そのまま事実として扱うのは危険です。当時、鏡文字そのものは完全に未知の技法ではなく、書字の実演として用いられることもありました。また、レオナルドの文字の形そのものは特殊な暗号ではありません。手稿の内容に軍事技術や機械設計が含まれるため、秘匿の意図がまったくなかったと断言することもできませんが、鏡文字をすべて「秘密保持」のためと説明する根拠はありません。
つまり、鏡文字はレオナルドの奇人ぶりを示す装飾ではなく、彼の日常的な書字習慣として見る方が自然です。右から左へ進む文章の間に、歯車、幾何学図形、人体、器具の断面図が入り込み、文字と図が一体になって思考を支えています。

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手稿には何が書かれているのか
レオナルドの手稿が特別なのは、ひとつの専門分野に閉じていないことです。機械の力を考えるときには人体の関節へ目を向け、水流を観察すると髪の巻き方や空気の動きへ連想が広がります。絵画のための観察と、科学や工学のための観察を明確に切り離していません。
たとえばマドリード手稿Iは、機械学と静力学を中心とする重要な資料です。歯車、軸、クランク、摩擦、力の伝達などを、文章だけでなく精密な図で検討しています。スペイン国立図書館が所蔵する二冊のマドリード手稿は長く所在が分からなくなっていましたが、20世紀に再確認され、レオナルドの機械研究を考える上で欠かせない資料となりました。

空を飛ぶには何が必要か――飛行研究
レオナルドは、鳥が翼を上下させる様子を眺めるだけでなく、翼の形、空気の抵抗、重心、運動の関係を繰り返し考えました。鳥の飛翔をそのまま人間がまねればよいとは考えず、観察した運動を機械へ置き換えようとしています。『鳥の飛翔に関する手稿』やパリ手稿には、翼を備えた装置や飛行に関する検討が残されています。
もちろん、レオナルドの飛行装置が当時そのまま実用化されたわけではありません。しかし重要なのは、空を飛ぶという夢を、神話や空想だけでなく、重量、力、翼、空気という観察可能な問題へ分解したことです。この姿勢は、レオナルドの『ウィトルウィウス的人体図』にも共通しています。人体を美しく描くだけではなく、測り、比べ、図にして考えているのです。

水の渦から自然の法則を探る
水も、レオナルドが生涯にわたって観察した主題です。川の流れ、渦、波、浸食、運河、水を持ち上げる装置などを繰り返し描きました。水面に生じる渦は、単なる風景の一部ではなく、自然界の運動を目で追うための研究対象でした。
水の動きを線で記録しようとする姿勢は、画家としての表現とも無関係ではありません。レオナルドは、輪郭線だけで物体を切り取るのではなく、光や空気、水分を含んだ大気の中で形がどう見えるかを考え続けました。『モナ・リザ』などに見られる柔らかな移行表現も、自然観察と絵画技法が別々の世界ではなかったことを示しています。作品については『モナ・リザ』とはで詳しく解説しています。

人体を「見える構造」に変えた解剖学のノート
レオナルドの手稿の中でも、とりわけ現代の私たちを驚かせるのが解剖学研究です。筋肉や骨格を外から眺めるだけでなく、実際の解剖を通して、肩、腕、脊椎、頭部、心臓、胎児などを多方向から描いています。ひとつの部位を複数の角度から示し、内部構造を段階的に見せる方法は、単なる写生を超えて「どうすれば構造を理解できるか」という図解の発想につながっています。
画家にとって人体研究は、人物を正確に描くための基礎でもありました。しかしレオナルドはそこで止まらず、筋肉がどのように骨を動かすのか、心臓の弁がどう働くのかといった機能へ踏み込んでいきます。美術、医学、力学が一枚の紙の上で交差するところに、レオナルドの手稿らしさがあります。

代表的な手稿は現在どこにあるのか
レオナルドの紙葉は、彼の死後に弟子フランチェスコ・メルツィへ渡り、その後の長い過程で分散しました。現在は一か所にまとまっているのではなく、イギリス、イタリア、フランス、スペインなど複数の機関に所蔵されています。
代表的なものとして、科学・芸術・個人メモまで広範囲を含む大英図書館の『アランデル手稿』、機械・数学・水力学などを含むヴィクトリア&アルバート博物館の『フォースター手稿』、膨大な紙葉を集成したミラノのアンブロジアーナ図書館の『アトランティコ手稿』、機械学と静力学で重要なスペイン国立図書館の『マドリード手稿I』などがあります。ロイヤル・コレクションには人体解剖や自然研究の素描が多数残されています。
名称だけを見ると一冊ずつ完成された著作のようですが、実際には後世の整理・製本によって現在の形になったものも少なくありません。だからこそ、手稿を読むときには「レオナルドが一冊の本として完成させた」と考えるより、長い年月にわたる思考の断片が後にまとめられたものとして見る必要があります。
手稿を見ると「万能の天才」の意味が変わる
レオナルドは、最初から何でも知っていた天才ではありません。手稿には、途中の計算、試行錯誤、訂正、未完成の発想が大量に残っています。彼の強さは、疑問をそのままにせず、観察し、描き、比較し、また考え直すことを繰り返した点にあります。
絵画と科学、人体と機械、水と空気を別々の領域として扱わず、「どう動くのか」「なぜそう見えるのか」という共通の問いでつなげていく。レオナルドの手稿は、その思考法をもっとも生々しく伝える資料です。完成作だけを見ていると遠い存在に思えるレオナルドが、紙の上では、観察しながら考え続ける一人の人間として見えてきます。
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