クロード・モネの名画『散歩、日傘をさす女性』で、緑の日傘を手に丘の上から振り返っている女性。彼女が、モネの最初の妻カミーユ・ドンシューです。
カミーユは単に「有名画家の妻」だったわけではありません。1860年代、まだモネが印象派の巨匠になる前からモデルを務め、『緑衣の女』『庭の女たち』、そして『散歩、日傘をさす女性』『ラ・ジャポネーズ』など、モネの初期から1870年代を代表する人物画に繰り返し登場しました。モネが人物を独立した肖像として描いていた時代から、人物を光や風景の中へ溶け込ませていくまで、その変化をたどるうえでも重要な存在です。
二人の間には長男ジャンと次男ミシェルが生まれました。しかしカミーユは1879年、わずか32歳で亡くなります。モネは死の床に横たわる妻を最後にもう一度描きました。それが現在オルセー美術館に所蔵される『死の床のカミーユ』です。
この記事では、カミーユとはどのような女性だったのか、モネとはいつ頃出会い、どのような作品のモデルとなったのか、そして二人がどんな生涯を送ったのかを、作品を追いながら紹介します。クロード・モネの生涯全体については、モネとは|生涯と代表作を解説、睡蓮が見られる日本の美術館21選もあわせてご覧ください。
モネの妻カミーユとは|最初の妻であり重要なモデル
カミーユ・レオニー・ドンシューは1847年1月15日に生まれ、1870年にクロード・モネと結婚した女性です。二人の間には1867年生まれの長男ジャンと、1878年生まれの次男ミシェルがいます。1879年9月5日、カミーユは32歳で亡くなりました。
| 名前 | カミーユ・レオニー・ドンシュー(結婚後カミーユ・モネ) |
|---|---|
| 生没年 | 1847年1月15日~1879年9月5日 |
| 夫 | クロード・モネ |
| 結婚 | 1870年 |
| 子供 | 長男ジャン(1867年生まれ)、次男ミシェル(1878年生まれ) |
| 主なモデル作品 | 『緑衣の女』『庭の女たち』『散歩、日傘をさす女性』『ラ・ジャポネーズ』『死の床のカミーユ』など |
カミーユはしばしば「モネのミューズ」と呼ばれます。確かに、若きモネが繰り返し彼女を描き続けたことを考えれば、その表現は間違いではありません。ただし、作品を年代順に見ると、同じ女性がいつも同じ役割で描かれていたわけではないことが分かります。
ある作品では最新流行の服をまとった堂々たる女性として、ある作品では母親として、また別の作品では光の中を歩く人物として登場します。カミーユは、モネが1860年代から1870年代にかけて人物画の可能性を試すうえで、最も身近で重要なモデルの一人だったのです。
モネとカミーユはいつ出会った?|モデルから伴侶へ
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モネとカミーユが出会ったのは1860年代半ばです。1865年にはすでに、モネが大作『草上の昼食』の準備を進める過程でカミーユをモデルにしています。当時のモネは20代半ば。後に「印象派」という名で知られる画家になる前で、サロンへの出品を目指しながら新しい絵画を模索していました。
この時期の重要な作品が、1865年の『バジールとカミーユ(「草上の昼食」のための習作)』です。森の中で歩く男女を描いた習作で、男性は画家仲間フレデリック・バジール、女性はカミーユがモデルになりました。戸外の光が衣服へ落ちる様子を描こうとしたこの作品には、後のモネにつながる関心がすでに見え始めています。
翌1866年、モネはカミーユをほぼ等身大で描いた『緑衣の女』をサロンへ出品します。この作品が注目を集めたことで、カミーユの姿はモネの初期の成功と強く結びつくことになりました。
二人の長男ジャンは1867年に誕生します。その後、1870年にモネとカミーユは正式に結婚しました。結婚直後にはノルマンディーの海辺の町トルーヴィルへ滞在し、モネは浜辺で過ごすカミーユの姿を何度も描いています。同年に普仏戦争が始まると、一家はフランスを離れ、ロンドンへ渡りました。
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カミーユがモデルになった代表作|1865年から1879年まで
カミーユを描いた作品を年代順に見ると、モネの人物表現そのものが変化していく様子がよく分かります。最初は人物や衣装そのものが大きな見どころでしたが、やがて人物は光、空気、庭、草原と結びつき、印象派らしい表現へと変わっていきました。
『バジールとカミーユ(「草上の昼食」のための習作)』|1865年
モネは1865年、大画面の『草上の昼食』を制作するため、画家仲間やカミーユをモデルに習作を重ねました。ワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されるこの習作では、バジールとカミーユが木立の中を歩いています。
注目したいのは、人物の顔を細密に描くこと以上に、木漏れ日が衣服へ落ちる状態を捉えようとしている点です。まだ印象派が誕生する前ですが、「人物を光の中でどう見るか」という問題はすでに始まっていました。
『緑衣の女』|1866年
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1866年の『緑衣の女』は、若きモネの名を広く知らしめた重要作です。黒い上着と鮮やかな緑色の縞模様のドレスを着たカミーユが、こちらへ身体を完全に向けるのではなく、歩みの途中で振り返ったような姿で描かれています。
衣服の光沢や毛皮、ドレスの重さが丁寧に表現され、後の風景画家モネからは少し意外に感じるほど、人物と衣装の存在感が強い作品です。1866年のサロンに出品され、モネに初期の成功をもたらしました。
『庭の女たち』|1866年頃

高さ約2.5メートルに及ぶ大作『庭の女たち』では、木々の下に4人の女性が描かれています。このうち左側にいる3人のモデルを務めたのがカミーユです。同じモデルを姿勢や衣装を変えながら複数の人物として画面に登場させています。
この作品でモネが大きく踏み込んだのが、白いドレスへ落ちる日なたと木陰の表現です。人物を室内で均一に照らすのではなく、戸外の変化する光の中へ置きました。後の印象派へ続く問題を、大画面の人物画で試みた作品といえます。
『揺りかご』|1867年
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1867年に長男ジャンが生まれると、カミーユは「モデル」であると同時に「母」としてもモネの画面に登場するようになります。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の『揺りかご』では、幼いジャンが横たわる揺りかごの傍らにカミーユが座っています。
『緑衣の女』のような華やかな衣装を見せる作品とは異なり、ここで描かれているのは家庭の内部にある親密な時間です。同じ女性を描きながら、作品の性格が大きく変わっていることが分かります。
『トルーヴィルの浜辺』|1870年
1870年、モネとカミーユは結婚後にトルーヴィルへ滞在しました。ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の『トルーヴィルの浜辺』では、カミーユともう一人の女性が浜辺で腰を下ろしています。
この絵には実際の砂粒が絵具へ入り込んでおり、少なくとも制作の一部が浜辺で行われたことが分かっています。女性の顔や衣服を細密に仕上げることより、強い日差しや海辺の風を素早く捉えることが重視されました。『緑衣の女』からわずか4年ですが、人物と光の関係はすでに大きく変わっています。

『庭のベンチのカミーユ・モネ』|1873年
1873年の『庭のベンチのカミーユ・モネ』では、アルジャントゥイユの庭のベンチに座るカミーユが描かれています。手には手紙のような紙を持ち、その背後にはシルクハットをかぶった男性が立っています。
この年にはカミーユの父が亡くなっており、画面の状況についてさまざまな解釈がなされてきました。ただし、物語を一つに決めつけるよりも、黒や灰色を中心としたカミーユの服と、庭の赤や緑、明るい光が強く対照をなしていることに注目すると、モネの関心が人物と周囲の環境の関係へ向かっていたことが見えてきます。

『散歩、日傘をさす女性』|1875年
カミーユを描いた作品の中で、現在最も広く知られている一枚が1875年の『散歩、日傘をさす女性』です。丘の上には緑の日傘を持つカミーユ、その後方には長男ジャンが描かれています。
ここでは、人物の顔や服そのものよりも、日傘、ヴェール、スカート、草、雲が風によって動く様子が大きな役割を果たしています。カミーユは画面の中心に大きく描かれていますが、同時に空や草原と同じ「光の中にある存在」でもあります。
構図、風の表現、1876年の第2回印象派展、1886年に描かれた2点の日傘の女性との違いについては、モネ『散歩、日傘をさす女性』とは|妻カミーユと息子ジャンを描いた名画を解説で詳しく紹介しています。

『ラ・ジャポネーズ』|1876年

1876年の『ラ・ジャポネーズ』では、カミーユは鮮やかな赤い着物をまとい、扇を手にしています。背景にも多数の団扇が飾られ、19世紀後半のフランスで大流行していた日本趣味、いわゆるジャポニスムを前面に出した作品です。
カミーユは金髪のかつらを着けています。これは日本人女性になりきるための写実的な扮装というより、むしろ西洋人女性が「日本趣味」を演じていることを意識させる仕掛けです。高さ2メートルを超える大作で、同年の第2回印象派展にも出品されました。
『散歩、日傘をさす女性』の自然な一瞬と、『ラ・ジャポネーズ』の演出された華やかな人物像。この2点がわずか1年違いで描かれたことからも、カミーユがモネにとって単一のイメージに固定されたモデルではなかったことが分かります。
アルジャントゥイユ時代|妻カミーユを「光の中の人物」へ
1871年末にフランスへ戻ったモネ一家は、パリ郊外のアルジャントゥイユで暮らすようになります。セーヌ川が流れ、鉄道でパリと結ばれたこの町は、1870年代のモネにとって重要な制作地となりました。
ここでの作品を見ていくと、カミーユの描かれ方に大きな変化があります。1866年の『緑衣の女』では、暗い背景から人物と服が浮かび上がり、カミーユ自身が画面の主役でした。一方、1870年代の庭や草原を描いた作品では、人物は植物、空、日差し、風と一体になっていきます。
これはカミーユの存在感が弱くなったという意味ではありません。むしろ、人物を風景の中へ置くことで、モネは「人間にも風景と同じように光が当たり、色が変化する」という問題を追究できるようになったのです。
1874年にはマネもアルジャントゥイユの庭にいるモネ、カミーユ、ジャンの一家を描きました。ルノワールもこの時期にモネ一家の周辺で制作しています。アルジャントゥイユはモネ一人だけの制作地ではなく、後の印象派を担う画家たちが互いの仕事を目にする場所でもありました。モネとルノワールの交流については、モネとルノワール|二人はどんな関係?ラ・グルヌイエールと印象派誕生を解説をご覧ください。
印象派そのものの特徴や、なぜ画家たちが戸外の光を重視したのかについては、印象派とは|モネ・ルノワール・ドガらの特徴と代表作品を解説でも詳しく紹介しています。
カミーユはモネの「ミューズ」だったのか
カミーユは現在、「モネの妻」「モネのミューズ」と紹介されることが多い女性です。実際、若いモネの作品にこれほど長期間、異なる姿で登場した人物は重要です。しかし「ミューズ」という一語だけで説明すると、作品ごとの違いが見えにくくなります。
『緑衣の女』では流行の服を着こなす現代女性、『庭の女たち』では光を受ける人物のモデル、『揺りかご』では母、『散歩、日傘をさす女性』では風景と一体化する人物、『ラ・ジャポネーズ』では日本趣味を演じる女性。モネはカミーユという一人の人物を使いながら、まったく異なる絵画上の課題に取り組んでいます。
この点こそ、カミーユを知る面白さです。彼女の顔だけを追うのではなく、「その作品でカミーユが何を担っているのか」を見ることで、モネの人物画が約10年の間にどれほど変化したかが分かります。
次男ミシェル誕生とカミーユの死|1878年から1879年

1878年、モネ一家はアルジャントゥイユを離れます。同年、パリで次男ミシェルが誕生し、その後一家はセーヌ川沿いのヴェトゥイユへ移りました。
この頃、カミーユの健康状態は悪化していました。死因は一般に癌とされていますが、病状の細部については伝記によって記述に差があります。少なくとも、1879年には深刻な病状にあり、同年9月5日に32歳で亡くなったことは確かです。
モネが最後に描いたカミーユの姿が、1879年の『死の床のカミーユ』です。画面では、横たわるカミーユの顔や身体が白、灰色、青、紫を含む冷たい色調の中へ包まれています。細部を輪郭線で固定するというより、布や顔、周囲の空間が色彩の層へ沈んでいくように描かれています。
この作品は、単なる「印象派の技法」の例として見るにはあまりにも個人的な一枚です。一方で、モネが最も身近な人の死を前にしても、顔に現れる色や光の変化を絵具によって捉えようとしていることも確かです。1860年代にモデルとして出会った女性を、モネはその生涯の最後にも絵画として残しました。
カミーユの死後、モネの絵はどう変わった?
カミーユが亡くなったからモネが風景画家になった、と単純に結びつけることはできません。モネはそれ以前から風景を主要な主題としており、『印象・日の出』も1872年の作品です。
ただし、カミーユの死によって、1860年代から続いてきた「身近な一人の女性を繰り返しモデルにする時代」が終わったことは明らかです。モネはその後も人物を描きますが、1890年代には『積みわら』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』など、同じ対象を異なる時間や天候のもとで描く連作へ比重を移していきます。
1883年にはジヴェルニーへ移住し、やがて自宅の庭と睡蓮の池が最大の主題となりました。1892年にはアリス・オシュデと再婚します。若き日の人物画から連作、そして晩年の『睡蓮』までを通して見ると、カミーユを描いた1860~70年代は、モネが人物と光の関係を集中的に試していた重要な時期として位置づけられます。
モネの妻カミーユについてよくある質問
モネの妻カミーユは何人目の妻ですか?
カミーユ・ドンシューはクロード・モネの最初の妻です。二人は1870年に結婚しました。カミーユの死後、モネは後にアリス・オシュデと生活をともにし、1892年に再婚しています。
モネとカミーユの子供は何人ですか?
二人の間には2人の息子がいます。長男ジャンは1867年生まれ、次男ミシェルは1878年生まれです。ジャンは『散歩、日傘をさす女性』や『揺りかご』など、幼い頃からモネの作品にも登場しています。
『散歩、日傘をさす女性』のモデルはカミーユですか?
はい。1875年作『散歩、日傘をさす女性』で緑の日傘を持つ女性は妻カミーユ、後方にいる少年は長男ジャンです。ただし、1886年にモネが描いた2点の「日傘を持つ女」はカミーユではなく、アリス・オシュデの娘シュザンヌ・オシュデがモデルです。
カミーユは『庭の女たち』の4人全員のモデルですか?
4人全員ではありません。オルセー美術館の作品資料では、左側に描かれた3人の人物にカミーユがモデルとしてポーズを取ったことが確認されています。同じ女性を異なる姿勢や衣服で使い、大画面の中に複数の人物として配置しました。
『ラ・ジャポネーズ』の女性もカミーユですか?
はい。1876年の『ラ・ジャポネーズ』のモデルもカミーユです。赤い着物をまとい、金髪のかつらを着け、扇を手にしています。当時フランスで広がっていたジャポニスムを題材とした大作です。
カミーユは何歳で亡くなりましたか?
カミーユは1847年1月15日生まれで、1879年9月5日に32歳で亡くなりました。
モネの妻カミーユの死因は何ですか?
カミーユの死因は一般に癌とされています。ただし、病状の詳しい記述には伝記によって差があるため、特定の病型まで一つに断定するのは慎重であるべきです。1879年に病状が深刻化し、9月5日に亡くなったことは確認されています。
まとめ|カミーユを知るとモネの人物画が見えてくる
カミーユ・ドンシューは、クロード・モネの最初の妻であり、長男ジャンと次男ミシェルの母、そして若きモネが最も繰り返し描いた重要なモデルの一人でした。
1865年の『草上の昼食』の習作から、1866年の『緑衣の女』『庭の女たち』、1875年の『散歩、日傘をさす女性』、1876年の『ラ・ジャポネーズ』、そして1879年の『死の床のカミーユ』まで、その姿は約15年にわたるモネの作品に残されています。
作品を順番に見ると、初期には衣装や人物そのものを堂々と描いていたモネが、やがて人物へ差す光、風になびく服、庭や草原との色彩的なつながりへ関心を広げていったことが分かります。カミーユを知ることは、モネの私生活を知るだけではありません。後に印象派を代表する画家となるモネが、人物を通して「光の中で世界がどう見えるか」を探っていった過程を知ることでもあるのです。
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