1892年の《ピアノを弾く少女たち》は、ルノワールの作品がフランス国家によって初めて購入された重要作です。ただし、この一枚だけを描いて提出したわけではありません。ルノワールは同じ構図を繰り返し制作し、オルセー美術館の記録では、国家買上げ作のほかに完成した油彩が三点、さらに油彩習作とパステルが知られています。
なぜ同じ場面をそこまで繰り返したのか。背景には、50歳を迎えたルノワールの作品がそれまでフランス国家に一度も正式購入されていなかった事情があります。ステファヌ・マラルメと美術行政にいたロジェ・マルクスらが働きかけ、1892年、非公式の依頼を経て《ピアノを弾く少女たち》が国家コレクションへ入りました。単なる「少女のかわいい室内画」ではなく、印象派の一人が国家美術館へ入る転機となった作品です。
ルノワールの代表作全体は「ルノワールの代表作10選」、1880年代から1890年代への画風転換は「ルノワールの画風と特徴」で詳しく解説しています。

『ピアノを弾く少女たち』とは
オルセー美術館所蔵作は1892年、油彩・キャンバス、116×90cm。二人の少女がアップライトピアノの前に集まり、一人が椅子に座り、もう一人が肩越しに楽譜をのぞき込んでいます。オルセー美術館の来歴によれば、1892年9月21日に国家がルノワール本人から購入し、当時の現存作家を扱うリュクサンブール美術館へ収蔵されました。
現在オルセー美術館の公式ページでは、この作品は常設展示中ではないと案内されています。所蔵していることと、いつでも展示されていることは同じではありません。
なぜフランス国家が買い上げたのか
1890年代初頭、ルノワールはすでに国際的な評価を得ていましたが、フランス国家はまだ作品を正式に購入していませんでした。オルセー美術館によれば、この状況を問題視した友人や支持者の中で、詩人ステファヌ・マラルメと、当時美術行政に関わっていたロジェ・マルクスが1892年に動きます。
その結果、行政側から非公式の働きかけがあり、《ピアノを弾く少女たち》が国家によって購入されました。「政府から厳密な注文を受けて描いた」と言い切るより、国家収蔵を見据えた非公式の依頼と働きかけの中で制作され、完成作が購入されたと理解する方が正確です。
作品がリュクサンブール美術館へ入ったことには象徴的な意味があります。1870年代には独立展を開き、官展サロンの外で活動した印象派の画家が、20年足らずのうちに国家コレクションへ組み込まれたからです。
完成作は一枚ではない
《ピアノを弾く少女たち》を理解するうえで最も重要なのが、同じ主題の複数ヴァージョンです。オルセー美術館は、国家買上げ作のほかに完成した同構図の油彩を三点確認しており、そのうち一点がニューヨークのメトロポリタン美術館、二点は個人蔵としています。さらにオランジュリー美術館に油彩習作があり、同寸大のパステルも知られています。
つまり「同じ絵が二枚ある」のではありません。完成作だけでも複数あり、さらに習作とパステルまで含めて、同一主題をかなり集中的に検討しています。オルセー美術館も、一つの構図をここまで徹底して繰り返すのはルノワールにとって例外的だったと説明しています。

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オルセー版とメトロポリタン版は何が違うのか
両作品の基本構図はよく似ています。座る少女、立つ少女、ピアノ、楽譜、カーテンや室内装飾という骨格は共通しています。しかし人物の位置、背景の処理、色の置き方、輪郭の強さには細かな差があります。
メトロポリタン美術館所蔵作は111.8×86.4cmで、オルセー版よりやや小さい作品です。METは、ルノワールが国家美術館への収蔵を意識し、複数の油彩で構図を練ったと説明しています。どれか一枚を「失敗作」、別の一枚を「完全な完成版」と単純に分けるのではなく、画家が同じ主題の中で人物配置と色彩を調整した連続した試行として見るのが適切です。
二つを見比べると、ルノワールが同じ主題を機械的に複製していないことが分かります。少女の頭部の距離、楽譜へ向かう視線、ピアノ周辺の暗部、背景の赤や緑の配分など、一見小さな違いが画面全体の密度を変えています。
二人の少女は何をしているのか
座っている少女は鍵盤の前に位置し、立つ少女は肩越しに楽譜をのぞき込みます。二人の顔は近く、視線が同じ楽譜へ集まるため、構図の中心はピアノの鍵盤そのものではなく「二人が一つの楽譜を見る関係」にあります。
会話の最中なのか、演奏前なのか、練習中なのかは特定されていません。ルノワールは物語を説明する小道具を増やさず、少女たちの距離、手、視線だけで静かな共同作業の時間を作っています。
1881年の《二人の姉妹(テラスにて)》でも、二人の女性を近くに置きながら明確な物語を説明しません。《ピアノを弾く少女たち》ではさらに室内へ場所を絞り、人物同士の距離を構図の中心にしています。

1880年代の硬い輪郭から何が変わったのか
ルノワールは1880年代に、印象派時代の柔らかな筆触から一度大きく離れました。1884〜1887年の《大水浴図》では、裸婦の身体がはっきりした輪郭で区切られ、人物は彫刻のような量感を持っています。

《ピアノを弾く少女たち》では、線による構造は残しながら、その硬さが和らいでいます。少女たちの髪、服、カーテン、花、ピアノ周辺は暖色と寒色が柔らかく重なり、輪郭の外側へ色が呼応します。
これは「印象派へ戻った」のではありません。1870年代の色彩と1880年代の構造を経験した後で、両方を一つの画面へ統合した1890年代の表現です。
18世紀フランス絵画とのつながり
オルセー美術館は、この主題が18世紀フランス絵画、とりわけフラゴナールを思わせる伝統的な題材であることを指摘しています。音楽を楽しむ若い女性、親密な室内、柔らかな布や家具という要素は、18世紀の優雅な風俗画とつながります。
しかしルノワールは過去の様式をそのまま再現してはいません。ピアノ、カーテン、家具、少女たちの服装は19世紀末のブルジョワ家庭を思わせます。古い絵画の主題を、自分が生きる時代の室内へ移し替えています。
モネの「連作」と同じなのか
同じ時期、モネは《積みわら》や《ルーアン大聖堂》など、一つの対象を光や時間の違いによって繰り返す連作へ進みました。オルセー美術館も、《ピアノを弾く少女たち》の反復を考える際にモネの連作を想起させるとしています。
ただし目的は同じではありません。モネが時間や光の変化を比較したのに対し、ルノワールは同じ人物配置を何度も練り直し、国家収蔵に耐える完成度を探ったと考えられます。反復という点は共通しても、問題にしているものは異なります。
見るときの3つのポイント
二人の頭部の距離を見る
二人の少女の顔が近く配置されることで、視線が楽譜へ集中します。画面の親密さは表情よりも、この距離によって生まれています。
赤・青・黄の反復を見る
髪、服、カーテン、花、家具に同じ色が少しずつ繰り返され、室内全体が一つの色調にまとまります。
別ヴァージョンと比べる
同じ主題の別作品を見ると、ルノワールが「同じ絵をコピーした」のではなく、構図を微調整し続けたことが分かります。
まとめ|国家買上げだけでなく制作過程が重要
《ピアノを弾く少女たち》は、1892年にルノワール作品として初めてフランス国家が購入したことで知られます。しかし作品そのものを見るうえでは、同じ構図を完成油彩、油彩習作、パステルへ繰り返し展開した制作過程も同じくらい重要です。
1880年代に強めた輪郭と構図を保ちながら、色彩と筆触を再び柔らかくしたこの作品は、ルノワールの1890年代を理解する基準になります。「かわいらしい少女の絵」の背後には、国家美術館への収蔵、複数ヴァージョンの検討、古典と現代の融合という複数の問題が重なっています。
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