〈錦絵から肉筆美人画へ〉勝川春章の美人画 大名にも愛された浮世の絵師/イチノセイモコのアートコラム08

勝川春章 『美人図(1783~89年)』メトロポリタン美術館

浮世絵と肉筆美人画の二刀流

江戸中期の浮世絵界をリードした一人、勝川春章(1726〔1743年説もあり〕~92)は、今でこそ知名度は高くありませんが、当時、リアルな描写の役者絵と、品のよい美人画によって名を馳せました。

浮世絵師としての人気は好調であったにもかかわらず、しだいに錦絵から離れて肉筆美人画を手がけました。そもそも春章は、肉筆による美人画を得意とした宮川長春(1682~1752)に学んだ経緯があります。人生の後半期の多くを美人画の制作に費やし、多くの名作を残しました。

役者のリアルな表情を描いて評判に―4世市川團十郎、3世瀬川菊之丞

勝川春章『4世 市川團十郎(18世紀半ば)』
メトロポリタン美術館蔵

元禄~享保年間(1688~1736)に鳥居派が得意とした役者絵は、当時の歌舞伎の勇壮美を描いた、ダイナミックな表現が評判を呼びました。しかし、鳥居派の役者絵は、決してリアルな描写とは言えないものでした。
それに対して春章は、明和元年(1764)以降、一筆斎文調(生没年不詳)とともに役者に「似せる」ことに重きを置いた錦絵を作り、一世を風靡しました。春章が興した勝川派は、その後、役者絵のおもな担い手となりました。弟子の中には春朗、のちの葛飾北斎(1760~1849)も名を連ねています。

勝川春章 『東扇 3世瀬川菊之丞(1775年頃)』メトロポリタン美術館蔵

美人画での微妙な感情表現

役者絵で人気を博した春章は、安永年間(1772~81)以降、肉筆美人画を手がけるようになります。美人画では、役者絵で培ったリアルな表現を進化させたと言われています。
たとえば、女性の顔に角度を与え、唇をわずかに開かせるといった微妙な表現です。この女性の感情表現は、鈴木春信(1725?~1770)などが描いた美人の型と異なり、見る者に深く訴えるものがありました。
微妙な感情表現を駆使した美人の大首絵は、春章の手掛けた複数の艶本(春画版本)の扉絵に登場しました。これは、喜多川歌麿(?~1806)以前の美人大首絵と言われています。

勝川春章『会本可男女怡志(扉絵)』国際日本文化研究センター蔵

春章の評判

春章の絵は、巷で「春章一幅値千金」と称賛されました〔『後編風俗通』/安永4年(1775)序〕。これは中国・宋時代の蘇軾の詩の一説にある「春宵一刻値千金」をもじった表現です。
浮世絵といえば、遊里と芝居町という2つの悪所を舞台として発展してきた、俗なジャンルです。それに対して、春章が手がけた肉筆の美人画は、「優美」「典雅」と評されます。

勝川春章『花魁と禿図(18世紀後半)』メトロポリタン美術館蔵

三年、山籠もりして古画を学んだ精神性の高さ

春章の絵にこのような評価が附される理由には、春章が他の浮世絵師よりも、高い精神性をもって制作に取り組んでいたことも一因でしょう。
幕府の老中をつとめ、国内の文化財調査を初めて指揮した松平定信(1759~1829)は、春章について随筆『退閑雑記』〔寛政9年(1669)序〕に記しています。

春章となんいふ浮世絵かく人は、いと心高くて、すでに此の春章がかいたる画は殊に高料となることなりしをいと恥ぢて、ひなびたる画はかくまじとて、友だちに乞ひて、米銭少しとり集め、甲州の山へみとせばかりもかくれて、もはら古き画をのみ学びて卯の春の頃また出でぬ。これよりは如何にいふとも、浮世絵はかかざりしとぞ。たしかなる物語なり。春章の気象すぐれてゆかしけれ。

ひなびたる画、つまり浮世絵を描くまいと心に決めた春章が、三年間も山に籠って「古き絵」ばかりを学んで下山した、というエピソードです。
古い絵を学ぶということは、大和絵や雪舟以降の水墨画(漢画)といった伝統的な絵画に立ち返り、時の権力者と共にあった芸術を学ぶということです。このような古画は、和歌や漢詩などの雅な文芸と関係が深く、高貴な身分の人々が嗜んできた領域の芸術だったと言えます。
春章が山籠もりして学んだ絵は、それまで彼が手がけてきた俗な絵画=浮世絵とは対称的なものでした。その春章の姿勢に対して定信は、大衆に喜ばれた浮世絵を描いていたにしては「いと心高」しと評価し、興味を持ったのです。

勝川春章『三美人図(1790~1800年)』シカゴ美術館蔵

雅と俗の文化が交わり、成熟した時代

江戸時代の文化は、古画に対する浮世絵、和歌・漢詩に対する俳諧・戯作など、雅と俗の概念がせめぎあい、ダイナミックに展開しました。春章が生きた江戸中期は、ちょうどそのバランスが絶妙に保たれ、文化的にもっとも成熟していた時代だったと言われています。

雅と俗、2つの相対する概念では、明らかに雅の文化の方が上位です。
しかし、たとえば俳諧では、与謝蕪村(1716~83)が「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。」(『春泥句集』〔安永6年(1777)序〕)と言い、俗な語をつかって情景を表したとしても「俗から離れること」の重要性を説きます。雅な韻文学から派生した俳諧を、単なる俗なものとして終わらせるのではなく、そこに雅の品格を与えることにより、文芸としての立ち位置を高めていたのです。
春章も俳諧を嗜んだことが知られており、蕪村の創作意識を理解していたようです。

複数の大名から美人画の依頼があった

晩年の春章は、大和郡山藩2代目藩主であった柳沢信鴻(1724~92)や平戸藩主・松浦家など、複数の大名の庇護を受けていました。信鴻の『松鶴日記』には南蘋派の絵師・宋紫石(1715~1786)がたびたび登場しますが、紫石の死後、入れ替わるように春章が襖絵の依頼を受けています。
近年の研究では、春章の肉筆画「美人鑑賞図」(出光美術館蔵)が、柳沢家の依頼に応じて描かれたことが明らかにされています。

アートライター:イチノセイモコ

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