画家ゴッホの人生と、有名な作品「ひまわり」「星月夜」を解説

画家フィンセント・ファン・ゴッホの人生

「オーヴェルの教会」フィンセント・ファン・ゴッホ(1890年)

略歴、ゴッホの生涯

ゴッホの父は聖職者でオランダ改革派教会に属していました。
母アンナ・コルネリア・カルベントゥスは書店員の娘でした。幼少期は絵を描き、真面目で静かで思慮深い性格だったと言われます。オランダ南部のブラバント地方の小さな村で育ち、若いころは画商として働いていたといわれます。
そんな両親の間に1853年3月30日、オランダ南部北ブラバント州の村ズンデルトでフィンセント・ファン・ゴッホは生まれました。6人兄弟の長男でした。
暇さえあれば田舎を放浪して自然観察に勤しんだと言われます。幼い頃から癇癪持ちだったようです。幼少期についてはほとんど知られていませんが、弟のテオとは生涯にわたって文通をした記録が残されています。
1868年頃(15歳頃)にゴッホは学業から離れ二度と戻ることはありませんでした。絵画の勉強は、ズンデルトの村塾で1年、ゼーヴェンベルゲンの寄宿学校で2年、その後ティルブルグのヴィレム2世中等教育学校に18ヶ月間学びました。この間の4年間はデッサンや水彩画に力を入れながら技術的な熟練を積んでいったようです。このようにゴッホは1870年に画廊に雇われ働く前に、大まかな一連の教育を終えています。
1870年頃にハーグの画廊(グーピル商会)にて雇われますが、1876年に解雇されました。ゴッホは青年期に画商、教師、伝道師として働きました。
1880年(27歳頃)に画家になることを決意しました。これが彼の人生と世界の美術史を大きく変えることになります。
1885年、ゴッホはアントワープ王立芸術アカデミーに入学し正式な美術教育を受けます。授業を退屈に感じたゴッホでしたがこの街と美術館に感銘を受けたようです。
1886年、ゴッホは弟のテオを頼りパリに移り住みます。日本の浮世絵をコレクションしたのはこの時期。彼の描く作品の暗い色調は明るくなります。
1888年、アルルに移ります。その地でゴーギャンとの共同生活を始めるも、意見の相違から仲違いをし共闘生活は終わります。その後ゴッホは入退院を繰り返すようになります。
1889年、サン=レミの療養所へ入所。

『カラスのいる麦畑』フィンセント・ファン・ゴッホ(1890年)


1890年、フランス・パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住みます。幾つもの名作を描くも、自らを銃で撃ち死去しました。
ゴッホの作品は死後、その美しさ、表現、技法や色彩で注目され、20世紀美術に大きな影響を与えました。

ゴッホの与えた影響

『夜のカフェテラス』フィンセント・ファン・ゴッホ(1888年)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、オランダのポスト印象派の画家であり、死後、20世紀美術に多大な影響を与えた西洋美術史上最も有名で影響力のある人物の一人になりました。

10年間のキャリア(1880-90)の間に、約900点の絵画と1,100点以上の作品を制作しました。生前はあまり評価されませんでしたが、晩年はパリ近郊の芸術家村オーヴェル=シュル=オワーズにて過ごし、新しい友人を作って絵画制作に打ち込んだようです。精神疾患に苦しみ、生涯を通じて貧しく、ほぼ無名のままの人生でした。

彼の代表作として最も知られているのは「ひまわり」ですが、その他にも「星月夜」「アイリス」「医師ガシェの肖像」「カラスのいる麦畑」「オーヴェルの教会」「夜のカフェテラス」など、短く激しい人生の中で数多く有名な作品を残しています。

画家ゴッホの代表作『ひまわり』『星月夜』他、写真紹介と解説

ここでは画家・ゴッホの有名な作品を幾つか選び、解説を添えて作品写真とともにご紹介します。

ゴッホの名作「星月夜」について解説

『星月夜』フィンセント・ファン・ゴッホ(1889年)

フィンセント・ファン・ゴッホの『星月夜』は、その独特の発光と人工的な色調で有名です。この絵には、丘の上の村の静かな夜が描かれており、星と三日月が強烈な光を放ち、この絵に象徴的な輝きを与えています。この絵で彼が使用した青色と渦巻く筆跡が示すように、この絵はしばしばゴッホの精神状態の悪化と関連していると言われます。前景にある様式化された糸杉。キリストの十字架は糸杉で作られているといわれます。そのことからもこの作品が宗教的な要素を含んだ作品であることがわかります。
ゴッホ自身は「失敗作」としながらも、その力強い自然描写から表現主義の象徴的な作品となった作品です。

ゴッホの代表作「ひまわり」を解説

「ひまわり」フィンセント・ファン・ゴッホ(1888-1889年)

フィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』は、7枚の作品が知られています。そのうちの1点は太平洋戦争末期に米軍による空襲で消失しました。残る6枚のうち1点は日本にあります。東京新宿のSOMPO美術館(旧館名:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)に収蔵されています。弊社からも近く何度も足を運び鑑賞しました。

この作品はわずか3色の黄色を力強く使い、華やかな色彩のハーモニーを生み出している点で優れた絵画とされます。また『ひまわり』というシンプルなモチーフは、多くの人の心を深く惹きつけます。ゴッホ自身、ひまわりの絵が特別なものであることを知っており、ゴッホが亡くなった後の葬儀には友人たちがひまわりを持って来てくれたそうです。

『ひまわり』のシリーズでは、満開のものからしおれたものまで、あらゆる段階のひまわりが描かれています。『ひまわり』は、オランダ文学では献身と忠誠を表すものだと言われます。ゴッホはこのモチーフを通して、日常の苦悩の中に光を見出していたようです。人生のさまざまなステージを表し、光と純粋さの象徴でもあります。彼にとって黄色は幸福の象徴でした。

生前は売れることがありませんでしたが死後、彼の描いた『ひまわり』は代表作となりオークションで高額で取引されるようになりました。

傑作「ガシェ博士の肖像」を解説

「ガシェ博士の肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ(1890年)

「ガシェ博士の肖像」は、ゴッホが晩年の2ヶ月あまりのうちに描いた作品です。ゴッホはオーヴェル=シュル=オワーズの農村へ移り、そこでホメオパシーを用いる医者で芸術家の支援者であるガシェ博士一家と親しくなり彼の肖像画を描きました。

鮮やかな色彩と表情豊かな筆致が特徴で、平面的な背景と奥行きのあるテーブルの構図が面白い効果を生んでいる作品です。「ガシェ博士の肖像」は油彩画2点とエッチング1点が存在していることが知られています。「ガシェ博士の肖像」はゴッホの残した傑作の1つとされます。
この油彩画はゴッホではなくポール・セザンヌが描いたのではないかという憶測を呼びましたが、1990年5月15日クリスティーズの競売で約124億円という高額で大昭和製紙名誉会長の齊藤了英氏により競り落とされると、史上最高額の絵画の1つとなりました。齊藤了英氏は後日ルノワール作「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」も落札。「自分が死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」と言い、大ニュースとなりました。

ゴッホの作品「アイリス」について解説

「アイリス」フィンセント・ファン・ゴッホ(1889年)

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画「アイリス」は1889年に描かれました。青いアイリスの花を描いた作品です。「アイリス」は、ゴッホ自身もそのコミュニティの一員だった、病院に入院している精神障害者の世界を表現していると考えられています。ゴッホが精神病院滞在中に描いた4枚の「アイリス」の絵のうちの1枚であり、茶色、紫、緑・黄色に分けられたバランスの良い配色の背景とともに描かれています。
批評家は、絵の左側にある一輪の白い菖蒲の花が、希望・生命・欲望を表しているのではないかと指摘しています。

画家・ゴッホの残した言葉

死後に天才と呼ばれるようになったフィンセント・ファン・ゴッホは37歳の若さで亡くなりました。彼は幾つかの名言を残しています。ここで彼の残した3つの言葉をご紹介したいと思います。

「芸術は人生に打ちひしがれている人々を慰めるものだ。」

「多くのものを愛することは良いことだ。そこに真の強さがあるから。」

「私はますます自分自身でいようとする。人々が認めるか否かはあまり気にしない。」

あとがき

ご覧いただきありがとうございました。弊社福福堂は生きている画家のプロデュースをして創業20年を迎えました。彼ら彼女らのほとんどは20代~60代です。全国の百貨店や街のギャラリーで展覧会を開き生活しています。訪れた町でスケッチをして作品に活かしたり、出会った画家や人々と交流して新しい知見を得たりしながら新たな作品を生んでいます。同じ風景を見ても生み出す作品は様々です。

画家たちを見ていますとゴッホのエピソードとも重なることもあります。画家それぞれに得意不得意や流儀があり苦労することもありますが、個展が成功すると共に喜びを分かち合います。それが20年画商業を続けてこられた理由の1つです。記事を読んで絵に興味を持たれた方はぜひ彼ら彼女らのインタビュー記事もぜひご一読ください。読者の皆さまが展覧会場で生きた画家の描く原画と出会い楽しみを感じてもらえることを願って日々記事を書いております。

(福福堂 編集部)

コメント

  1. 絵が描かれた年が間違っているのでは?たとえば、1989年となっているのは1889年ではないかと。

    • ありがとうございます。ご指摘の通りです。訂正いたしました。

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