クリムト『生命の樹』とは|ストックレー・フリーズの意味・制作技法を解説

クリムトの《生命の樹》は、単独の一枚絵として制作された作品ではありません。ベルギー・ブリュッセルのストックレー邸食堂を飾るために構想された「ストックレー・フリーズ」の中心モティーフであり、クリムト自身が残した等身大の実施設計図と、職人たちがそれをもとに制作したモザイク装飾を分けて理解する必要があります。

現在ウィーンのMAK(オーストリア応用美術博物館)が所蔵するのは、1910〜1911年にクリムトが制作した9枚の実施設計図です。一方、実際のモザイク・フリーズはストックレー邸の食堂に組み込まれたまま現存します。本記事では、「生命の樹」という有名な図像だけでなく、《期待》《成就》《騎士》を含む室内装飾全体、制作技法、素材、ウィーン工房との協働までを整理します。

《生命の樹》は一枚の絵ではない

一般に「クリムトの《生命の樹》」として流通する画像の多くは、ストックレー・フリーズのための実施設計図の一部です。MAKが所蔵する9枚の設計図は、クリムトが実制作のために描いたほぼ原寸大のカルトンで、各画面には色彩だけでなく、金属、モザイク、真珠母貝などの素材指定まで書き込まれています。つまり、完成品をそのまま描いた独立絵画ではなく、空間装飾を実現するための設計資料でもあります。

グスタフ・クリムト《生命の樹》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第4部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《生命の樹》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第4部/MAK所蔵

完成したモザイク装飾はブリュッセルのストックレー邸にあり、設計図はウィーンのMAKにあります。この所在の違いを押さえるだけでも、「MAKに《生命の樹》のモザイクそのものがある」という誤解を避けられます。

ストックレー邸とヨーゼフ・ホフマン

ストックレー邸は、銀行家・美術収集家アドルフ・ストックレー夫妻のために、建築家ヨーゼフ・ホフマンが設計した邸宅です。建築だけでなく、家具、工芸、壁面装飾、庭園までを一体として構想する「総合芸術作品」の理念が徹底され、ウィーン工房の作家や職人が多数参加しました。

クリムトが担当したのは食堂の壁面装飾です。フリーズは三方の壁に展開し、長い二面には枝を大きく伸ばす生命の樹が左右に呼応して配置され、一方に《期待》、反対側に《成就》が置かれます。正面側には幾何学的に処理された《騎士》が配され、単独の絵を見るのとは異なる、部屋全体を包む構成になっています。

グスタフ・クリムト《騎士》/1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第9部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《騎士》/1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第9部/MAK所蔵

《期待》《生命の樹》《成就》の関係

ストックレー・フリーズを理解するうえで重要なのは、《生命の樹》だけを切り離さないことです。西側の壁面では、装飾的な樹木の広がりの中に《期待》と呼ばれる女性像が立ち、反対側の壁面では、対応する位置に抱き合う男女の《成就》が置かれます。生命の樹は両者をつなぐ空間的な骨格として機能します。

グスタフ・クリムト《期待(踊り子)》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第2部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《期待(踊り子)》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第2部/MAK所蔵

《期待》の人物は、横顔、細長い身体、三角形を基調とした衣装によって静止したように見える一方、衣装の反復文様と周囲の装飾が画面全体に緊張を与えます。人物の内面的な物語を写実的に説明するのではなく、姿勢と装飾によって「待つ」という状態を象徴化しています。

グスタフ・クリムト《成就》/1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第8部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《成就》/1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第8部/MAK所蔵

《成就》では男女が一体化するように抱き合い、人物の身体は衣装の文様の中へ溶け込んでいます。これは同時期のクリムト《接吻》にも通じる構成ですが、ストックレー・フリーズでは食堂の壁面、生命の樹、隣接する装飾との関係の中で見る必要があります。

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渦巻く枝は何を表しているのか

《生命の樹》で最も目を引くのは、幹から伸びた枝が何重もの渦巻きをつくる形です。自然の樹木をそのまま写したものではなく、成長、反復、連続性を強く感じさせる装飾文様へと変換されています。枝の中には鳥や目のような円形文様が入り、自然、生命、装飾が分かちがたく結びつきます。

グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第3部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第3部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第5部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第5部/MAK所蔵

この装飾性には、クリムトが長く関心を寄せたエジプト美術、ビザンティン美術、日本美術など複数の視覚文化の影響が重なっています。ただし、一つの宗教的教義に対応させて「この枝は何を意味する」と単純に固定するより、人物と植物を同じ装飾体系の中に組み込み、食堂全体に生命の循環と充足を感じさせる構成として見る方が作品の実態に近いでしょう。

金・銀・プラチナまで使った実施設計図

MAK所蔵の実施設計図そのものも、通常の下絵とは大きく異なります。トレーシングペーパー上に鉛筆、色鉛筆、パステル、グアッシュを用い、さらに金、銀、プラチナ、ブロンズなどの金属材料まで使用しています。クリムトは完成時の反射や光沢を、単なる色指定ではなく素材感として設計図に組み込んでいました。

グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第7部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《生命の樹》部分/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第7部/MAK所蔵

設計図に見える金、銀、プラチナは、完成モザイクに使われたすべての材料と一対一で同じという意味ではありません。設計図は、色、光沢、素材の置き換えを職人へ伝えるための指示書でもあり、クリムトは余白に具体的な材料指定を書き込んでいます。この点こそ、完成装飾と作業図を混同してはいけない理由です。

実際のモザイクはどう作られたか

完成したストックレー・フリーズは、クリムト一人が壁に直接描いたものではありません。ウィーン工房とレオポルト・フォルストナーのモザイク工房を中心に、金工、エナメル、陶材、石材など複数分野の職人が関わりました。資料には、大理石、陶材、エナメル、真珠母貝、ビーズ、宝石類、金属、色ガラスなど、異なる質感を持つ素材が組み合わされたことが記録されています。

グスタフ・クリムト《バラの茂み》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第6部/MAK所蔵
グスタフ・クリムト《バラの茂み》/1910–1911年/ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図 第6部/MAK所蔵

第6部《バラの茂み》の設計図には、花や茎の一部を「モザイクではなく別素材にする」といった実制作上の指示まで残されています。つまり、色面をタイルへ置き換えただけの単純なモザイクではなく、異素材を細かく割り振った装飾でした。金色も一種類ではなく、光の当たり方や金属の質によって異なる輝きを生むことが求められました。

ウィーン工房との共同制作

ストックレー邸では、建築家ホフマンの設計思想とウィーン工房の工芸制作、クリムトの図案が一つの室内空間に統合されました。ここでは「画家が完成品を一人で制作する」という近代絵画のイメージより、建築家、画家、工芸家、モザイク職人が共同して総合芸術をつくるという考え方が重要です。

クリムトについて生涯や黄金様式全体から知りたい場合は、「クリムトとは|生涯・代表作・黄金様式をわかりやすく解説」もあわせてご覧ください。ストックレー・フリーズは、黄金様式を平面絵画から建築空間へ拡張した作品として位置づけることができます。

現在どこで見られるのか

クリムトが制作した9枚の実施設計図は、現在MAK(オーストリア応用美術博物館)のコレクションに属します。MAKは各図案を「ストックレー邸食堂モザイク・フリーズ実施設計図」として管理しており、《期待》《生命の樹》《バラの茂み》《成就》《騎士》などを個別資料として確認できます。

一方、実際に制作されたモザイク・フリーズはブリュッセルのストックレー邸に現存します。邸宅は私有であり、一般の美術館のように常時公開されている場所ではありません。そのため、私たちが展覧会図録、書籍、複製画像などで目にする「生命の樹」の多くは、MAK所蔵の実施設計図をもとにした画像です。販売用の複製や後世の再現画像を、1911年前後の原資料や現地の実制作モザイクと混同しないことが重要です。

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