ゴッホとゴーギャン|アルルの共同生活と「耳切り事件」までを解説

左:『ゴッホの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 91.8×73cm ナショナル・ギャラリー所蔵 /右:『ゴーギャンの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年12月 油彩・キャンバス 90.5×72.5cm ファン・ゴッホ美術館所蔵
左:『ゴッホの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 91.8×73cm ナショナル・ギャラリー所蔵 /右:『ゴーギャンの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年12月 油彩・キャンバス 90.5×72.5cm ファン・ゴッホ美術館所蔵

フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンが南フランス・アルルの「黄色い家」で暮らしたのは、1888年10月23日から12月下旬までのわずか約2か月でした。しかし、この短い共同生活は西洋美術史でもっとも有名な画家同士の共同制作のひとつとなり、最後にはゴッホが左耳を傷つける「耳切り事件」によって突然終わります。

二人は単純に仲が悪かったわけではありません。ゴッホはゴーギャンを高く評価し、芸術家たちが共同生活を送りながら制作する「南のアトリエ」の中心人物として彼をアルルへ招きました。実際に暮らし始めると、二人は一緒にアリスカンへ出かけ、同じ場所を描き、作品について夜遅くまで議論し、互いの肖像や椅子まで作品にしました。その一方で、目の前の自然を見ながら描こうとするゴッホと、記憶や想像から画面を組み立てようとするゴーギャンの違いは次第に大きくなっていきます。

この記事では、二人がなぜアルルで暮らすことになったのか、黄色い家で何を描いたのか、なぜ関係が破綻したのか、そして1888年12月23日の「耳切り事件」について現在どこまで分かっているのかを、作品と記録をたどりながら解説します。

  1. ゴッホとゴーギャンはどんな関係だったのか
  2. ゴッホがアルルに夢見た「南のアトリエ」
  3. 『ひまわり』はゴーギャンを迎えるために描かれた
  4. 二人はアルルへ来る前から自画像を交換していた
  5. 1888年10月23日、ゴーギャンがアルルへ到着
  6. アリスカンを一緒に描く|同じ風景から生まれた違う絵
  7. 最大の違いは「自然を見て描くか、記憶から描くか」
  8. ゴーギャンが描いた「ひまわりを描くゴッホ」
  9. 『ゴッホの椅子』と『ゴーギャンの椅子』|二人を物で描く
  10. 共同生活はなぜ破綻したのか
  11. 1888年12月23日「耳切り事件」は何が起きたのか
  12. 「ゴーギャンがゴッホの耳を切った」説は本当か
  13. ゴッホはなぜ耳を切ったのか
  14. 事件後、ゴーギャンはアルルを去った
  15. 黄色い家の寝室に残された共同生活の記憶
  16. 失敗した共同生活が二人の絵画に残したもの
  17. ゴッホとゴーギャンのアルル共同生活|時系列
  18. よくある質問
    1. ゴッホとゴーギャンは何日くらい一緒に暮らした?
    2. ゴッホはゴーギャンのために『ひまわり』を描いたの?
    3. ゴッホの耳を切ったのはゴーギャン?
    4. ゴッホとゴーギャンは共同生活後に再会した?
  19. まとめ|アルルの2か月は二人の違いを浮かび上がらせた
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ゴッホとゴーギャンはどんな関係だったのか

フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンは、ともに印象派以後の絵画を大きく変えた画家です。しかし、二人の経歴や性格、絵画についての考え方はかなり異なっていました。

1853年にオランダで生まれたゴッホは、画商や伝道師などを経験した後、20代後半から本格的に画家を目指しました。一方、1848年生まれのゴーギャンはゴッホより5歳年上で、船員を経てパリで株式仲買人として働いた後、画家へ転身しています。二人は1887年ごろパリで知り合い、ゴッホが1888年2月に南フランスのアルルへ移った後も交流を続けました。

この時期の二人には共通点もありました。印象派のように目の前の光だけを再現するのではなく、色彩そのものに感情や象徴性を持たせ、新しい絵画を作りたいと考えていたのです。その意味で、二人は同じ方向を向いていました。ただし、そこへ至る方法は大きく異なっていました。

ゴッホの生涯全体についてはゴッホとは|どんな画家?生涯と代表作「ひまわり」「星月夜」をわかりやすく解説、ゴーギャンの生涯とタヒチ時代についてはポール・ゴーギャンとは?代表作「我々はどこから来たのか」とタヒチ時代を解説で詳しく紹介しています。

ゴッホがアルルに夢見た「南のアトリエ」

ゴッホは1888年2月19日にパリを発ち、翌20日に南フランスのアルルへ到着しました。出発時の主な目的は、パリで消耗した体力を立て直し、北方では得にくい明るい色彩のもとで制作することでした。当初、アルルでの滞在は一時的なものと考えられ、その後マルセイユへ移る可能性も想定されていました。

一方、ゴッホは以前から、画家が孤立して暮らすのではなく、互いに支え合いながら制作する必要があると考えていました。アルルの強い光や果樹園、麦畑を描くなかで、その考えは南フランスに共同の制作拠点をつくる計画へと発展します。1888年5月、ラマルティーヌ広場の「黄色い家」を借りたゴッホは、画家仲間がともに暮らしながら制作できる場所として家を整え、ゴーギャンを迎えようとしました。

「南のアトリエ」は、アルルへ向かう時点ですでに完成していた計画ではありません。画家同士が支え合うという以前からの理想が、アルルでの生活と制作、黄色い家の借用を通して具体的な形を得た構想でした。移住の理由と約15か月の制作の流れは、ゴッホとアルル|なぜ南フランスへ?で詳しく解説しています。

ところが、実際にアルルへ来た画家はゴーギャンだけでした。結果として壮大な芸術家共同体は、気質も制作方法も異なる二人の画家が一軒の家で向き合う濃密な共同生活へと変わっていきます。

『黄色い家』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 72×91.5cm ゴッホ美術館所蔵(アムステルダム)
『黄色い家』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 72×91.5cm ゴッホ美術館所蔵(アムステルダム)

『ひまわり』はゴーギャンを迎えるために描かれた

ゴーギャンがアルルへ到着する前、ゴッホは黄色い家を作品で飾ろうと考えていました。その中心となったのが『ひまわり』です。

1888年8月、ゴッホは花瓶に生けたひまわりを立て続けに描きました。黄色い背景、黄色い花、黄色に近い色調の花瓶を組み合わせ、ひとつの色の中に微妙な変化を作り出しています。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーなどに所蔵されている有名なアルル版『ひまわり』は、ゴーギャンと共同生活を始めてから描いたのではなく、彼が到着する前に「客人を迎える装飾」として構想された作品でした。

この事実は、『ひまわり』を見るうえで重要です。ゴッホにとってゴーギャンの到着は、単なる友人の訪問ではありませんでした。自分が夢見てきた芸術家共同体がいよいよ始まるという期待を抱いていたのです。黄色い家を花の絵で満たそうとした行為からも、その高揚が伝わってきます。

『ひまわり』の連作と黄色い家の装飾構想については、ゴッホ『ひまわり』とは|装飾画として構想された“黄色の絵画”を解説で詳しく紹介しています。

二人はアルルへ来る前から自画像を交換していた

ゴッホとゴーギャンの関係を象徴する作品のひとつが、1888年に行われた自画像の交換です。

アルルにいたゴッホは、ブルターニュにいたゴーギャンと若い画家エミール・ベルナールに肖像画を送ってほしいと頼みました。これに応じてゴーギャンが制作したのが『自画像(レ・ミゼラブル)』です。画面には大きく自分自身の顔を描き、背景には小さくベルナールの肖像を置いています。

この自画像交換にはベルナールも加わっており、ゴッホの画家仲間はゴーギャン一人ではありませんでした。ロートレック、ベルナール、シニャックらを含む交流の全体像は、ゴッホの友人・交流した画家たちで紹介しています。

『自画像(レ・ミゼラブル)』ポール・ゴーギャン 1888年 油彩・キャンバス 44.5×50.3cm ファン・ゴッホ美術館所蔵
『自画像(レ・ミゼラブル)』ポール・ゴーギャン 1888年 油彩・キャンバス 44.5×50.3cm ファン・ゴッホ美術館所蔵

一方、ゴッホもゴーギャンへ『ゴーギャンに捧げる自画像』を送りました。頭髪を短くした自分の顔を平面的な色彩で表し、自らを修道僧のような存在として見せようとしています。

二人がまだ同じ家に住む以前から、相手に「自分はどのような画家なのか」を作品によって伝え合っていたことが分かります。共同生活は突然始まったのではなく、書簡と作品の交換によって準備されていたのです。

『ゴーギャンに捧げる自画像』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス ハーバード美術館フォッグ美術館所蔵
『ゴーギャンに捧げる自画像』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス ハーバード美術館フォッグ美術館所蔵

1888年10月23日、ゴーギャンがアルルへ到着

1888年10月23日、ゴーギャンはアルルへ到着し、黄色い家でゴッホとの共同生活を始めました。ゴッホが待ち続けていた「南のアトリエ」が、少なくとも二人の画家によって現実になった瞬間です。

二人は同じ家で食事をし、制作し、町や周辺の風景へ出かけました。芸術についての議論も生活の中心でした。共同生活といっても、同じ絵を一緒に描くわけではありません。同じ対象を見ても、それぞれがまったく違った方法で一枚の絵に変えていきました。

その違いがよく分かる場所が、アルル郊外に残る古代ローマ以来の墓地「アリスカン」です。ゴッホとゴーギャンは1888年秋、この並木道へ一緒に出かけ、それぞれ作品を制作しました。

アリスカンを一緒に描く|同じ風景から生まれた違う絵

アリスカンは、並木道と古代の石棺が続くアルルの歴史的な場所です。1888年10月から11月にかけて、ゴッホとゴーギャンはここを繰り返し訪れました。

ゴッホのアリスカンでは、黄、橙、緑の色彩と勢いのある筆触によって秋の並木道が動くように描かれています。木々や道が奥へ伸びていく空間の中に、現場で受けた視覚的な刺激がそのまま残っているようです。

『アリスカン』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年11月 油彩・キャンバス 73×92cm ファン・ゴッホ美術館所蔵
『アリスカン』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年11月 油彩・キャンバス 73×92cm ファン・ゴッホ美術館所蔵

これに対してゴーギャンの『アリスカン』では、風景がより大きな色面に整理され、人物と木々が装飾的に配置されています。実際の風景を忠実に再現するより、見たものをいったん自分の内部で組み替え、絵画として構成する意識が強く表れています。

『アリスカン』ポール・ゴーギャン-1888年-油彩・キャンバス-約91.6×72.5cm-オルセー美術館所蔵
『アリスカン』ポール・ゴーギャン-1888年-油彩・キャンバス-約91.6×72.5cm-オルセー美術館所蔵

二人が同じ場所で制作したことは重要です。同じ秋のアルルを見ても、ゴッホは自然との直接的な接触から色と筆触を引き出し、ゴーギャンは自然を記憶や観念によって再構成しました。共同生活によって二人の距離が縮まるほど、逆にその違いもはっきり見えてきたのです。

最大の違いは「自然を見て描くか、記憶から描くか」

ゴーギャンはアルルで、ゴッホに目の前の対象だけに頼らず、記憶や想像から描くことを勧めました。ゴーギャン自身は、自然をそのまま再現することよりも、記憶、感情、象徴を組み合わせて画面を作る方向へ進んでいました。

ゴッホも想像力を否定していたわけではありません。色彩を大胆に変え、遠近法を歪め、実際に見える世界をそのまま写す画家でもありませんでした。しかし制作の出発点としては、現実の人物、風景、花などを前に置き、そこから強い感覚を得ることを重視しました。

つまり二人の違いは「写実対抽象」のような単純な対立ではありません。ともに現実を変形して描きながら、その出発点が異なっていたのです。ゴッホは対象との直接的な対面を重視し、ゴーギャンはそこから一度離れて記憶や象徴へ向かおうとしました。

ゴーギャンの平面的な色面や総合主義については、ゴーギャンの絵の特徴|クロワゾニスム・総合主義・タヒチの色彩まで徹底解説でも詳しく紹介しています。

ゴーギャンが描いた「ひまわりを描くゴッホ」

二人の共同生活を直接伝える重要な作品が、ゴーギャンの『ひまわりを描くファン・ゴッホ』です。1888年12月、ゴーギャンはキャンバスの前に座るゴッホの姿を描きました。

ただし、この場面を写真のような記録と考えることはできません。ゴッホが有名な花瓶の『ひまわり』を集中的に制作したのは同年8月で、ゴーギャンがアルルへ到着した10月より前です。ファン・ゴッホ美術館も、この肖像が現実の制作場面をそのまま写したものではないとしています。

そこにこそゴーギャンらしさがあります。ゴーギャンは「実際に目の前で起きていること」ではなく、ひまわりというモチーフとゴッホという画家を結びつけ、彼を象徴する姿として描きました。

ゴッホ自身はこの肖像を見て、自分に似ていることを認めながらも、そこに疲労し神経が張りつめた自分の姿を感じ取っています。一枚の肖像画の中にも、二人が互いをどのような画家として見ていたかが表れているのです。

『ひまわりを描くファン・ゴッホ』ポール・ゴーギャン 1888年12月 油彩・ジュート 約73×91cm ファン・ゴッホ美術館所蔵
『ひまわりを描くファン・ゴッホ』ポール・ゴーギャン 1888年12月 油彩・ジュート 約73×91cm ファン・ゴッホ美術館所蔵

『ゴッホの椅子』と『ゴーギャンの椅子』|二人を物で描く

ゴッホは共同生活のころ、自分とゴーギャンが使う椅子をそれぞれ一枚の絵として描きました。『ゴッホの椅子』と『ゴーギャンの椅子』です。

『ゴッホの椅子』に描かれているのは、素朴な木製の椅子です。座面にはパイプと煙草が置かれ、明るい昼の光が画面を満たしています。これに対して『ゴーギャンの椅子』は、肘掛けのある重厚な椅子で、座面には本と蝋燭が置かれています。室内は夜で、赤と緑の強い色彩が響き合います。

『ゴッホの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 91.8×73cm ナショナル・ギャラリー所蔵
『ゴッホの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年 油彩・キャンバス 91.8×73cm ナショナル・ギャラリー所蔵
『ゴーギャンの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年12月 油彩・キャンバス 90.5×72.5cm ファン・ゴッホ美術館所蔵
『ゴーギャンの椅子』フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年12月 油彩・キャンバス 90.5×72.5cm ファン・ゴッホ美術館所蔵

人物本人を描かず、空の椅子によってそれぞれの性格を表した「代理肖像」と見ることができます。ナショナル・ギャラリーも、この2点を二人の異なる性格と芸術観を示す対作品として位置づけています。

素朴な昼の椅子と、知的で暗い夜の椅子。共同生活を送った二人がいかに異なっていたかを、ゴッホ自身が最も簡潔に示した作品ともいえるでしょう。

共同生活はなぜ破綻したのか

黄色い家での生活は、制作面では非常に刺激的でした。しかし、二人が長期間安定して暮らせる環境ではありませんでした。

ゴッホはゴーギャンとの共同生活に大きな期待を寄せていました。芸術家共同体そのものが、自分の将来を支える重要な計画でもあったからです。一方のゴーギャンは、アルルで永続的に暮らすことをゴッホほど強く望んでいたわけではありませんでした。

さらに二人は、芸術について激しく議論しました。自然を前にして制作すること、記憶から描くこと、色彩、文学、芸術家としての将来など、生活と制作のほぼすべてが議論の材料になります。ゴーギャン自身も後に、二人が平穏に同居することは難しかったという趣旨を記しています。

重要なのは、「ある一度の喧嘩だけで突然すべてが壊れた」と考えないことです。共同生活が始まってから約2か月の間に、制作方法、性格、生活習慣、将来への期待の違いが積み重なり、12月下旬にはゴーギャンがアルルを離れることを考えるようになっていました。

1888年12月23日「耳切り事件」は何が起きたのか

1888年12月23日の夜、ゴッホとゴーギャンの共同生活は決定的な破局を迎えます。ただし、その夜に起きたことを最初から最後まで直接確認できる記録は残っていません。そのため、確実に分かっている事実と、後世の証言・推測を分けて考える必要があります。

二人の間に強い緊張があり、その夜に口論があったこと、ゴーギャンが黄色い家を離れたこと、その後ゴッホが左耳を刃物で傷つけたことは広く確認されています。翌朝、ゴッホは黄色い家で倒れているところを発見され、アルルの病院へ運ばれました。

事件の約1週間後、1888年12月30日付のアルル地方紙『ル・フォルム・レピュブリカン』は、ゴッホが23日夜11時30分ごろ、アルルの公認娼館を訪れ、「ラシェル」と呼ばれる女性を求め、紙に包んだ耳を渡したと報じています。女性の正確な身元については現在も確定していません。

1888年12月30日付『ル・フォルム・レピュブリカン』に掲載されたゴッホの耳切り事件の記事
1888年12月30日付『ル・フォルム・レピュブリカン』に掲載されたゴッホの耳切り事件の記事

ゴーギャンはその後、ゴッホが剃刀を手に自分を追ってきたという内容を回想しています。しかし、この記述は事件から年月がたってから書かれた証言であり、そのまま事件当夜の客観的記録として扱うことはできません。

「ゴーギャンがゴッホの耳を切った」説は本当か

耳切り事件については、2000年代に「ゴーギャンが剣でゴッホの耳を切り、二人が事件を隠したのではないか」という説も発表されました。ゴーギャンがフェンシングをしていたことや、事件後の二人の言葉を根拠として構築された仮説です。

興味深い説ではありますが、現在これを確定した歴史的事実として扱うことはできません。ファン・ゴッホ美術館は現在も、ゴーギャンとの口論後、混乱状態に陥ったゴッホが自ら左耳の一部を切ったという説明を採用しています。

したがって、「実はゴーギャンが切った」と断定するのも、「事件の細部まですべて判明している」と考えるのも適切ではありません。確実なのは、二人の関係が12月23日に破綻し、その直後にゴッホが左耳を重く傷つけ、翌朝病院へ運ばれたということです。

ゴッホはなぜ耳を切ったのか

ゴッホがなぜ自分の耳を傷つけたのかについても、単一の理由に還元することはできません。

ゴーギャンとの共同生活の破綻が大きな心理的衝撃になった可能性は高いでしょう。しかし、ゴッホは事件以前から極度の疲労や不安定な状態にあり、その後も発作を繰り返しました。現在まで、彼がどのような病気を抱えていたのかについて医学的な診断は確定していません。

後世には、てんかん、双極性障害、アルコールの影響、栄養状態、その他さまざまな可能性が論じられてきましたが、ゴッホを直接診察できない現代から病名を断定することはできません。ファン・ゴッホ美術館も、ゴッホが正確にどの病気を患っていたかは分からないという立場を取っています。

「失恋したから」「ゴーギャンと喧嘩したから」「狂気の天才だったから」といった単純な物語にすると、実際のゴッホの人生から遠ざかってしまいます。事件は、長く続いた肉体的・精神的な消耗と、ゴーギャンとの共同生活が崩壊する危機が重なった時期に起きた、と考えるのが最も慎重です。

事件後、ゴーギャンはアルルを去った

12月24日、ゴッホは病院へ運ばれます。ゴーギャンは弟テオへ連絡し、テオはパリから急いでアルルへ向かいました。12月25日、テオは病院で兄を見舞い、その日の夜、ゴーギャンとともにパリへ戻ります。

ゴーギャンが再び黄色い家でゴッホと共同生活をすることはありませんでした。約2か月続いた「南のアトリエ」は、ここで事実上終わります。

ゴッホは1889年1月に黄色い家へ戻り、再び絵を描き始めました。この時期には包帯を巻いた自分自身を描いた自画像も制作しています。事件は創作活動の終わりではありませんでした。ゴッホはその後もアルルで制作し、5月には自らサン=レミの療養院へ入り、そこで『星月夜』など重要な作品を生み出していきます。

この時期、アルルでゴッホを見舞い、弟テオや家族へ容体を伝えたのが郵便職員ジョゼフ・ルーランでした。二人の友情と、妻オーギュスティーヌ、アルマン、カミーユ、マルセルを描いた連作は、ゴッホとルーラン一家の肖像画で詳しく紹介しています。

黄色い家の寝室に残された共同生活の記憶

ゴッホが黄色い家に作った自分の寝室は、『アルルの寝室』として絵に残されています。簡素なベッド、椅子、机、洗面道具、壁に掛けられた絵。豪華なものはありませんが、ゴッホは色彩によって「休息」を表そうとしました。

この部屋を描いた1888年10月は、ちょうどゴーギャンがアルルへ到着するころです。つまり『アルルの寝室』は、ゴッホが孤独な画家として暮らしていた場所であると同時に、これから芸術家との共同生活が始まろうとしていた家の姿でもあります。

黄色い家での生活空間と『アルルの寝室』3作品の違いについては、『アルルの寝室』とは|ゴッホが描いた“安らぎの部屋”を解説をご覧ください。

失敗した共同生活が二人の絵画に残したもの

ゴッホとゴーギャンの共同生活は、人間関係として見れば成功したとはいえません。しかし、美術史の上では非常に大きな意味を持ちました。

ゴッホはゴーギャンとの議論を通して、自然を見ながら描く自分の方法と、記憶や想像によって描く方法を改めて意識することになります。ゴーギャンもまた、アルルでゴッホの激しい色彩と制作への執念を間近に見ました。

二人が同じ場所に長く暮らし、同じ風景を描き、互いを肖像化した時期は、この約2か月しかありません。その短さこそが、アルル時代を特別なものにしています。『アリスカン』『ひまわりを描くファン・ゴッホ』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』を並べて見ると、友情だけでも対立だけでも説明できない、二人の画家の濃密な関係が浮かび上がります。

ゴッホとゴーギャンは、似ていたから衝突したのではありません。絵画を根本から変えたいという強い意志を共有しながら、そのための方法が違っていました。アルルの黄色い家は、その二つの考え方が最も近い距離でぶつかった場所だったのです。

ゴッホとゴーギャンのアルル共同生活|時系列

時期出来事
1888年2月ゴッホがパリを離れ、南フランスのアルルへ移る
1888年5月ゴッホが後に「黄色い家」と呼ばれる建物を借りる
1888年8月ゴーギャンを迎える装飾として『ひまわり』を制作
1888年9月ゴッホが『黄色い家』を描く
1888年9月ごろゴッホとゴーギャンらが自画像を交換
1888年10月23日ゴーギャンがアルルへ到着し、黄色い家で共同生活を開始
1888年10~11月二人がアリスカンなどで制作
1888年11~12月制作方法や将来について議論が激しくなる
1888年12月ゴーギャンが『ひまわりを描くファン・ゴッホ』を制作
1888年12月23日二人の関係が決定的に破綻。ゴッホが左耳を傷つける
1888年12月24日ゴッホがアルルの病院へ運ばれる。ゴーギャンがテオへ連絡
1888年12月25日テオがゴッホを見舞う。ゴーギャンはアルルを離れる
1889年1月ゴッホが制作を再開し、包帯を巻いた自画像などを描く

よくある質問

ゴッホとゴーギャンは何日くらい一緒に暮らした?

ゴーギャンがアルルへ到着したのは1888年10月23日で、共同生活が事実上終わったのは12月23~25日です。約2か月、9週間ほどの共同生活でした。

ゴッホはゴーギャンのために『ひまわり』を描いたの?

はい。1888年8月に制作したアルル版『ひまわり』は、黄色い家へゴーギャンを迎えるための装飾として構想されました。ただしゴーギャンがアルルに到着したのは10月23日なので、主要な『ひまわり』は共同生活が始まる前に描かれています。

ゴッホの耳を切ったのはゴーギャン?

ゴーギャンが剣で切ったという説はありますが、現在確定した事実ではありません。ファン・ゴッホ美術館を含む一般的な研究では、ゴーギャンとの口論後、ゴッホが自ら左耳を傷つけたとされています。ただし事件当夜の細部には不明な点が残っています。

ゴッホとゴーギャンは共同生活後に再会した?

いいえ。1888年12月にゴーギャンがアルルを去った後、二人が直接再会することはありませんでした。

まとめ|アルルの2か月は二人の違いを浮かび上がらせた

ゴッホとゴーギャンの共同生活は、1888年秋から冬にかけて約2か月続きました。ゴッホは黄色い家を芸術家共同体「南のアトリエ」にしようと夢見てゴーギャンを迎え、『ひまわり』で部屋を飾りました。二人はアリスカンへ一緒に出かけ、互いに刺激を与えながら制作します。

しかし、自然との直接的な対面から絵を作ろうとするゴッホと、記憶や想像、象徴から画面を構成しようとするゴーギャンの違いは次第に明確になりました。生活上の緊張も重なり、1888年12月23日の危機とゴッホの耳切り事件によって共同生活は終わります。

それでもアルルの2か月を単なる「天才画家二人の喧嘩」と見るだけでは不十分です。『アリスカン』『ひまわりを描くファン・ゴッホ』『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』には、二人が互いを観察し、影響を受け、同時に自分自身の絵画とは何かを問い直した時間が刻まれています。黄色い家は失敗した共同生活の舞台であると同時に、19世紀末の絵画が新しい方向へ分かれていく瞬間を目撃した場所でもあったのです。

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