モローやルドンが好きだった京都の女子高生は、心象風景を描く日本画家になった―画家 國枝愛子さんインタビュー

幼い頃より京都の芸術好きな両親の下で育ち、高校時代に出会ったギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンの絵に魅了され続けている日本画家・國枝愛子。悠久の時間の中に儚く移ろう、光、影、水の織り成す一瞬の風景をとらえ、見る人のイメージを喚起する心象風景を描いています。画家としてのスタイルをどうやって確立したか、アートコンサルタントの亘理隆がインタビューしました。

モローやルドンが好きだった京都の女子高生は、心象風景を描く日本画家になった―画家 國枝愛子さんインタビュー

フルート奏者ではなく、画家を目指したわけ

──略歴では富山生まれ、京都育ちとありますが…

「母の実家、富山市で生まれ、産後すぐ京都に戻り、西陣のど真ん中、晴明神社や西陣織会館の近くで育っています。今は、二条城のそばにある亡き祖父の家に主人と幼い息子と三人で住んでいます」

晴明神社晴明祭では、鼓笛隊で横笛を吹いて参加していた。

──京都の町で育った影響はありますか。

「晴明神社で毎年秋にある晴明祭に、鼓笛隊として参加していました。笛が得意やったんで、後にフルートを習い、中学ではオーケストラ部でした。両親とも絵画、音楽、バレエ、演劇など芸術が大好きで、京都や大阪の美術館にもよく行っていました」

──絵も小さい頃から好きだったのですか。

「猫の漫画とか描いていて、10冊ぐらいノートがあります。ただ、漫画はストーリー作りが難しく、1枚の絵を描いた方がいいなという気持ちになりました」

小学校6年生の時、京都のお盆行事「地蔵盆」で使う行燈画として描いた絵。

──音楽家は目指さなかったんですね。

「クラシック音楽は、昔の偉大な作曲家の音楽を再現する感じだったので、それよりも自分の世界をつくりたいという思いがありました」

──本格的に絵を目指したのはいつからですか。

「高校からです。普通科だったので、絵の方に進むために一年生から画塾に通いました」

──普通科で、美術大学を目指すのは覚悟が必要ではないですか。

「京都女子中学・高校という進学校で、周りは京都大学や国公立大学を受験するなか少数派でしたね。私は、ギュスターヴ・モロー※1の『夕べと苦しみ』という作品が気に入ってずっと模写していたこともありましたから、絵が好きだったことはまちがいありません。まだその頃は、画家という職業についてもよくわかっていませんでしたから、とにかく絵を描いて自分らしい自由な生き方ができればいいなという漠然とした憧れだったと思います。京都市立芸術大学受験は、親が応援してくれたことも大きいです」

※1 ギュスターヴ・モロー:1826-1898年、フランスの象徴主義の画家。聖書や異教的な神話を題材にしながら、内面的な感情や心理の機微を陰影のある鮮やかな色彩で描いた。

京都精華大学に、二度合格した

──受験は思い通りではなかったようですね。

「近くの画塾に通いましたが、絵を描く時に向き合う気持ちなど理念的な指導でした。高校生には、ちょっと早過ぎたかもしれないですね。第一志望の京都市立芸術大学は不合格で、大阪の受験予備校に通いもう一年勉強。そこでは具体的な絵画技術の指導があり、今までが嘘のように上達しましたが、翌年また京都市立芸術大学は落ちて、京都精華大学に行くことにしました。前年も精華大は受かっていたのに、市立芸大に行きたくて一浪したんです。めちゃくちゃ悔しかったんで、精華大では『一番になるぐらい頑張ろう!』と思いました」

大阪の予備校時代は、デッサンの基本を改めて学びなおした。

──大学では日本画を選んだのですね。 

「実家には画集がものすごくあり、高校1年の頃、ギュスターヴ・モローを見たんです。すごくいいなあと。そのあと、オディロン・ルドン※2に惹かれ、青木繁※3にもはまりました。神話や幻想的な物語のある絵が好きだったんですね。その流れでいけば洋画専攻なのですが、当時京都にある美大の卒業制作展で見た洋画専攻の作品は、現代アートの影響が強く、私がやりたい方向とは違うなと感じました。日本画を選んだのは、卒業制作展で、どの大学も日本画に惹かれる作品が多かったことがあります。色彩感覚を活かした水彩画が得意でしたが、水彩が得意な人は日本画に向いていると言われたことも理由の一つです。」

※2 オディロン・ルドン:1840-1916年、フランスの象徴主義の画家・版画家。1890年代以降、草花やギリシャ神話を題材に、神秘的な美しさのある華やかな色彩のパステル画や油彩画を描いた。

※3 青木繁:1882-1911年、現・福岡県出身の洋画家。西洋世紀末美術の影響を感じさせる、神話・歴史を題材にした浪漫性の強い文学的作風で注目されたが、28歳で早世した。

──モローやルドンになぜ惹かれたのでしょうか。

「象徴派、世紀末の危うい感じや幻想性でしょうか。夢へ誘われるような、儚さや哀愁を感じさせる色彩の美しさ、見る人の想像を超えるような独創性に、とても惹かれたのだと思います」

在学中に日展に入選

──京都精華大学の日本画に行ってどうでしたか。

「毎年京都に創画展と日展と院展がくるんです。全部行きましたが、日本画は本当に良かった。ただ京都精華大学には院展の先生がおられず、3年生の時、記念出品みたいな気持ちで日展に出したら、まさかの初入選になりました」

──それはどんな絵ですか。

「京都の町屋とその前に咲いている芙蓉を描いた作品です。その時は、風景画が私にあっていると思って素直に描きました」

『古い家』日本画,227.3×181.8㎝(F150号)2011 在学中に日展入選した作品。古い家に対する親密さが感じられる作品。家に絡まる植物の青から緑の色が生気を与え、消火器BOXの赤が画面のアクセントになっている。

──大学では風景画をよく描いていたのですか。

「先生からいつも写生、写生と言われていました。『日本画は写生や。出かけて行って描きなさい。スケッチしなさい』って。植物課題、動物課題、人物課題そして最後に風景課題。それで風景画は楽しいなとなって、ずっと風景画を描いていました」

──写生に基づく風景画はその後も描いたのですか。

「町屋の作品は日展に入選しましたが、元々モローやルドンが好きなんで、そういうもっと色彩豊かで幻想的な、自由な作品を描きたいと思うようになりました」

──そのあと描いた絵はどんな感じでしょう。

「卒業制作は全然違うものを描きました。今の画風に繋がるような、水面の世界に女性がいて、その心が水面を水のように流れていく、ちょっと抽象性のある日本画です。色彩もかなりこだわって宝石のオパールの色などを研究して描きました。」

「心映りわたる」日本画 194×194㎝(S120号)2013 揺らめく水面に、屈折したり直進したりする光をとらえた作品。この後も、水と光の繊細な変化をとらえる作品をしばしば描いている。

「絵を描きつづけるのは難しい」ハードな会社員生活

──卒業制作は満足できたわけですね。

「それまでは課題をこなす感じでしたが、卒業制作では表現したいものを表現できた満足感がありました。幻想に誘われる感じを抽象表現や色彩で表現することをもっと突き詰めたくて、本当は大学院へ行きたかったんです。でも親の援助なしでは難しかったので、東京の企業で働き始めました」

──どんな仕事をしていたのですか。

「結婚式場での接客です。社会人経験も大切だし、新卒で入社できるのは今だけだと前向きに考えて、3年間仕事を頑張りました。今考えると、接客業は、画家としてお客さまと接する際にとても役立っていますので貴重な経験になりました。」

──その間にも、絵は描いていたのですか。

「描いてはいました。ただ、日本画の下地を描くところまではできても、岩絵具をのせて完成させることがなかなかできなくて…結構体力仕事でもあったので、休日は疲れきって寝ていました。働きながら絵を描くのは私には体力的に無理だと気がつきました」

「個展をメインにする画家になりたい」

──3年間東京でその仕事をしながら、画家になる夢は捨てなかった…

「社会人になって2年目に福福堂の勉強会に参加し、『団体展に出品するのではなく、個展をメインにする作家になる』という目標ができたんです。会社員を辞めてバイトしながらでも日本画を描きたいと親に話したら、『あなたがそんなに画家になりたいと言い出すと思わへんかったし、せめて大学は美大に行かせてやりたいと思って行かせただけだった。絵を描くのは自由だけど自立してもらわないと困る』と言われました。もう25歳だし、それもそうだなと納得しましたが、葛藤もしました。両親を安心させてかつ絵を描くにはどうしたらよいものか悩みましたね」

──画家が絵で生計を立てられるようになるまでは時間がかかることが多いですね。

「そんな矢先、今の主人と出会いました。美大でデザインを専攻した人で、私の志も理解してくれて話が合いました。卒業後はゲーム会社に勤めていて、画家同士ではないので、ほどよい距離感もありました。ちょうど出会った頃、埼玉の伊勢丹浦和店で百貨店デビューを果たしました。まだその時は結婚式場で働いていたので土日に在廊もできず、一枚も絵が売れませんでした。自分自身が情けなかったですし、必死な思いもありました」

屋久島での感動体験から、心を映す風景が生まれた

──いつ頃から本格的に絵を展示販売するようになりましたか。 

「東京で結婚してからです。大学以来やっと集中して描いていけるようになり、2016年に百貨店でのグループ展に参加し始め、少しずつ作品を展示販売できるようになりました。冬に、広島福屋でグループ展が予定されていたので、秋に屋久島に旅行しました。私は元々ジブリ世代で『もののけ姫』がものすごく好きやって、もののけ姫の森というとこ行ったら、もう感動して。そのまま自然な、素直な心で苔や屋久杉を描いた作品を百貨店のグループ展に出したら、思っていた以上に作品が売れたんです。グループ展の最初の頃は、周りの作家さんに影響されて、花の絵がいいか、人物の絵がいいかとすごく迷っていました。けれども、屋久島に行ったことで、本当に感動した私の思いを描けば心が伝わるんやってことを実感したんです」

「苔光る」日本画 15×15㎝ 2016  屋久島での感動体験をもとに描くことで、自分の描く作品に手ごたえを感じるようになった。

──屋久島の風景の何が、國枝さんにインスピレーションを与えたんだろう。『もののけ姫』の話とリンクする景色から自分にも見えるものがあったのか、それとも屋久島の風景そのものにすごく感じるものがあったのか。

「どっちもですね。木や川や石などの自然に神が宿るという、日本独特のアニミズムみたいなものをすごく感じて…あと、何だろう…何千年もこの樹木は生きているんですと言われると、たった26年しか生きていないな、私はと、すごく自分が小さく感じられたんです。そういう時、悠久の時の一瞬を捉えたいという気持ちが湧いてくるんです。ひたすら屋久杉や苔を描き、屋久島シリーズは15点くらい制作しました。」

「思い出の坂」日本画 18×14㎝(F0)2018 この作品で、画面の周囲に万華鏡を覗いたかのような煌めく色彩の断片を散りばめている。

──心象風景は、スケッチをしながらそのイメージを膨らましていくのですか。それともスケッチを手がかりに、自分がその時に感じたものをあとで思い出して描くのですか。

「その場に行くことがすごく大事で、スケッチします。帰ってきて再構成するというか。思い出しながら、脳内に再生される画像の雰囲気を表現するために色々試行錯誤するんです。その場にいて感動することはもちろん大事ですが、やはり自分の作品として再構成したい。背景の周囲に、万華鏡のような効果を出そうとしたこともあります。インスピレーションが降りてくることが多いんです。風景の中にいる自分の感情を色彩で表現したいんです」

「こもれび~nооn~」日本画 10×15㎝ 2017  昼の、煌めくような眩しい太陽の光と出会ったその一瞬を、輪郭が曖昧な無数の円を描くことでとらえている。枝の線があるが、ほとんど抽象的な作品にも見える。 

──その後、「こもれびシリーズ」、「滝シリーズ」などの作品群を制作されていますが、共通するものを感じます。

「はい。木漏れ日など移ろう光や、雨、川、滝と変幻自在に姿を変える水などを意識して描いていますが、一貫していると思います。目の前に映るものの本質をとらえようとすることで、夢幻泡影といった彼岸と此岸を想起させる儚い美を象徴的に描くことから、夢幻的な抽象に近い表現まで幅が広がっていきました。よく有限の美とも説明していますが、いずれ失われてしまう限りある世界だからこそ、その一瞬が愛おしくなり、表現したくなるんです。光や水という形のないものや、雨の表現ももっと深めていきたいと思っています」

「夢幻泡影」日本画 31.8×41㎝(F6) 2021夢幻泡影(むげんほうよう)は仏教用語で、夢、幻、泡、影はいずれも移ろいやすいことから、人生や世の中の物事が非常にはかないことをたとえている。国枝さんは、賽の河原洞窟(島根県浜田市石見畳ケ浦)を取材し、水しぶきのカーテンに彼岸と此岸の境目のイメージを感じて描いた。

──お客さまの反応もよいですね。

「展覧会に作品を出して、お客さまの反応を肌で感じるのはすごく大事なことやなって思います。心象風景の絵を初めて買っていただいた時も、お客さまの反応からこれで合っているんだとか、伝わっているんだということが確認できるんです。お客さまと一人一人の出会いも奇跡だと思っていて、この出会いが個展をやる醍醐味なんです」

俳句を学んだら、自分の描きたいものが言語化できるようになった。

──水彩画教室も開いていますね。

「水彩画教室は始めて4年になります。自分の制作時間を確保するのは大変ですが、画家として描く技術を伝えられることは楽しいですし、学ぶこともあります。皆さんがどういう作品を描きたいか、どういう表現が魅力的なのかを考えさせられます。今は制作、教室、育児を三立させたいと思っています」

國枝さんは、水彩画を教えることで、自らの表現についての思考も深まるという。

──子どもができたことによる変化はありますか。

「妊娠した時に体調不良で絵が描けない中、感性を伸ばしたいと思い俳句を始めました。句作をしていくうちに季語のニュアンスを知り、雪月花、花鳥風月など四季に対する感性が、日本文化に多大な影響を与えていることに改めて気がつきました。和の文化の独自性や素晴らしさを再認識するきっかけをつくってくれた息子に大感謝です」

──突然、俳句の話が出てきましたが…

「実は、以前から俳句をやりたかったんです。作品の題名を考えるときに、歳時記を見て決めることもありました。しみじみと染みるほど身に深く感じることを意味する『身に入む(みにしむ)』とか、自然・夢・希望のはかなさや優美さを表現する『あえかなる』は俳句用語ですが、題名に使っています。ひらがなの表現が柔らかい日本的な言葉が大好きで、歳時記を見ながら俳句を作りたいと思っていたんです。でも、句作のやり方がわからない」

──俳句はどうのように学んでいるのですか。

「京都らしいご縁で、私の個展に偶々京都で句会をされている俳人の方が来はったんですよ。うちの祖父と関りがあった方だったので気にかけてくれはって、句会の話を伺ったらとても面白そう。で、すぐ私も入りました」

──俳句は、絵画の制作にも影響がありましたか。

「やってみたらものすごく芸術的な世界で、私が昔から描きたかったものが俳句によって言語化されてきたんです。水面を描いてきましたが、水面に惹かれていたわけに気づきました。そこに虚と実の世界があったからだったんだなと。水面には虚の世界が映っていますが、実の世界とも接しています。今現実に生きている私たちは、浮世というか、何か虚の世界と実の世界が移り変わり、変化して混ざり合っている世界に生きているじゃないですか。そういうことを表現したかったんです。それまでは直感的に右脳で描いていて言語化できていませんでした」

俳句からカタチになった「宇宙猫」

──言語化できたことで、絵を描くときに自分の描きたいものが明確になってきたということですね。

「そうなんです。左脳も使うようになったんです。俳句は制限された十七文字で表現するので右脳も左脳も前頭葉も鍛えられるらしいです。妊娠出産の頃に『宇宙猫』を描いていたのですが、俳句を詠むことで、そうだ、私が描きたかったのはこれだったんだと自信をもって、より確固たる思いで描けるようになってきました」

左上:うるちゃん、左下:ミゲちゃん、右:ディエちゃん。どの猫をモデルにするか、体形や個性によって使い分ける。猫は幼い頃からずっと飼いたいと思っていた。

──えっ、宇宙猫って何ですか。

「宇宙猫は、虚の世界と現世を自由に行き来する猫です。宇宙はキャッチフレーズのようなものです。虚実の狭間の世界というよりも、宇宙と言った方が入りやすいかなと。猫は私がずっと飼っているということもありますが、今の自分の状況もあります。時間がなくて絵に刺激を与える旅に行けないので、自由や美の象徴として猫を描いています。」

──育児をしながら描く時間を確保するのは大変だと思います。

「それがもう全然取れなくて。考える時間だけは多くて、やりたいことや気づきばかりがどんどん増えていくのです。俳句を始めたことで、最近与謝蕪村にもはまっています。以前は南画や蕪村には関心がなかったのですが、俳句で視野が広がって…蕪村の『闇夜漁舟図』という絵に深く感動しました。そこに漂う哀愁に共感しました。だから俳句もずっと作り続けていき、同時に、俳画もやってみたい意欲が湧いています。」

宇宙猫をメインに新シリーズ公開

──伊勢丹浦和店のグループ展がまもなくですね。

「今は『宇宙猫シリーズ』を伊勢丹浦和店のグループ展で、しっかり完成させて出します」

──何点ぐらい出す予定ですか。

「新作を10点は出品する予定です」

──宇宙猫は具体的にはどういう仕上がりになりそうですか。

「私の特徴であり、得意な塗り重ねの技法を使っています。宇宙猫は、重ねて複雑な色彩を出していくことがすごくやりやすいモチーフです。周りは面でぼかして、内を色彩で凝縮させていきます。描いていてすごく楽しいんです。日本画の絵具は重ねれば重ねるほど透明水彩に近い色が出てきますが、透明水彩より、より強く複雑な色になっていき、そこに未だに痺れます。私の描く色は、日本画でしか出せない色だと自負しています」

──描いている人が楽しいのは重要ですね。本人が楽しく描いていなければ、見ている人が楽しくならない。

「最近の制作で使いだした、気に入っている技法があります。野毛といいますが、金箔を線状に裁ったもので水面を表しています。まさに日本画的な意匠であると思います。これを猫の中にいっぱい使っていきたい。野毛を使って、雨の表現にもまたチャレンジしたいと思っています。」

「はじまりの時」日本画 33.3×24.2㎝(F4)2020  
水面に映りこむようないくつもの金箔の線は、雨というよりも余韻を表現しているという。
この作品では、野毛の技法をまだ使っていず、箔を切って貼っていた。

──新しいチャレンジは、楽しみです。

「去年初めて、オーストラリアで開催したアートフェア<AFFORDABLE ART FAIR MELBOURNE2024>に出品しました。1点も売れないかなと不安でしたが、宇宙猫が売れたんです。それも10代の方に買っていただいたので、ちょっと可能性を感じています。これをもっと洗練させていきたいと考えています」

「水面の宇宙猫 Part1 」日本画,27.3×22cm(F3)2024 
AFFORDABLE ART FAIR MELBOURNE2024で10代のお客さまに買っていただいた作品。

國枝愛子プロフィール

國枝愛子 Aiko Kunieda

日本画家

<略歴>
1989 富山生まれ京都育ち
2011 日展入選(京都市美術館、国立新美術館)
2013 京都精華大学芸術学部日本画コース卒業
2019 ウルビーノ水彩祭出品(イタリア、ドゥカーレ宮殿内)
2020 ポーランドウクライナ合同水彩画展カタログ入選
2020 セルビア国際水彩画展 入選
2020 個展(大丸京都店、同’23年)
2020 Daegu International Art Fair(韓国大邱市)
2021 日中書画合同展(京都市美術館)
2021 京都日本画家協会展(京都文化博物館、同‘23年)
2021 英国水彩画展トップ200入選
2022 個展 (高槻阪急、同’24年)
2023 個展(伊勢丹浦和店)
2023 韓国国際水彩画展入選
2024 シンガポール国際水彩画展入選
2024 Affordable Art Fair Melborne 2024(オーストラリア)  他

作品解説 國枝愛子の『月降る夜の宇宙猫』

國枝愛子『月降る夜の宇宙猫』 日本画 P4号

 地上から夜空を見上げると、黒い雲の切れ間から覗いた月が、煌々と輝いている。月の光は大気に散乱し、得も言われぬ明るい色の変化で空を彩る。月そのものの光も、金色の切片となって空に浮遊しているかのようである。「月降る」という言葉は、浮世離れしたこの瞬間を表現するための、詩的で感覚的な言葉なのであろう。

 國枝が得意とする岩絵具の塗り重ね効果で、この絵は、空と月だけでも十分に魅力的である。しかし、そこに敢えて夜空に溶け込むような「宇宙猫」を画面に配する。宇宙猫は、虚実の世界を自由に旅する象徴であり、この絵の前にいる人を夢幻の世界へと誘う。最近、國枝は句作を始めたという。わずか十七文字で千変万化の様相を見せる自然を詠む俳句と、小さな画面に永遠へとつながる宇宙を描く行為は類似しているのかもしれない。

(解説/アートコンサルタント・亘理隆)

國枝愛子さんの展覧会情報

SUMMER Garden

國枝愛子・櫻井優英・西岡詩奈

2025年7月23日(水)~29日(火)  10時~19時 ※最終日17時まで

伊勢丹浦和店 6F ステージ#6アート

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