「努力と人との縁が、画家への道につながった」コラージュアーティスト・加納芳美さんインタビュー

アルバイトを掛け持ちしながらフリーのイラストレーターとして活動を始めた加納芳美さんは、紆余曲折を経て、現在はミクストメディアアーティストとして活躍しています。アートコンサルタントの亘理隆が、加納芳美さんにインタビューしました。

コラージュアーティスト・加納芳美さんインタビュー 「努力と人との縁が、画家への道につながった」

最初は、マンガ家になりたかった

──子どもの頃から画家になりたいと思っていたのですか。

「最初はマンガ家になりたかったんです。少女マンガは全般読んでいましたし、『ドラえもん』、『ドラゴンボール』、『スラムダンク』、『アキラ』、『バガボンド』、『GANTZ』など少年青年マンガジャンル関係なく読んでいました。ジブリやディズニーのアニメもとても好きでした」

──マンガ家になることはあきらめたのですか。

「鳥山明さんや井上雄彦さんや足立充さんのようなマンガ家に憧れていましたが、マンガは自分で描いてみて挫折しました。3~4ページ描くと、もうまったく物語が出てこなくなり、いつも導入で終わってしまうんです。それで私はイラストで行こうと」

中学校の体育祭の時に描いたクラス代表パネル「鳳凰」。大きい画面に、しっかり描き上げている。 

──次に、画家ではなくてイラストレーターになろうと思ったのはなぜですか。

「そもそも画家という職業が、その時は頭になかったんです。周りにそういう方もいなかったですし、教科書の絵画は雲の上の存在の人たちが描く絵という感じでした。高校の部活は美術部に入りましたが、ずっと画家ではなくイラストレーターになりたいと思っていました」

高校時代に油彩で描いた風景画。道路や塀が縦長の画面を斜めに横切る、写真のフレーミングのような構図で、手前の赤いザクロが鮮やかに描かれ、印象的な作品である。

採用が決まった地方公務員を、辞退してしまった

──ところが、地元の高校卒業後は公務員を目指していたと聞いています。

「学科の成績が良かったこともあり、先生方の話を色々聞いているうちに、イラストレーターを目指すことに迷いが生じてしまいました。卒業間際に将来の安定を考え、公務員になろうと決めてしまったのです。卒業後、1年間ビジネススクールに通い、地元の松江市役所に受かりました。が、すぐに辞退しました。描くことから離れた1年の間で、ちょっと鬱っぽくなってしまったんです。ああ、やっぱり私は絵を描きたいんだと気がつきました」

──そこで、イラストレーターの学校に入るために、まず美術予備校に行こうと。

「市役所を辞退したことで、両親は本当にがっかりしていました。もう1年美術の予備校に行きたいと言ったら、そんなお金はないから自分で働いてどうにかしなさいということで、アルバイトを常に三つぐらいしながら入学金を貯めることにしました」

──アルバイトをしていて、予備校に行く時間はあったのですか。

「予備校には行けなかったので、高校の美術部の恩師に相談したら、知り合いの彫刻家に頼んでみるから、バイトをさせてもらいながらちょっと教えてもらいなさいと。その他に、早朝に旅館の仲居さんやホテルのフロントのアルバイト、スーパーのお総菜屋さんなどで働いた後、夕方から夜遅くまでその彫刻家のアトリエでアルバイトをやらせてもらいました。当時は睡眠不足と働き過ぎで血尿が出たこともありました」

──アトリエでのアルバイトは、具体的にはどんなことをされたのですか。

「レザーアーティストとして著名な本池秀夫さんのアトリエで働きました。私の担当は、湿ったレザー生地に、器具を使って上から動物の毛の流れの跡をひたすら彫りつける作業でした。動物の毛がどこからどこに流れているのかは面を知らないと作れないので、立体を知るうえでとても勉強になりました。合間を縫って、卒業した高校の美術室にも通い、そこで石膏像デッサンをして、描いたものを本池さんに見てもらっていました」

※本池秀夫:1951年鳥取県米子市生まれ。世界で唯一無二の革人形師として知られる。2021年世界的革工芸作家として地域文化功労者として文部科学大臣賞を受賞。鳥取県にレザーアートミュージアム「本池美術館」を開館。

イラストレーター志望なのに、恩師は彫刻専攻を勧めた

──そして、広島市立大学の芸術学部に進みましたね。

「そこに決めたのも、美術部の恩師の勧めがきっかけでした。イラストレーターになりたいと専門学校の資料を持って相談したところ、『四年制の大学に行ってまずは基礎を学びなさい。最近できた広島市立大学の芸術学部は、地元からも近いし、教授も東京藝術大学で彫刻を学んだ人が多く来ている。設備もいい。一から空間や立体を学べば、ゆくゆくイラストをやるにしても必ず活かせるから』と。で、他はまったく調べず、そこだけを受けました」

──その高校の先生は、まさに恩師ですね。

「井田勝己さんという彫刻家でもある先生で、その後東京造形大学の教授になりました。父のような存在の先生で、今でも時々連絡をさせていただいています」

※井田勝己:1956年鳥取県生まれ。東京造形大学卒業。第16回現代日本彫刻展(現・UBEビエンナーレ)での大賞(宇部市賞)受賞をはじめ、国内外の都市空間に数々の野外彫刻を設置するなど活躍。東京造形大学名誉教授。

──大学ではどんな彫刻を学びましたか。

「木彫も石彫も粘土も鉄も、大体一通りやって、卒業制作は木彫の作品でした。」

卒業制作作品集に掲載されている、加納さんの作品。木の素材感を活かしながら、男性の人体をダイナミックに彫り出している。

──大学で彫刻を専攻しても、イラストレーターになる気持ちは変わらなかったのですか。

「いつもイラストレーターになることを意識して彫刻を勉強していましたし、周りにもイラストを描きたいと話していました。ありがたいことに教授にもそのことを知っていただいていて、『知り合いの作曲家兼舞台演出家の松本憲治さんが舞台イラストができる人を探しているが、やるか』と。『絶対やります』と二つ返事で引き受けました。彫刻専攻の学生でしたが、大学2年生から舞台イラストの仕事をやらせてもらいました。」

※松本憲治:広島市出身、東京藝術大学音楽学部声楽科卒の音楽家。地域市民のための文化芸術事業を継続的に実施していることで、2005年広島文化賞受賞、2016年広島県地域文化功労者表彰。

──そのイラストの仕事だけで、大学の学費はカバーできたのですか。

「仕送りはなく、学費も生活費も全部自分で出していたので、足りませんでした。当時、大学の成績は、一番上の優の評価を全科目の9割くらいとると授業料が半額免除になりました。アルバイトと勉強をひたすらやって、なんとか免除学生のまま卒業できました。いつも夜遅くまでバイトをして学生寮では勉強と寝るだけの生活でした。後で聞いた話ですが、寮生からの遊びの誘いをほとんど断っていたので、ずっと私は部屋に引きこもっている人だと勘違いされていたそうです(笑)。アルバイトは、ゲームセンターでPOPイラストを描いたり、アートスクールのアシスタントをしたりしました。中学生に学科を教える家庭教師もしましたが、これは時給が高く、おやつにケーキをいただいたりして貧乏学生にはとても嬉しいアルバイトでした。高校時代に一般学科をしっかり勉強していてよかったなあとしみじみ思いました」

おはなしオペレッタ『ブレーメンの音楽隊』(音楽/松本憲治、イラスト/加納芳美、2019年7月13日、安芸区民文化センター) 加納さんは、広島市の区民文化センターで上演した、おはなしオペレッタに立ち上げから約15年携わり、舞台背景に映し出す童画のイラストを描いた。この企画は好評で今も続いている。

卒業後、イラストレーターに。彫刻の学びは活かされた

──大学卒業後、イラストレーターとして仕事を始めたのも広島でしたね。

「はい、卒業してから11年くらい。大学時代から始めた舞台のイラストやその他依頼されたイラストの仕事だけでは食べていけなかったので、その頃も色々なアルバイトをかけもちしていました。インターネットカフェや、百貨店でブランドショップの派遣販売員もしました。しかし正社員として会社に所属はしなかったですね。イラストもずっとフリーでしていました」

──フリーターをやりながら、でも気持ちはイラストレーターだぞっていう感じですか。

「そんな感じで」

──大学で彫刻を学んでからイラストレーターの仕事をして、何がよかったですか。

「素材にたくさん触れることができたことですね。モチーフを立体で捉えるということはすごく大きかったです。あと、実際に触ってみた感触。描くときに触ったらどんな感じだとか、面で捉える感覚もすごく身に付きました」

──彫刻家が描くデッサンは、立体を意識していると聞くことがありますが…。

「重さが感じられます。あとは石膏像を描くにしても、つるっととか、ざらっととか、素材の感触がわかる感覚があります。絵は2次元の枠の中で描くので、その中で線や色を使って全てを表現します。ですが彫刻は、まず立体を作る時点で、線や色ではない次元に一旦脳みそが働く。重量感、素材(質)感、距離感に加え、物質の持つ雰囲気や存在感が肝になることが感覚的にわかってきました。まとっているものといいますか、それを自然に吸収していたのだと思います」

──彫刻を制作するときは、まずデッサンを描いてからですか。

「まずデッサンを描きます。話がそれますが、デッサンでものの雰囲気を描こうと思ったら、モチーフと背景の色を変化させてモチーフの印象を変えることができますよね。けれどもいざ彫刻となると、相手は物質そのものなので、存在する空間だけちょっと青っぽくしたり、白っぽくさせることはできません。大学では、作品に生命感や存在感がまとうような表現をするのが彫刻なんだということが感覚的にわかってきました。その上で、ではイラストでどう表現するのかということが改めて課題になっていた気がします」

──雰囲気を描きたいのではなくて…

「存在感。結局とらえているのはそこではないかと。私達が人や物と接するときには、その人や物が放つものとかまとっているものを無意識のうちにキャッチして、会話やコミュニケーションをしているように感じます。見た目は、実は後からついてきているのではないでしょうか」

イラストレーターから、画家に転身することにするが…迷走

──でも、イラストレーターをやっているうちに、もっと自分の表現をしたい気持ちになってきたんですね。

「イラストレーターは、クライアントの要望に応えるために作風を考えてひたすら描くわけです。さらに私は人物を描くことが多かったので、人物以外を描きたいとか、自分が思うように描きたいという欲が沸々とわいてきてしまって。よしもう転身しようという気になりました」

──そこで画家になろうと思ったわけですが、何か決定的なきっかけがあったわけではない…。

「何が描きたいのかも過渡期はまだ漠然としていました。これを伝えたいということも明確には掴めずにいましたが、大阪に移ったのをきっかけにとりあえず個展をやってみることにしました」

幼い頃から動物好きで、犬、ネコ、ハムスターなどを飼っていたことがある。大阪に来た当初は、動物と触れあえる場所を定期的に訪れていた。

──どうやるかは考えずに、広島から大阪に出てきたと。まず大阪に行こうと思ったのはなぜですか。

「元々私はあまり土地に執着がないので(笑)引っ越しは多分今まで10回以上はしています。大阪には知人がいて、『大阪は面白いからおいでよ』と言ってくれたので、ぱっと移ってしまいました。大阪の街は個性が強いイメージで、なんだか広島よりは自己開示しやすいという感がありました」

──で、大阪で画家として最初の個展を開催したんですね。どんな作品でしたか。

「貸し画廊で、最初はふんわりとした綺麗な色の曼荼羅を描いたりしていました。どちらかというと女性が好きそうな絵画です。曼荼羅といっても、宗教的なものではなくて、ただ輪っかがいっぱいあるようなものです。」

──なんで、曼荼羅がでてきたのでしょう。

「曼荼羅はシンメトリーなイメージですが、私が描くものはちょっとずつズレがあって、完璧な人間はいないがそれが美しいというメッセージ性がふんわりとありました。曼荼羅でなければいけないというよりも、描きたいものに迷走していた時期だったと思います」

──個展での売れ行きはどうでしたか。

「画廊のレンタル料とトントンでした。そんなに売れてはいません。もし、沢山作品が売れていたら、今でもずっと曼荼羅を描いていたかもしれませんね」

大阪での個展にて、知人と。イラストレーター時代に独学でマスターしたデジタル技法を使い、抽象的な曼荼羅を描いていた。

──その頃は、どのように画家の仕事をしていたのですか。

「個展で購入していただくのがメインでした。個展に来ていただいた飲食店主の方から、店の壁に絵を描く仕事を依頼されたことがあります。また異業種交流会などで名刺交換し、そこでいろいろご縁が繋がることはありました。その頃は絵というよりもデザイン寄りの依頼が時々入るくらいでした」

テディベアが創作のヒントをくれた

──現在は、コラージュを主体とした作品を作っていますが、きっかけはテディベアだったとか…。

※コラージュ:紙や布、写真など、相互に関係のない素材を切り取って、画面に貼っていく表現技法。加納芳美のコラージュの具体的なやり方は後述。

「テディベアを見て閃いたんです。いろんな布をパッチワークみたいに付けて、そこから一体のクマができることに可能性と自由性を感じて、何かを決めなくても、これでいいんだ、何でも好きな物や色を貼り付けてしまおう」と。

──それを平面で表現したいなと思ったわけですね。

「そうです。迷走していたのは、自分の画風を絞ることに無意識に疑問があったからだと思います。何を描きたいのか悩んでいた時期にテディベアを見て、画風や画材に固執する必要がないことに気づき、ずいぶん楽になりました」

──コラージュ作品を作ったときは、素材はどうふうに選んだのでしょうか。

「身近な、買い物をしたときの紙袋とかだったと思います。これを使おうかと思ったら、芋づる式にあれもこれも貼りたいとなって、カーペットの端切れや着なくなった服も使っちゃおうと。絵の具だけじゃつまらないというのがいつもあったと思います」

「Hippopotamus」ミクストメディア 53×53cm 石膏で表情を出した地に、様々な色や柄の布や紙袋などを選択して切り貼した、おしゃれでユーモラスなカバ。この作品には創作の楽しさが溢れている。彫刻で学んだ素材感や質感、イラストで実践してきた色の取り合わせなどが、新たな作風をつくる素地になった。

画業に時間をつぎ込める、今に感謝

──本格的に、企画画廊や百貨店の美術画廊で作品を発表しだしたのは最近ですね。

「企画画廊での初個展は、2022年の暮れです。コロナ禍で書き溜めた、現在の作風の15点を展示しました。その頃はインスタグラムを頑張っていたので、インスタグラムのDMで興味を持っていた方や知り合いが来場され、何点か売れました。個展4日目に、面識がまったくなかった会社の社長さんがインスタグラムのDMを見て来場し、約定されていなかった作品を全部買ってくださり、完売しました」

──百貨店で始めたのは、いつからですか。

「今年(2025年)の1月に、伊勢丹立川店の美術画廊で二人展を開催したのが最初です。2月には博多阪急で展示があり、6月に伊勢丹浦和店での個展も予定しています」

2022年「全日本アートサロン絵画大賞展」に入選した展示会場にて。

──今、画家としての毎日を過ごしている気持ちは。

「アルバイトしながらの苦しい時代が長かったので、画業につぎ込める時間は、もう感謝しかないです。本当に有難い。実は、私が大学生の時に、母が病気で亡くなっています。母は、応援してくれていたのでその思いに応えたい気持ちもあります。父は、私が大学を卒業した時には美術教師になればよかったのにと言っていましたが、百貨店で個展などをやるようになってから応援してくれています。画家としての今の自分は、ちょっとお役目的な意識を持ちながら描いています」

──お役目的なものというと…。

「今の画風で、これだけのたくさんの人に喜んでいただけるということは、私にはこの画風を続ける使命があるのだと。私が描いているというよりも、描かせてもらっているという感覚を忘れないようにいつも絵画に向き合っています。」

──時間が自由に使えるようになって、実際に手を動かす時間と、アイディアを練る時間はどんな感じですか。

「私、実はそんなに手を動かさないんです。それよりも、美しいものを見るとか、家にある植物を触っているとか、心が動くようなことをやっている時間をすごく大切にしています。そういった感覚が満ちてきた時、筆を持つとすごく集中力が高まったまま短距離走者のように一気に下絵を描いてしまいます」

──作品が完成するところまで一気にですか。

「完成まではあえて時間を置き、必ず客観視する時間を作るようにしています。デッサン、下絵を描いた後、次に素材や生地を載せるか、もしくはアクリル絵の具で色を載せるかという対話をします。次々と下絵だけ何作も描いていくこともあります。その時々の気持ちに従います。私は仕事に関しては夜型です。天気がいい日は散歩に行きたくなったり、家のことをやりたくなったりと全然集中できないんです。時々、河川敷に行って空を見上げ、川を眺め、草に目をやるのが楽しく、光と自然が見せてくれる色はいつも美しくて良い刺激になっています。このところ描くのが忙しく少し体力が衰えてきたので、外に出る口実にジョギングを始めました。帰宅して、ほど良い疲れを感じた頃に、すっとスイッチが入ります。気が散らずに集中できるんです」

熱帯魚が泳ぐ姿には、かつての自分が投影されている

「贈りものと秘密」ミクストメディア 27.3×41㎝  ベージュ色とピンク色の熱帯魚のきらびやかで大きく広がる尾びれは、胴体とほぼ同じ大きさで不安定な見た目だが、水中では優雅にバランスを取っている。スパンコールや刺繍の花などが多用され装飾的だが、まとまりのある画面に仕上げられている。

──伊勢丹立川店の展示では熱帯魚を描いた作品が数点ありましたが、熱帯魚は育てているのですか。

「見に行くことはありますが、飼ってはいません。熱帯魚が好きというより、あの状態に惹かれてしまうんです。熱帯魚は水の中で、何も頼るものがない環境でバランスを崩さずにそこに優雅に存在している。熱帯魚からしたらそれは当たり前ですが、あれが自分だったとしたら…と色々な妄想が重なったのが熱帯魚の作品です。頼るものがない環境、例えば余裕がない自分とか、心が不安定な自分とか、孤独な自分とかを重ねると、その姿がすごく孤高の美しいものに見えてきて、不思議とそういう自分をありのまま承認できる。それが私にとっての熱帯魚ですね」
 
──カバやライオン、ゾウなどの動物を描くときは、また違う思いなのでしょうね。

「熱帯魚には儚さを感じますが、陸の動物には、たくましさとか生きざまみたいな、力強くポジティブなエネルギーを感じます」

──ワンちゃんなどはちょっと愛嬌があります。

「イヌやネコは本当に癒しですね」

「retriever」ミクストメディア 18×18㎝ 目の表現には、特にこだわりを持っているという。

──今後どんなアーティストを目指したいですか。

「私は、作家として描く側であり、同時にその作品を見るお客さんでもあるという感覚がいつもあります。自分の描きたいものを描いてはいますが、もう一人のお客さんという自分が欲しい作品を描いている。こういう作品が欲しいです、わかりました、みたいなことをいつも自分の内側でやっています。だから展示会で作品を見てくださる方とお話しし、共感して一緒に楽しめるのがとても嬉しいんです。これからももっと沢山の方に作品と感動を届けたいですね」

(聞き手・文/アートコンサルタント・亘理隆)

加納芳美のコラージュ作品制作方法

作品解説  加納芳美の『まなざし』

『まなざし』
加納芳美
ミクストメディア F3号(27.3×22cm)

スフィンクスのような姿勢で座ったネコは、しっかりこちら側を見つめている。エメラルド色の目力は強い。目の色が響くような背景の青と黄色いひまわりは、夏を感じさせるとともに、このネコの生命力やエネルギーを象徴しているかのようである。技法は、複数の技法を組み合わせて制作するミクストメディア(混合技法)であり、雑誌や新聞、布などを切り貼りして画面をつくるコラージュが楽しい。
コラージュを主とした作品には、彫刻を学んで体得した質感と手触り、イラストレーターとして活動していた時期のデザイン感覚が活かされている。様々な色、柄、文字の素材がつなぎ合わされて変化に富みながらも、調和のある画面を見ると、加納芳美がアーティストとして活動するまでに経て来た道のりがあってこそたどり着いた表現であることを改めて確認させられる。

(解説/アートコンサルタント・亘理隆)

加納芳美さんのプロフィール

加納芳美 Yoshimi Kanou

加納芳美プロフィール
鳥取県に生まれる。島根県で育つ。

2002年 おはなしオペレッタ舞台イラスト担当(広島市の区民文化センター、~’16年)
2005年 広島市立大学芸術学部美術学科彫刻専攻卒業 フリーのイラストレーターとして活動
2010年 エリザベト音楽大学ミュージカルイベント イラスト制作(同’11年)
2016年 画家としてデビュー
2016年 個展(大阪市、gallery そら、同’17、’18年)
2018年 大阪市の中華菜館成龍軒壁画制作
2022年 「月刊美術新人賞デビュー」入選
2022年 「全日本アートサロン絵画大賞展」入選
2022年 個展(東京都港区、Sundries)
2023年 グループ展(東京中央区GALLERY AND LINKS81)
2025年 「午後の美術館~中上佳子・加納芳美二人展」(伊勢丹立川店)
2025年 個展(博多阪急百貨店)
2025年6月11日~17日 グループ展(名古屋栄三越)
2025年6月25日~7月1日 個展(伊勢丹浦和店)

加納芳美さんの展覧会情報

名古屋栄三越

才都物語
名古屋を舞台に四方のアーティストが集結

 
2025年6月11日(水)~17日(火)
10:00~19:00 最終日16:00まで
名古屋栄三越 7階 特選画廊

江崎栄花・ナンシー諸善・原田愛・加納芳美

愛知にゆかりのある三英傑がかつて日本を牽引しました。そして今、愛知を中心に四方から集まった才能豊かなアーティストたちが、名古屋を舞台に新たなアートの物語を紡ぎます。日本画家・木彫コラージュ作家・パステル画家・アクリル画家――それぞれの個性が響き合う、フレッシュな展覧会をどうぞお楽しみください。

伊勢丹浦和店

加納芳美 絵画展
~花園の動物たち~

 
2025年6月25日(水)~7月1日(火)
10:00~19:00 最終日17:00まで
伊勢丹浦和店 6階 美術サロンB

日本海岸の山と海に囲まれ育ち、インスタグラムでは7,000名を超えるフォロワーを抱える人気のアーティスト加納芳美の絵画展です。カラフルな布や紙などの異なる素材を貼り付けて制作される、動物や花々を世界を、作者自身による解説でどうぞお楽しみください。作家全日在廊です。

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