【展覧会レポート】若手アーティスト必見!己の絵を追求すること―板倉鼎・須美子展│千葉市美術館にて開催 6月16日(日)まで

板倉鼎(かなえ)という夭折した画家をご存知でしょうか?
板倉鼎は、1920年代パリに留学し、彼独自の絵を追い求め、志半ばに客死した画家です。わずか28年という短い人生のなかで描かれた彼の作品群からは、若い画家が物心ついてからアカデミズムを経て独自の画風を追求していくまでの、迷いと希望そして至高の精神が伝わってきます。
その板倉鼎と妻須美子の軌跡を追った展覧会が、現在、千葉市美術館で開催されています。

豊かだった鼎の成長期

板倉鼎は、1901年生まれ。千葉県松戸の裕福な医者の元で育ちました。
展覧会は、鼎の十代の頃パリ留学前の作品から始まっています。
若き鼎の作品の中で印象に残ったのはこの作品「木影」でした。
鼎が21歳の頃の作品で、帝展に入選しています。

1922年「木影」80.4x116.8cm 油彩・キャンバス 松戸市教育委員会蔵



陽光ふりそそぐ庭、皆が幸せそうなリラックスした表情でお茶を飲みながら、マンドリンやギターを弾いています。鼎の妹、弘子の着ている洋服もテーブルの上の果物も、西洋の家族かと思うほど豊かです。描かれた1922年当時は、どんどん西洋化が進んでいた時代のようですが、それでもこの生活は、現代の私たちの生活と比較しても豊かに感じます。
物質的な豊かさだけでなく、教養と愛情に満ちた家だったのだろうと伺わせます。

命の輝きに満ちた妹の絵、そして自画像

そして鼎が23歳で描いた「七月の夕」。この作品が本当に良かった!
まだ少女である妹・弘子が、マンドリンで戯れている初夏の夕べを描いたものです。

1924年 「七月の夕」145.6×80.5cm 油彩・キャンバス 松戸市教育委員会蔵



M80号サイズに描かれた妹・弘子の匂い立つような若さが、絵全体から放たれていて、私はその前から動けなくなってしまいました。弘子のすらっと伸びた脚が清らかで、その素足に履いている草履がまた本当に良い。少女時代の純真さ、若い命の一瞬の煌めきを、兄らしい慈愛に満ちた視線で素直に描いたものです。この作品はぜひ会場で直にオリジナルをご覧いただきたいと思いました。
そして画像はご紹介できないのですが、会場には鼎の自画像も展示していました。
絵の中の鼎は紅顔の美青年。画業を志す希望に満ち、少しうるんだ眼をこちらに向けていました。誰だろう・・・日本の俳優さんの誰かに似ています(思い出せない)。
しかし鼎の時代からおよそ100年後の私たち鑑賞者は、この後の鼎の運命を知っているわけで、その儚さを承知した上でこの自画像を見ると、鼎の少し上気したような頬が何とも言えない気持にさせます。私はこの自画像を前にしたとき、蓮如上人が綴った「白骨の章」を思い出しました。
「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」。
当たり前のことではありますが、人間である限り、誰しもいつかは命が尽きるときが来ます。そのことを改めて思い出させてくれました。

結婚、そしてパリヘ (なんとハワイ経由)

鼎は24歳のときに、ロシア文学者である曙昇夢の娘、須美子と結婚しています。
媒酌人は与謝野鉄幹と晶子夫妻です。帝国ホテルの披露宴メニュー表も展示していましたが、フルコースのとても豪華なものだったようです。
新婚の二人はハワイを経由してパリへ留学しました。
ハワイに4か月ほど逗留するものの、夫妻にとってはあくまでも経由地であって、早くパリの地を踏みたい想いで一杯。ハワイの陽光を楽しむという余裕は無かったようです。(しかし後に須美子は、ハワイからインスパイアされた連作を発表していますので、無意識の収穫は有ったのでしょう。)
長い旅路を経てついにパリに着いた鼎は、当初はアカデミー色が強いシャルル・ゲランに師事していましたが、その後はキューブ系のロジェ・ピシエールへと師を替えています。
自分の置かれている立場を認識して、世の中に沢山いる画家たちのなかで頭一つ抜けるにはどうしたら良いかを真剣に模索していたのですね。

独自の表現を追求して

私が日頃付き合っている画家さん達も皆まだ若く、己の独自の表現を追求している人たちばかりです。20代から30代、40代と年を重ねるにつれて表現も少しずつ変わり(なかには劇的な変化を遂げる方もいます)、試行錯誤を重ね、自分の感性を裏付ける理論を研究し、自分だけの花を咲かせたいと切磋琢磨しています。それを画商の立場から見ていると、切なくなるほど、みんな「花」だな~と感じます。
某国民的アイドルグループの曲じゃないですが「世界で一つだけの花」を追求していく、その姿そのものがむしろ花よりも美しく私には思えます。借りてきた「花」や付け焼刃の「花」は、やはり私にはどこか空疎に見えてしまいます。

鼎は、その志半ばで突然客死してしまったわけですが、パリで制作した作品群を拝見すると、若き画家が己だけの画を追求していった道程が見え、極めて感慨深いものがありました。

1928年の作品。妻の須美子がモチーフです。彼自身を代表するシリーズとして
この赤衣の須美子をモチーフにした連作をパリの美術界に発表しました。

「パリで一年かけて、持っていた型、自分が学んだ描き方を捨てた」と鼎自身が述べているように、日本での描き方を一度捨て、新たな自分の見方を模索しているのが伺えます。


この作品は、1929年頃の作品なので、鼎が亡くなる直前くらいに描かれたものですが、日本にいた頃とだいぶ画風が変わっているのが分かります。鼎は対象物の捉え方について「物を見る時は必ず物それ自身の色を見て、決して空気を通したり光に依ったりした見方をしないこと」と語っています。キューブ系の影響を受けていることが分かります。

妻、須美子の絵と人生

鼎の妻、須美子という人も当時としては先進的な女性だったようです。新婚でパリに到着したときは18歳だったようですが、モガのような髪型をし印象的な眼差しを向けている写真があります。父親はロシア文学者の昇曙夢。結婚するまでは文化学院で音楽や文学を学んでおり、文化的な女性だったのだと思います。
その須美子は、鼎の指導を受けてパリで絵の制作を始めました。正規の美術教育を受けていない須美子の絵は、ルソーのようなナイーブさとローランサンを思わせる色彩が印象的です。モチーフはパリ渡航前に4か月滞在したホノルルですが、シンプルな構成と夢を見ているかのような印象的な画風は、確かに魅力溢れるものでした。鼎が落選してしまった年も須美子はサロンドートンヌに入選するなど、当時のパリで高い評価を受けていたようです。

板倉須美子「BELLE HONOLULU24」 松戸市教育委員会蔵

しかしその後の須美子の人生は、不幸という言葉では片付けられないほど悲劇です。
1929年には、生まれてすぐの次女を亡くし、その後、夫が急死します。歯からくる敗血症ではないかと言われていますが、あっという間に亡くなってしまい、まだ幼い長女と異国に取り残されてしまいました。そんな夫人の力になり鼎の作品や家財道具を全てまとめて日本に送り、親子を帰国させたのは、鼎の友人である岡鹿之助だったそうです。異国でどんなに心細かったことでしょう。そして岡鹿之助の存在がどんなに有難かったことでしょう。
帰国した須美子は、鼎の実家に身を寄せるものの、今度は長女を病気で亡くしてしまいます。鼎の実家に居続けるにはもう縁が何も無くなってしまったのでしょうか。その後須美子は自分の実家に戻り、なんとか立ち直ろうと絵を再開するものの、最後は自分自身が肺結核になってしまい25歳の若さで世を去ってしまったのでした。

風のように去った鼎と須美子

パリで絵の道を切り開くと希望に燃え、二人の女の子を授かったときは多分二人の幸せの絶頂だったのではないでしょうか。その後こんなに急転直下に運命が変わってしまうとは、誰が予想できたでしょうか。小説にしても読者が「ちょっと待って」と言いたくなるような展開だと思います。
あまりにも早い夭折の二人だったので、鼎と須美子の仕事は長い間、美術界からは忘れ去られていたようでした。しかしここ数年、彼らの実績を再評価するムーブメントが起きています。2015年松戸市立博物館での展覧会、2017年目黒区立美術館を始め、千葉県を中心に企画展が相次ぎ、そしてこのたびの千葉市立美術館での展覧会開催となったようです。

鼎の妹 弘子

あの幸せな絵のモデルとなった妹 弘子は、111歳年まで存命でした(2020年没)。そして鼎の作品や書簡等の資料を散逸させることなく保管していたことが、二人のまとまった展覧会が出来るようになった要因の一つになったそうです。

弘子自身の人生がどのようなものだったのかは分かりませんが、自慢の兄夫婦だったであろう二人が夭折したときには、どれほど悼み悲しんだことだろうと思うと心が苦しくなります。鼎と須美子、そして妹の弘子、誰を主人公にしても一編の映画や小説を創ることができると感じました。

実は私が個人的に一番心惹かれたのは、少しよそゆきの顔をしたパリの絵ではなく、慈愛に満ちた弘子の絵「7月の夕」でした。素の鼎の心情と妹との関係がよく表れていると感じます。

さいごに

約100年前、華やかだったパリの美術界に足跡を残そうとした鼎と須美子、風のように駆け抜けた二人の人生をぜひこの展覧会でごらんになってください。
特に、今、自分の絵に悩んでいる若いアーティストの方々は、等身大の鼎を感じられることと思います。
この展覧会は、6月16日(日)まで千葉市美術館にて開催されております。

(ライター晶)

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