望月諒子「腐葉土」

父方の祖父母は東京下町のお寺に眠っている。
我が家では、そのお墓に願い事をすると叶うと信じられている。

お正月にその祖父母の墓に新年の挨拶に行き、その帰り、一人あてもなく歩いた。歩いて歩いて歩いて・・・・肩にずっしりとショルダーバッグが食い込み、足は棒のようになったけれど止まれない。歩いて歩いて・・・・。彷徨った先には戦後建てられた共同住宅やら昔の火葬場やら東京大空襲を供養した碑があり、歩行者天国から一歩入った路地には沢山の飲み屋があり人が溢れていた。私は一人歩き続け、これから先の自分の行方に思いを巡らせた。

疲れて身体が冷え切って温まろうと入った書店で、たまたま手に取った文庫本が望月諒子「腐葉土」だった。

高級老人ホームに住む資産家女性が殺された。犯人は金を無心していた孫なのか。戦後を生き抜いた女の一生と闇を描き出す、骨太のミステリー。木部美智子シリーズ、文庫書き下ろし。(集英社の紹介より)https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-745060-6

戦後の闇市で身を立てた85歳の資産家、弥生お婆さんが何者かに殺された。その謎を追う話だが、話は関東大震災や東京大空襲の時代と、犯人捜しをしている現代を行ったり来たりする。

特筆すべきは作家のその圧倒的な描写力。
関東大震災で大衆が逃げ込んだ被服廠で発生した火災旋風により、人が生きながら焼かれていく様子、逃げまどい川で亡くなる様、息をのむほどの迫力だった。

弥生お婆さん(その頃はまだ少女だが)はその関東大震災を何とか生き延び大人になった後、今度は東京大空襲によりふたたび地獄の業火をかいくぐる。そして戦後のヤミ市で裏家業を仕切りながらのし上がっていく。

まず彼女の生き方に圧倒された。
業点く婆は生まれながらに業点く婆だったわけではなかったのだ。
修羅場をくぐった人にしか分からない人生観があるのだろう。

そして作家の表現方法に感服した。
作家は、弥生お婆さんの生き方を腐葉土に例えている。

笹本弥生は85年を生きた。彼女は懸命に生き、葉を繁らせ、その旺盛な生命力で激しく新陳代謝を繰り返し、不要なものを容赦なく落としていった。落としたものは雨を受け、腐り、別の生命体の養分になる。生まれた生命体は適応し、増殖するものもある。朽ちて、彼女の膝元にふさりとその死体を横たえるものもある。(本文より引用)

このイメージが本の中に表現を変えて何度か現れる。
主題が何度も形を変えて現れる交響曲のように。

起ったことをリアリズム溢れる文体で淡々と綴った小説もいいけれど、この望月諒子のような巧みな暗喩が加わると、右脳を刺激する。

読者はイメージする。濡れそぼった土に半分朽ちかけた葉や蛾の死骸、動物の骨の一部・・・。そのイメージと弥生お婆さんの姿が重なり、更に関東大震災や東京大空襲で骸になった大勢の死者たちのイメージが重なっていく。

冒頭の私のように、震災や戦災の地を見たばかりという人は、勝手に個人的イメージをこのレトリックに重ねていく。結果、イメージに深みが出て、この読書体験がより個人的なものになる。

絵画の場合も、ストレートに作家の主張したいことを描くのも清々しくて素敵だと思うが、巧みな暗喩や隠した(しかし隠しきれない)主張は、より鑑賞者の個人的な経験や考えとイメージを媒介にして繋がりやすいように思う。更に鑑賞者が見るたびにその解釈や鑑賞が深まり、ずっとその作品と対話し続けることができる。

小説にせよ絵画にせよ、そのような作品に出会うことは、人生の醍醐味の一つであると思う。

(ライター 晶)

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