猫を見習え

井上雅未花作品より 

 契約している駐車場で黒猫をよく見る。他にも白っぽいのやら、太ったのやらが、ぽつんぽつんとひなたぼっこしている。

どうやら、猫の集会というのは、不用な争いを避けるための知恵というか、長い進化の歴史の中で培ったルールらしい。

新参者は、集会所に顔を出して、自分の顔を覚えて貰い、予期せぬ衝突を避けるわけだ。
なるほどなるほど。

 話は飛ぶが、成人の日に日本のあちこちで新成人の方達があれこれ繰り広げて逮捕されたりして、私達はそれを残念だとか、ダサいと思ったりしたり、また暴走族の方達が走り回っているのを見ると前世紀の遺物のような感を持ったりする。

 21世紀という現代の中で、私達は一般的に動物としての生々しさを見せないのがマナーとされている。人前でがつがつ食べたり、排泄したり、大口開けて寝たりは慎むし、人のものをぶん取ったり、殺めたりもしない。

社会の中で秩序ある生き方をしていくように、何年もかけて学習していき、人は人間になる。人間の生理や心のマネジメントについても研究がなされ、ソリューションが現れてきている。進化しているのだ。
 

 だから私は不思議に思う。
 また映像の世紀ネタで申し訳ないが、昨晩NHKで放送されていたのをつい見てしまい、又もや鬱になってしまった。ファシストを倒した後の米ソ冷戦、キューバ危機、ケネディの暗殺、泥沼のベトナム戦争、サイゴンの陥落の様子、今度は場所をアフガン、イランに変えて続けられる米ソの代理戦争。
そして若き日のウサマ・ビンラディンが憎悪をたぎらせていく。
繰り返す復讐。
 
 有史以来変わっていない企てと殺戮の歴史。

 同じ過ちを繰り返すのは馬鹿だと昔習った。

 もう少しエレガントなやり方はないのかと嘆いたら、家族は「例えば頭がおかしい奴が攻めてきたら戦うだろう」と言う。
お前はぼーっと殺されるのかと。
ぼーっと殺されるのは勿論厭なんだけど、でも国家の運営なんてのは、少なくともそれなりに頭が宜しい方達がやっているはずで、少しは知恵があるはずで、それがどうして下品な過ちを繰り返させることになるのか、私にはよく分からない。

私は平和ボケしているのだろうか。恵まれすぎているのだろうか。
女だからだろうか。テストステロンが足りないのだろうか。
 
 企ても殺戮も水爆実験も、私には田舎の道を改造車で暴走するような時代遅れの行為としか思えないのだ。
現代の私達には、もう少しエレガントな、例えば猫の集会所のような知恵とルールが必要だと思うのだ。

 私は決して右でも左でもないけれど、でも素朴に「猫を見習え」と、そう思った次第の夜。

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