三浦麻梨乃さんインタビュー「カエルとの出会いで、今の自分がある」

銅版画家の三浦麻梨乃さんに、アートコンサルタントの亘理隆がインタビューをしました。2025年6月18日(水)~24日(火)に東京都立川市の伊勢丹立川店で、そして、翌7月9日(水)~15日(火)に松坂屋上野店での個展を控えています。それではさっそくご覧ください!

三浦麻梨乃さんインタビュー「カエルとの出会いで、今の自分がある」

銅版画家としての現在の環境

──昨年(2024年)百貨店での初個展、また今年6月18日から伊勢丹立川店で個展があり、銅版画家として活躍中ですが、本日は、現在に至るまでの作家活動についてお伺いしていきます。まず、今、作家として生活している環境について教えていただけますか。

「宇都宮市に住み、個人事業主として作品収入をメインに生計を立てています。夫は写実絵画の画家(片桐剛)で、同じ個人事業主となります。家族は夫婦2人と猫ちゃん2匹で、家庭の収入源は、私と夫の作品収入と絵画教室です。」

──アトリエはどんな感じですか。

「銅版画制作には重くて大きいプレス機を置く場所が必要ですし、夫も画家なので、広いスペースがいります。今は親戚の空き家を借りて、アトリエ兼住まいにしています。私は美大卒業後一度、故郷の福島に戻って仕事しつつ活動していましたが、宇都宮で夫と事業を開始するまでは現在のプレス機を持っていなかったので、銅版画を刷る場所を探すのに転々として大変でした。」

三浦麻梨乃さんのアトリエ。凹版である銅版画は、銅板に描かれた凹んだ線にインクを詰めてプレス機で強い圧をかけて、紙にイメージを写す。プレス機は、銅版画家にとっての大事な相棒である。左下には、版画用インクや拭き取りに使う薬品などが見える。

──今は創作の時間をたっぷりとれるわけですね。

「はい。ただ、創作に充てる時間は、ルーティンワークとして1日の中できっちり決めているわけではありません。一日中制作に没頭する日も、額装やDMの発送など展示準備に費やすだけの日も、作品制作の取材に行くだけの日も、一日中休む日もあります。」

生まれてすぐに、のちの人生観を形成するうえで重要なことが起こった

──子供の頃のお話を伺いたいのですが、どんな環境で育ったのですか。

「生まれたのは福島市内でしたが、自然に恵まれた環境でした。それものちの制作に影響を与えていますが、私の人生観を形成する上で、重要な経験がありました。今回のインタビューを機に、そういう人もいることを伝えたいのでお話します。実は、私は生まれてすぐに、右目を失明しています。網膜芽細胞腫(小児がんの一種)があることが、生後3ヶ月の時にわかったんです。摘出しないと命に関わる病気で、そのときに摘出して義眼になりました。今も隻眼です。生まれてすぐに隻眼になったので、もう両眼で見る世界っていうのを知らないんですよね。それが当たり前の生活をしてきたので、何かができないことの理由を隻眼のせいにしたくなくて、今までは自分から語ることはなかったんです。」

──見えるのが片方だと、遠近感をつかむのに不自由はありませんでしたか。

「私は最初からすぐに隻眼になったので、そこまで不自由さを感じずに生活していました。明確に感じたのは、小学校で、ドッジボールなど速いボールを扱ったり、野球やバトミントンなど道具にボールを当てるスポーツに苦労した時です。それ以外は早い段階でそうなったので、遠近感をつかむのにそんなに苦労した記憶はないです。直接手に当てるバレーボールやバスケットなどの球技は割と得意でしたし、走るのも速かったです。例えば20歳ぐらいまで両眼の生活をしていて、途中で病気や事故で失明すると、ものすごく大変だと思います。私は左目の裸眼視力が0.7以上で、両眼合わせた視力が0.62 以下ではない為、視覚障害者には該当していません。生活に車が必要で普通自動車免許証を持っていますが、今ゴールド免許証なんですよ。」

──では、ほとんど不自由を感じずに、過ごされてきたのですね。

「確かに、生活での身体的不自由は自分の努力である程度克服できました。でも、精神的不自由さは乗り越えるのが大変でした。子どもの頃は、何かできないことがあると、『あの子は片方しか目が見えないから』といった外見的な差別発言がありました。それを受け流すことができず、自分の存在を否定されているような痛みがありました。さらに今では場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)と診断されるかと思いますが、小学校4年生頃までは、家族とは普通に会話できるのに、他の人とはほとんど話すことができませんでした。何か言われても言い返すことが全くできず、けれども我慢強かったのでその場で大泣きもできず、家に帰ってから何度も涙を流しました。」

──そんな状況の中、小さい頃から絵は描いていたのですか。

「物心ついたときから絵を描くのは好きでした。話すことは緊張してできないので、休み時間は1人で黙々と絵を描いている子供だったんです。それは辛くなくて、楽しかったです。自分の中で、例えば女の子を設定して物語を考えながら描いていて、とにかく没頭していました。ある時またいつものように描いていたら、すごく上手だから私にも描いてって声をかけてくれる女の子が現れました。その瞬間、絵を描くことは人との繋がりを保つ手段なんだと感じましたね。」

小学校2年生の頃にクレヨンと水彩で描いた絵。どんな物語を思い浮かべながら、絵を描くことに没頭していたのだろうか。

──今の三浦さんからは、人と話すのが苦手という感じはありませんが…

「小学校に入った時、先生が、通学路が同じクラスメイトに私の家に寄って一緒に通うことをお願いしたようです。それで、特定の子たちとは話せるようになっていました。ただ、クラスの中で発言するのは積極的にできないまま4年生まで過ごしました。その後5年生になってから、逆に活発になって、先生に悪い子みたいな感じで注意されることがあるくらいまでに、いきなりガラリと変わりました。」

──それは何がきっかけだったのでしょうか。

「はっきりとは覚えていませんが、先に仲良くなっていた友達が私を連れて数人の輪の中に入って遊ぶ事もありました。その勢いで私が初対面の子と話が出来た事もあるので、繰り返すうちに気持ちがほぐれていったのではないかと思います。その頃から公の場で発言することも、徐々に苦ではなくなってきましたね。活発になってからも絵は好きでした。忘れられないことがあります。実は、母も女子美術短大(1年間の別科を修了)に入っていたほど絵は好きなんです。授業で桜の木を描いている事を母に話した時に「幹は茶色一色じゃない、いろんな色があるんだよ。」って声をかけられて、それを考えて青を塗ってみたり、赤を塗ってみたりという混色を自分なりにすることで、色作りに目覚めました。」

こどもの頃の夢を失わなかった

──中学校、高校での絵とのかかわりは、どうでしょう。

「中学校の文化祭では、毎年、生徒が校舎近辺の風景を描いた絵画を展示していました。各学年の優秀な作品には学校長賞がありましたが、1年生、2年生のときは逃していました。進路を考えた時、美術科のある高校を志望したので、まずは学校で一番を取ろうと思って、3年生のときは朝早くその場所に行って描くなど、一生懸命取り組んで学校長賞を取ることができました。
高校は、美術科があった福島県立西高校に進学しました。1年生は基礎コースで、2年生の時にビジュアルデザインコースかファインアートコースか迷ったんですが、自分自身を深く見つめて作品に昇華していくというスタイルのファインアートの方を選びました。」

学校長賞を受賞した水彩画。三浦さんは木々の個性の違いを描き分けることに力をいれたという。画面の右下から左斜め上へ、道や側溝や建物で視線を誘い、道路脇に植えられている木々に注意が向けられる。点景として語り合う二人の女の子と遠くに男の子が描かれ、明るい青緑色系でまとめられた画面には親密な感覚が溢れている。しかし、人と木のバラバラな影の向きが不思議な印象を与えている。

──美術を仕事にしたいと考えたのは、その頃ですか。

「小学4年生のときの作文『おとなになったら』でベレー帽をかぶり画家になった自分の似顔絵と一緒に『画家になりたい』と書いていました。でも、本当にそれを仕事にしようと決意したのは、大学を卒業してからです。」

──子どもの頃の夢がそのまま簡単に実現するわけではないですものね。

「その間に、挫折を経験するわけです。高校の先生から私には東京藝術大学に入れる素質があると勧められるままに、まず東京藝術大学と東京のいくつかの美大を受験して落ちました。浪人して美術予備校に通いましたが、自分の持ち味を生かしながら、各大学の傾向と対策に合わせて絵を描くことに苦戦しました。先生方のそれぞれ違うアドバイスを取捨選択する力がなくて、禅問答を聞いているようでした。そんなこんなで、どんな絵が描きたいのかもわからなくなって、精神的にちょっと鬱気味になってしまいました。結果、2年目も受験した大学に落ち、自信も失い挫折感を味わいました。
二浪までして親にも申し訳ない、実家に戻って就職しようかと悩んでいました。でも、担当の先生から大学は進学するべきだと勧められました。一番大切なのは、本人のやる気と環境だと言われたことも思い出しました。自分は大学ブランドにとらわれていました。環境が自分に合う美術大学に入って、自分らしく制作ができる力をつけて、若いうちに作家として現場で活動を始める方が良いだろうと考えを改めました。いくつか渡された大学案内の中に、文星芸術大学(栃木県宇都宮市)がありました。教育理念もカリキュラムもしっかりしているし、環境も良さそうで、自分に向いているかもと思って受験しました。」

──美大に進学することは、お母様も女子美術短大に行った経験があるから、賛成してくれたのでしょうか。

「逆に経験があるので、美術専攻の高校に進学する時から心配されました。今のように、SNSで積極的に活動を発信する時代ではなかったですから、プロの画家の世界がわかりません。進学高校に行って美術部で描いて、それからでも遅くないでしょうと、けっこう諭されました。最終的に協力はしてくれましたが、高校のうちから道が決まるのが心配だったみたいです。今であれば、美術系の高校大学を卒業しても、一般企業に就職する人も多いとわかるのですが、当時は情報が少なかったので、女性にも自立した生活をすることを望んでいた母の気持ちもわかります。」

銅版画によって、描く喜びが蘇る

「アジサイの葉」 ケント紙、顔料インク。ぺンで細かい点を丹念に打って描いており、銅版画での表現との親近性が窺える。

──文星芸術大学に入ってから、なぜ銅版画に取り組むことになったのですか。

「高校時代に銅版画を経験しましたが、修正しにくく苦手意識がありました。大学3年に授業の一環で再び挑戦した際、油絵では迷走していた自分が、銅版画の“下絵・版作り・刷り”という3段階のプロセスによって客観的に制作に向き合えることに気づきました。刷ったときの反転イメージを見て、足りない部分を加筆できる距離感が自分に合い、初めて手応えを感じました。先生や友人の評価も得て、『これは自分に向いている』と確信が持てました。」

──大学では銅版画と木版画の両方やったのですか。
「木版画もやりましたが、面のアプローチになるので、点や線を使って表現する銅版画よりも私にはあまりグッとくるものがなかったんです。銅版画は細密描写が可能で、ペン画以上に繊細に表現できます。当時、描き込み癖があり、油絵だとドンドン描き足して抑揚がない画面になる事が悩みの種でした。しかし、描いて描いて描きまくって丁度良い密度が出る銅版画は、短所になっていた部分を長所に反転させてくれたんです。」

──その頃は、どんな銅版画を描いていたのですか。

「大学で初めて描いた銅版画は、カエルをモチーフにした『上を向いて』です。幼少期に土いじりをしていたら、冬眠中の痩せたカエルが現れ、動かないので水に入れたら元気に泳ぐ姿を見て感動しました。それ以来、道端で痩せたカエルがいると水に入れて助ける気持ちになっていたんです。葉の上にカエルが乗って上を見つめているこの作品は、描く喜びが蘇る(よみガエル)自分を重ね合わせて描いたものです。発想の原点には、『井の中の蛙、大海を知らず』という言葉もあります。それだけだと後ろ向きな意味ですが、そのあとに『されど空の深さ(青さ)を知る』と入ることによって、夢中になれるものがあるからこそ、自分の道を究めることが出来るという前向きな解釈をして励みになった経験に由来しています。その後私の作品にしばしばカエルが登場してくるんですが、モチーフはカエルだけではなく、子供の頃から慣れ親しんで、心の癒しになっていた身近な命である、動物、昆虫、植物にしようと決めました。」

「上を向いて」銅版画(エッチング) 上を向くカエルが見ているのは、光に煌めく希望の水滴だろうか。「上を向いて」は、気持ちの上でも、その後の作品テーマやモチーフの上でも、ターニングポイントになった重要な作品と言ってよいだろう。

──植物の銅版画も作っていたのですか。

「大学で銅版画と再び出会う前に、植物を描くきっかけになった現代美術演習の授業がありました。制作コンセプトを深めるために、身の回りにある世界をドローイングする課題がありました。私は通学路で見かけたアジサイの葉を選びました。観察してみると、葉にはこんなに複雑な世界が広がっていたのかと気づき、はっとさせられました。葉の上に小さなアリが一匹いました。アリがくねくね歩いては止まって、また歩いている葉脈が、道筋に見えてきたんです。そのアリの姿は迷走しながら模索している自分そのものに見えました。」

──「脈路」という作品ですね。

「そうです。動植物の中に人生観を見いだし、見立ての発想で、人間の世界の中で感じる見過ごしがちだけど、ささやかで大事なことを動植物に重ね合わせて描くスタイルを思い立ったんです。」

他の仕事をしながらも、作家として独立する目標は常に見据えていた

──卒業後に作家活動は始まったのですか。

「卒業してすぐに個展の機会をくれたギャラリーがあり、作品を発表できました。また、卒業制作の銅版画が奨励賞を受賞したので、その賞金で銅版画に使う道具を購入できました。ただ、それだけでは生計を立てられません。奨学金の返済もあります。作家活動は続けたいが、生活費はどうしようか考えていたところ、中学校で美術を教える非常勤講師の話が来ました。まず教師をしながら作家活動を続ける二足のわらじを履くことになりましたが、いつかは個人事業主の作家一本に絞っていくぞという強い意志は、卒業した時点にはもうありました。」

──美術の先生の仕事は、忙しかったのでしょうか。

「南会津町という福島の豪雪地帯にある小規模な中学校を2校掛け持ちして、週4日でした。創作時間は確保できましたね。時間はあったんですが、教員宿舎に住んでいて、プレス機がないし、プレス機を買う余裕もなかったんです。当時は文星芸術大学にこっそり施設を貸してもらって、作業させてもらいました。」

──美術の講師は、続けたのでしょうか。

「2年間美術の講師をして、教えることに喜びも感じていたので、正式採用の道を目指すか、講師をしながら作家を目指すか迷っていました。福島県に、版画の企画展をしている鏡石鹿嶋神社があるのですが、宮司さんに私の作品を見てもらう機会がありました。応援の意味もあったと思いますが、個展の開催を勧められました。展示会場は広く、そこに展示する作品を制作するのと講師との両立は不可能だと判断しました。親に学校の仕事は辞めると言ったらびっくりして怒っていましたが、私が意志を曲げなかったので、ひとまず講師は辞めて実家に戻ることになりました。貯金を切り崩しながら個展の準備をしました。26歳の時に開催された個展は、神社が版画専門誌『版画芸術』に広告を出してくださり、地元福島のメディアにも取り上げられ、好評でした。36点売約になり、その画料で、小型でしたが念願のプレス機を購入し、自宅でも小品なら作品完成までできる喜びを噛みしめました。」

鏡石鹿嶋神社での個展の様子。広い会場に作品を展示するために、万全な準備をして臨んだ。

まず、地元の福島県から作家としての地盤を作っていった

──順調なスタートでしたね。

「作家として生活するには、その後も定期的に展示会をやる必要があります。取引する画商が増えるまで、アルバイトをしながら、作家活動と両立可能な美術関連の仕事を探し、福島県立美術館の監視員の仕事に就くことができました。実家から通い、作品制作費、奨学金の返済、携帯電話代、車の維持費などは自分で何とかしました。同じ作品が複数ある版画は、お客さまには買いやすい価格のものがほとんどです。逆に作家の立場では、一年中展示販売をして多くの枚数を買ってもらわないと、生活が難しいことに気がつきました。そこで、版画は、限定枚数※まで刷って販売できることを活かし、他の仕事をしながら展示の継続が可能な、福島県内の巡回展を考えました。福島県は広く、地域ごとに商圏が違うんです。監視員の仕事をしていた4年間に、福島市、いわき市、会津若松市などの画廊と取引するようになり、さらに近隣の県の画商とのつながりも作っていきました。」

※限定刷数:版画は版がつぶれるまで何枚でも刷ることができるが、近代の版画は、最初に定めたエディションと呼ばれる限定刷数だけしか刷らないことで、オリジナルの美術品として市場価値を確保している。エディション50であれば、各版画に1/50~50/50まで番号を打った版画を刷り、販売することができる。それぞれの版画にはエディションに加え、版画家本人の直筆サインが入る。

──自分で積極的にアプローチしていったわけですね。

「そうです。地元はすごく心温かく、受け止めてくれました。あと2009年末から2010年に、福島県で多くの人が購読している福島民報新聞に、6回にわたり連載エッセイを書く仕事もいただいたことで、地元での知名度があがり助かりました。」

──その頃発表していた作品は、どんなものだったのですか。

「モノクロの銅版画です。カラー銅版画を始めたのは、2013年からです。2011年に文星芸術大学からオファーが入った油画研究室助手の仕事をしている時でした。助手は4年間まで就労可能なので、個人事業主になるなら年齢的にそのあとがチャンスだと思い転職し、栃木県に引っ越しました。最初は1色刷りで、ポイントになる箇所を彩色していたんですが、徐々に版の絵だけで完結させたい思いが出てきて、一版の上にすべての色を載せてつくるスタイルに移行していきました。」

代表作はカエル

──メインで描いていたものは、やはりカエルのシリーズですか。

「そうです。迷走していた大学時代に、自分が何を表現したいのかを明確にしてくれたあの生き物です。物事を純粋に楽しむ子供の頃の視点を取り戻させてくれ、それで作風が確立できたという意味で『童心にカエル』シリーズを制作しました。カエルが主人公になって、私自身の心象風景を表現した世界になっているんです。」

──この頃は、写生をして描いていたのですか。

「観察はよくしていました。写生はどういう図にするかを考えたら、あとは下絵をサラサラと、あんまり描き込まない感じです。労力は本番の版に費やしたいので、写生をしっかりするというよりも、本番一発勝負という感じで銅板に描画していくほうが緊張感を保てて良いんです。」

──作品の構図の取り方に工夫を感じますが、構図はどのように考えて作っているのでしょうか。

「一番メッセージ性が伝わりやすい構図を考えますが、その考えの中で、自分の感覚で絵作りが進んで出来上がります。」

──猫も描いていますが、そのきっかけは何ですか。

「依頼を受けて描いたのが最初です。学生の時で、銅版画家としてどう活路を見出していくか決まっていなかったので、気軽に引き受けて描きました。猫が丸くおさまっている様子をシンプルに、ダイレクトに描いた作品ですが、ただ猫を描いただけではない何かを感じる仕上がりになりました。20年前の作品ですが、限定刷り数が50枚なので、定期的に展示があるギャラリーで、去年も今年も売れています。もしこれが1点ものの絵画だったら、学生の頃の作品は恥ずかしくてもう見せたくないと思っていたかもしれません。でも、版画は複数枚あるので、自分の手元にある作品を出せます。初めてその作品を見たお客さまには新鮮な感動があり、買っていただけるのは、複数性のある版画だからこそだと思うんです。若い学生だった私でなかったらできなかった作品が、時を超えて今も認めてもらえる経験は、版画家をやっていたからこそと思います。」

「うずくまる」銅版画 ed.50部 8.8×11.8cm  銅版画で初めて描いたネコ。すべて点描によるエッチング(腐蝕銅版画)で、卒業制作前の訓練のつもりで、大学4年生の初秋頃に描いた。ここでも細密な点で毛を描いているが、うずくまるネコの丸みが味わい深い表現になっている。

──現在、アイデアやモチーフはどこから得ているのでしょうか。

「ふだんの生活の中での出来事が一番です。あと、子供の頃に体験した自然とのふれあいの影響は今もあります。取材はよくします。散歩していると、思いがけず出会う風景や生き物の仕草があります。また、こういう作品を描こうと思ったら、その動物が確実にいる場所に行きます。4月頃から10月の後半ぐらいまでは家の前や近くにカエルが常にいて、大体出会います。」

──最近の画風を見るとかなり擬人化されていて、動物たちの表情が非常に人間的です。

「意識して描いています。何か心を宿しているという前提で描くようになりました。以前はそこまで意識していませんでしたが、今は、明確に心に寄り添うということがテーマになっています。カエル自体を自我のある主人公として、設定するようになりました。」

銅版画は、色々な人とのコミュニケーションツールになっている

──テーマとしてずっと、「ささやかな幸せ」がありますが、これはいつ頃から意識しだしたのでしょうか。

「大学3年生です。身近な、小さな出来事にある本質をみつめてきたことで、心豊かになっている自分に気がつきました。予備校や大学の初めの頃は、ないものねだりをしていたんですね。自分自身の持ち味に目を向けられなかったので、苦しかったのだと思います。子供の頃から自分自身で物語を作りながら絵を描くことは、やっていました。昆虫を手で捕まえて小さな命の生命力に触れることで、自分よりもか弱い生き物がこんなにも力強く生きていることを、感じ取っていました。身近な豊かさに、大学生のときに改めて気がついたんです。既に持っているものの価値を知る、『足るを知る』の精神です。」

──銅版画を本格的に初めて約20年になりますが、制作や気持ちに変化はありましたか。

「先ほどお話ししたように、子どもの頃はコミュニケーションが苦手で苦しんでいた時期がありました。ですが、版画には複数性があるので、例えば猫の作品のイメージ一つを通じて、20年間に色々なお客さまとの出会いがあります。作品を通して発表を続けていなければ、出会えなかったお客さまとのご縁を、版画がつなげ広げてくれた喜びを感じるようになりました。」

──これから新たに表現してみたいものはありますか。

「時を経て客観的に見えるようになり、また油絵を描いてみたい気持ちが生まれてきました。今後銅版画をさらに良くしていき、また自分自身の新たな引き出しを発掘するという意味でも、ダイレクトに描いていく絵画と並行して銅版画作品を作っていきたい思いはあります。」

──具体的に、何か取り組まれていますか。

「和紙に直接色鉛筆でハッチング※して、さらにアクリル絵の具でペインティングするような絵画を描いています。銅版画のアプローチと色鉛筆のハッチングはあまり遠くないので、色鉛筆でハッチングすることには抵抗がありません。」
※ハッチング:絵画、版画などで、複数の平行線を描きこむことで素材の感触、陰影を表現する描画法。

──次の個展は6月18日から始まる伊勢丹立川店ですが、その準備はもう始められていますか。

「6月開催なので、私がライフワークにしているカエルシリーズもぴったり合いそうですね。そのシリーズを含めて、メインビジュアルは、夏に向けて見る方の心が躍るような楽しい作品を揃えていきたいと思っています。」

──今、年間新作の銅版画はペインティングも含めて、どのくらい制作していますか。

「意外に少ないと思われがちですが、銅版画の新作は約20種類です。20種類を各10枚刷ったら200点になります。あと旧作の刷り増しも入ってくるので、価格をつけて発表できる作品は、年間約300点です。」

限定50部をすべて完売した銅版画「つらがえる」。タイトルは、連なるカエルの意味だろう。リアルでありながら、人のように豊かな表情でこちらを見つめるカエルたち。やや曲がった枝に乗るカエルの配置が画面にリズムを作っている。

──エディションは、基本50部ですか。

「多色刷りは1枚刷るのにも労力がかかるので、エディションは30部です。どの作品も、約10枚は最初に刷っておきます。ありがたいことに10枚ぐらいだとすぐ出ていくので。エディションを完売するのは難しいのですが、私の人生で初めて、そのエディションを全て出し切ったのがカエルのモチーフを描いた銅版画なんです。私らしい創作活動はカエルに始まって、カエルに背中を押してもらえたという感覚です。自分にとってすごく相性の良いカエルを、これからも進化させていきたいなと思っています。」

(聞き手・文/アートコンサルタント・亘理隆)

三浦麻梨乃プロフィール

三浦麻梨乃 Marino Miura
1981 福島県生まれ
2005 文星芸術大学美術学部美術学科 油画専攻卒業

個展
2023 「栃木ゆかりの版画家三浦麻梨乃展」鹿沼市立川上澄生美術館/栃木
2020 「あそび心に幸あれ」 Gallery Seek/銀座
2015 「三浦麻梨乃展-ちいさないのちのものがたり-」 五浪美術記念館
2015 「三浦麻梨乃 銅版画展-新緑-」風花画廊(同’17、’19、’21年)
2009 「三浦麻梨乃 銅版画展」アートスペース泉(同’15、’17、’19年)
2007 「三浦麻梨乃 銅版画展」鏡石鹿嶋神社参集殿(同’09年)

受賞
2018 版画フォーラム2018和紙の里ひがしちちぶ展 入賞(同’21、’22年)
2016 第15回版画絵はがきコンテスト 大賞
2014 CWAJ現代版画展 入選(同’15、’17、’19、’22年)

パブリックコレクション
肱川風の博物館(愛媛)、宇都宮市立西が岡小学校(栃木)

作品解説 三浦麻梨乃の『ラッキーメイト』

三浦麻梨乃『ラッキーメイト』
銅版画(エッチング、一版多色刷り)ed.30 画面サイズ12×18cm

 ここには、3種類の生き物が描かれている。真ん中には三浦麻梨乃が大好きなカエルが四葉のクローバーを掲げ、右手は腰に当て、左足を上げてポーズを取っている。画面左からはイモリが、右からはヤモリが、それぞれタンポポとシロツメクサをポンポンにしてカエルを応援している。『ラッキーメイト』のタイトルは、井戸の守り神「井守」であるイモリ、無事帰るなどの語呂あわせから幸運の生き物とされるカエル、家の守り神「家守」であるヤモリにちなむ。縁起の良い生き物が三位一体で幸運を願う、三浦の気持ちが込められた作品である。
 ちなみに、イモリとカエルは両性類、ヤモリは爬虫類である。この作品では、エッチングならではの細い線や小さな点でそれぞれの生き物の特徴をつかみながら描かれているが、細密な描写は避けているために生々しさはない。両生類も爬虫類も苦手という人はいるかもしれないが、こんなに愛嬌たっぷりに描かれていれば親しみも湧くだろう。三体がつくる楕円形の構成、それぞれの足元だけに描かれている地面、そしてタンポポとシロツメクサから散る花片のようなものが、絵に安定感と変化を与えており、コミカルな絵が1枚の作品として完成されている。

(解説/アートコンサルタント・亘理隆)

三浦麻梨乃さんの展覧会情報

2025年6月18日(水)~24日(火) 三浦麻梨乃 個展 伊勢丹立川店 8階 アートギャラリー

2025年7月9日(水)~15日(火) 三浦麻梨乃 個展 松坂屋上野店 

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