ゴッホとサン=レミ|療養院で描いた『星月夜』と晩年の作品を解説

『星月夜』が生まれたサン=レミの一年は、フィンセント・ファン・ゴッホが病に任せて衝動的に描いた時期ではありません。ゴッホは1889年5月8日、南フランスのサン=レミ=ド=プロヴァンスにあるサン=ポール=ド=モーゾール療養院へ自ら入院し、1890年5月16日まで約1年間を過ごしました。

発作によって制作できない時期を繰り返しながらも、ゴッホは療養院の庭、病室の窓、周辺の麦畑、糸杉、オリーヴ園を粘り強く描き、約150点の絵画を残しました。『星月夜』『アイリス』『糸杉のある麦畑』『花咲くアーモンドの木の枝』など、現在のゴッホ像を形づくる作品の多くが、この限られた環境から生まれています。

重要なのは、病気そのものが名画を生んだと考えないことです。ゴッホは行動範囲を狭められるなかで、身近な自然を観察し、同じ主題を繰り返し、記憶や版画を色彩へ置き換える制作方法を組み立て直しました。本記事では、アルル時代からサン=レミへの移動、療養院での生活、『星月夜』をはじめとする代表作、そして最後のオーヴェル時代へ向かうまでを時系列に沿って解説します。

この記事の要点

  • ゴッホがサン=レミで暮らしたのは1889年5月8日から1890年5月16日まで
  • 入院は強制ではなく、独りで暮らすことへの不安から本人が選んだものだった
  • 約1年間に『星月夜』『アイリス』『糸杉』など約150点の絵画を制作した
  • 『星月夜』は夜空の直接写生ではなく、観察、記憶、想像を組み替えた作品だった
  • サン=レミはゴッホの最終制作地ではなく、その後にオーヴェルでの最後の70日が続く
  1. ゴッホのサン=レミ時代とは|1889年5月から1890年5月
  2. ゴッホはなぜサン=レミの療養院へ入ったのか
    1. アルルでの発作と自発的な入院
    2. ゴッホの病名は現在も断定できない
  3. サン=ポール=ド=モーゾール療養院での生活と制作
    1. 病室、アトリエ、鉄格子のある窓
    2. 庭から麦畑、糸杉、オリーヴ園へ
    3. 発作によって制作できない時期もあった
  4. 『星月夜』|窓からの眺めを観察と記憶で組み替えた
  5. サン=レミで描いたゴッホの代表作
    1. 『アイリス』|入院直後に庭で描いた花
    2. 『糸杉のある麦畑』と『糸杉』|同じ木を横長と縦長で捉える
    3. オリーヴ園の連作|光と天候を色に変える
    4. ミレーに基づく『刈る人』|白黒の版画を色彩へ翻訳する
    5. 『花咲くアーモンドの木の枝』|甥の誕生を祝った贈り物
  6. サン=レミ期の画風|観察・反復・色彩による翻訳
    1. 観察|限られた場所を近くから見る
    2. 反復|同じ主題を描いて違いを確かめる
    3. 翻訳|線、記憶、自然を色彩へ置き換える
  7. 日本で見られるサン=レミ時代のゴッホ作品
    1. 国立西洋美術館『ばら』
    2. ポーラ美術館『草むら』
  8. サン=ポール=ド=モーゾール療養院は現在見学できる?
  9. サン=レミを出てオーヴェル=シュル=オワーズへ
  10. ゴッホとサン=レミのよくある質問
    1. ゴッホはサン=レミに何年間いましたか?
    2. サン=レミでは何点の作品を描きましたか?
    3. 『星月夜』は病室の窓から見た景色を夜に描いたのですか?
    4. ゴッホの病名はてんかんだったのですか?
    5. サン=ポール=ド=モーゾールは現在も療養院ですか?
  11. まとめ|サン=レミはゴッホが制作方法を立て直した一年
  12. 関連記事
  13. この記事を読んだ方におすすめの展覧会
  14. 講演歴17年以上・全国500回以上。 伊藤一樹の講演会を、講演料無料で。

ゴッホのサン=レミ時代とは|1889年5月から1890年5月

サン=レミ時代とは、ゴッホがサン=ポール=ド=モーゾール療養院で暮らした晩年の約1年間を指します。アルルで精神的な発作と入退院を繰り返した後、ゴッホはそれまでの住居を離れ、医師と職員の見守りを受けられる環境へ移りました。

滞在期間1889年5月8日~1890年5月16日
滞在場所サン=ポール=ド=モーゾール療養院
所在地フランス南部、サン=レミ=ド=プロヴァンス
入院の理由発作の再発と、独りで生活することへの不安
制作点数約150点の絵画
主な題材療養院の庭、病室からの眺め、麦畑、糸杉、オリーヴ園、模写作品
主な作品『星月夜』『アイリス』『糸杉のある麦畑』『糸杉』『花咲くアーモンドの木の枝』など
次の滞在地パリを経て、オーヴェル=シュル=オワーズへ

アルルでは町、カフェ、ローヌ川、果樹園、収穫、黄色い家など、広い範囲を歩きながら描いていました。それに対してサン=レミでは、まず療養院の敷地と病室の窓が制作の中心になります。行動範囲が限られたことで、ゴッホは草花、木、岩、空といった自然の細部を、以前より近い距離から繰り返し見つめるようになりました。

この一年の後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズへ移ります。したがって、サン=レミ作品は「晩年の作品」ではありますが、ゴッホの最後の作品群ではありません。サン=レミとオーヴェルで過ごした最後の70日を分けて見ることが、晩年の変化を理解するうえで重要です。

ゴッホはなぜサン=レミの療養院へ入ったのか

アルルでの発作と自発的な入院

1888年12月23日、ゴッホはアルルで深刻な発作を起こし、左耳の一部を傷つけました。これはポール・ゴーギャンとの約2か月の共同生活が終わる直前に起きた事件です。その経緯は、ゴッホとゴーギャンの共同生活と「耳切り事件」で詳しく解説しています。

退院後もゴッホの状態は安定せず、発作と回復を繰り返しました。絵を描ける日もあれば、再び病院へ収容される日もあり、黄色い家での独り暮らしを続けることが難しくなっていきます。ゴッホはやがて、自分だけで生活することへの不安を認め、継続して見守りを受けられる療養院へ入ることを選びました。

サン=レミへの入院は、周囲から一方的に閉じ込められたという単純な経緯ではありません。ゴッホ自身が治療と安定した生活環境を必要とし、入院を受け入れたものでした。療養院には病室とは別に制作に使える部屋が与えられ、状態がよいときには庭や周辺へ出て描くことも許されました。

ゴッホの病名は現在も断定できない

入院当時、療養院の医師テオフィル・ペイロンは、ゴッホが長い間隔を置いて起こる「てんかん性の発作」に見舞われていると記録しました。ただし、これは19世紀末の医学的理解に基づく診断です。

後世には双極性障害、側頭葉てんかん、アルコールや栄養状態の影響など、さまざまな説が提示されてきました。しかし、本人を現在の医学で診察することはできず、残された手紙や診療記録だけから病名を一つに確定することもできません。

確認できるのは、意識や認知が大きく乱れる発作が繰り返され、その間には会話や読書、手紙、制作ができる比較的安定した期間があったことです。作品を見る際にも、病名を推測するより、発作が制作時間、外出範囲、画材の使用にどのような制約を与えたかを見る方が、サン=レミ時代を正確に理解できます。

サン=ポール=ド=モーゾール療養院での生活と制作

病室、アトリエ、鉄格子のある窓

サン=ポール=ド=モーゾールは、アルピーユ山脈の麓に建つ旧修道院を利用した精神科療養院でした。ロマネスク様式の回廊、礼拝堂、庭、畑に囲まれ、近くには古代ローマ遺跡グラヌムがあります。

ゴッホには病室のほか、絵を描くための部屋が与えられました。入院直後は外へ自由に出られなかったため、最初に描いたのは療養院の庭に咲くアイリスやライラック、木々、草むらでした。病室の鉄格子のある窓からは、麦畑やアルピーユの低い山並みを見ることができました。

窓は外界を遮る境界であると同時に、毎日同じ風景を観察するための定点にもなりました。夜明け前の星、朝の光、麦の色、山の輪郭、天候の変化を見続けたことが、『星月夜』や窓外の麦畑を描いた連作につながっています。

庭から麦畑、糸杉、オリーヴ園へ

状態が安定すると、ゴッホは職員の付き添いや許可のもとで療養院の外へ出られるようになります。初夏には黄色い麦畑、アルピーユの山、背の高い糸杉を描き、さらに周辺のオリーヴ園へ題材を広げました。

サン=レミの風景は、アルルの平らな平原とは異なります。土地は岩が多く、丘が近く、糸杉やオリーヴの幹は複雑に曲がっています。ゴッホの筆触が大きくうねるように見えるのは、画家の感情だけでなく、山、雲、麦、枝の方向を筆の動きで描き分けた結果でもあります。

発作によって制作できない時期もあった

サン=レミの一年は、安定した制作が途切れなく続いた期間ではありません。1889年7月には入院後初めての大きな発作が再発し、その後も制作や外出を中断する時期がありました。重い混乱の際には絵具を口にしたこともあり、安全のため油彩制作を止められ、素描だけに限られたこともあります。

約150点という制作数だけを見ると、常に猛烈な勢いで描いていたように思えます。しかし実際には、描けない期間と、状態が戻ったときに集中的に制作する期間が交互にありました。サン=レミ作品の密度は、病気によって生まれたというより、制作できる時間を失いたくないという切迫した意識のなかで形成されたものです。

『星月夜』|窓からの眺めを観察と記憶で組み替えた

フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』1889年6月/油彩・カンヴァス/73.7×92.1cm/ニューヨーク近代美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』1889年6月/油彩・カンヴァス/73.7×92.1cm/ニューヨーク近代美術館

『星月夜』は1889年6月中旬に制作され、現在はニューヨーク近代美術館に所蔵されています。画面の大部分を青い夜空が占め、黄色く輝く月と星、渦を巻く雲、左側の糸杉、山麓の村が組み合わされています。

ゴッホは夜明け前、病室の東向きの窓から、ひときわ大きく見える明けの明星を長時間眺めていました。画面左寄りに強く輝く星は金星と考えられています。ただし、『星月夜』は窓から見た夜景を、その場で写し取った作品ではありません。

制作は日中に複数回に分けて行われました。画面下の村は病室の窓から直接見えたものではなく、周辺で見た家々や故郷オランダの教会を思わせる尖塔が組み合わされています。左側の糸杉も、実際の距離より手前へ大きく移されました。観察した山並みと星に、別の場所の記憶と画面上の構成を重ねた作品なのです。

渦巻く筆触も、発作中の混乱をそのまま描いたものではありません。空の大きな曲線、山並み、糸杉、教会の尖塔を異なる方向へ配置し、動く空と静かな村を対比させています。天体、構図、糸杉の意味をさらに詳しく知りたい方は、『星月夜』とは?|ゴッホが描いた“夜”の名画をわかりやすく解説をご覧ください。

サン=レミで描いたゴッホの代表作

『アイリス』|入院直後に庭で描いた花

フィンセント・ファン・ゴッホ『アイリス』1889年5月/油彩・カンヴァス/74.3×94.3cm/J・ポール・ゲティ美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『アイリス』1889年5月/油彩・カンヴァス/74.3×94.3cm/J・ポール・ゲティ美術館

『アイリス』は、ゴッホが療養院へ入った直後に庭で描き始めた作品です。空や遠景を描かず、画面の手前いっぱいに青紫色のアイリスと長い葉を広げています。花を正面から整然と並べるのではなく、途中で切れた葉、重なり合う花、画面の外へ続く茂みを取り入れた構図です。

青紫色の花の集まりのなかに、一輪の白いアイリスが置かれ、画面左側に明るい色彩上の焦点をつくっています。花や葉の輪郭をはっきり区切り、遠近感よりも画面全体の模様とリズムを重視する構成には、ゴッホが長く親しんだ浮世絵の影響も見られます。

『アイリス』は、病気の象徴を読み取る前に、入院直後のゴッホがどれほど注意深く庭の植物を観察していたかを見るべき作品です。花の種類、葉の曲がり方、色の違いを一つずつ捉えながら、それらを一枚の装飾的な画面へまとめています。

『糸杉のある麦畑』と『糸杉』|同じ木を横長と縦長で捉える

フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある麦畑』1889年6月/油彩・カンヴァス/73.2×93.4cm/メトロポリタン美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある麦畑』1889年6月/油彩・カンヴァス/73.2×93.4cm/メトロポリタン美術館

ゴッホは1889年6月末、療養院の周辺で糸杉を集中的に描きました。メトロポリタン美術館所蔵の『糸杉のある麦畑』は、現地で自然を前に制作したヴァージョンです。黄色い麦畑、青緑色の低木、濃い糸杉、山並み、雲が横長の画面に重ねられています。

この作品をもとに、ゴッホは9月にアトリエでほぼ同じ大きさの別ヴァージョンを制作しました。そちらは現在、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。同じ題名に近い作品でも、6月の屋外制作と9月のアトリエ制作を混同しないよう注意が必要です。

フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉』1889年6月/油彩・カンヴァス/93.4×74cm/メトロポリタン美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉』1889年6月/油彩・カンヴァス/93.4×74cm/メトロポリタン美術館

同じメトロポリタン美術館が所蔵する『糸杉』では、樹木を画面中央へ大きく置き、縦長の構図で描いています。幹や枝の輪郭はまっすぐではなく、緑、黄緑、黒、紫を含む短い筆触が重なり、木全体が燃え上がるように見えます。

糸杉は墓地との結びつきから「死の象徴」と説明されることがあります。しかしゴッホ自身が強く関心を向けたのは、その線と比率、そして陽光に満ちた風景のなかに立つ暗い色面でした。糸杉を死の暗号だけに限定すると、樹木の形を絵画として捉えようとした試みが見えなくなります。

オリーヴ園の連作|光と天候を色に変える

フィンセント・ファン・ゴッホ『オリーヴの木々』1889年11月/油彩・カンヴァス/72.7×92.1cm/メトロポリタン美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『オリーヴの木々』1889年11月/油彩・カンヴァス/72.7×92.1cm/メトロポリタン美術館

療養院の周辺にはオリーヴ園が広がっており、ゴッホは夏から秋にかけて同じ場所を繰り返し描きました。メトロポリタン美術館所蔵の『オリーヴの木々』は、1889年11月に描かれた5点のオリーヴ園作品の一つです。

オリーヴの葉は、一定の緑色には塗られていません。銀色、青、緑、黄緑が細かな筆触として重ねられ、地面には黄土色、紫、赤褐色が置かれています。ゴッホは木の固有色を再現するより、光の向き、空気、乾いた土、風に揺れる葉を、色同士の関係へ置き換えました。

同じオリーヴ園を何度も描いたのは、作品を量産するためではありません。季節、時刻、天候が変わるたびに、木と地面の色がどう変化するかを比較するためでした。反復によって自然の変化を捉える方法は、サン=レミ期の制作全体を貫いています。

ミレーに基づく『刈る人』|白黒の版画を色彩へ翻訳する

発作後に外出を許されなかった時期や、人物モデルを用意できなかった時期には、ゴッホはジャン=フランソワ・ミレー、レンブラント、ドラクロワらの作品をもとに制作しました。なかでもミレーの農民画は、オランダ時代から敬愛してきた重要な手本でした。

『刈る人』では、白黒の複製版画をそのまま色づけしたのではありません。黄色い麦、青みを帯びた山、緑の草、強い日差しを自分で組み立て、ミレーの構図を南フランスの色彩へ移し替えています。

この制作は単なる模写ではなく、他者の線を自分の色へ翻訳する作業でした。現地で自然を観察する制作と、アトリエで版画を再構成する制作は一見反対に見えますが、どちらも見たものをそのまま写さず、絵画として組み直す点で共通しています。

『花咲くアーモンドの木の枝』|甥の誕生を祝った贈り物

フィンセント・ファン・ゴッホ『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月/油彩・カンヴァス/73.3×92.4cm/ファン・ゴッホ美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月/油彩・カンヴァス/73.3×92.4cm/ファン・ゴッホ美術館

1890年1月、弟テオと妻ジョーの間に男の子が誕生しました。赤ん坊は伯父と同じフィンセント・ウィレムと名づけられます。知らせを受けたゴッホは、弟夫婦と甥への贈り物として『花咲くアーモンドの木の枝』を描き始めました。

画面には地面も花瓶も描かれず、明るい青の上を白い花と枝が横切っています。枝を画面の途中で切り、奥行きの手がかりを少なくした構成は、浮世絵の花鳥画を思わせます。太い枝と細い枝、開いた花とつぼみが、青い色面の上で広がっています。

この作品を、病気からの完全な回復を表す絵と断定することはできません。完成後にもゴッホは発作に苦しみました。それでも、甥の誕生を喜び、弟の家に飾る作品を描こうとした事実は、療養院にいても家族との関係が続いていたことを示しています。テオとの関係については、ゴッホの弟テオとは|兄を支えた画商と「ゴッホ」を世に残した兄弟の物語で詳しく紹介しています。

サン=レミ期の画風|観察・反復・色彩による翻訳

観察|限られた場所を近くから見る

サン=レミでは、ゴッホが自由に移動できる範囲が狭まりました。しかし、題材が少なくなったわけではありません。庭の一角、草むら、窓の外の麦畑、一本の糸杉、オリーヴの幹など、身近な自然を近距離から観察することで、画面の密度が高まりました。

『アイリス』や『草むら』のように空や地平線を除いた作品では、一般的な風景画の奥行きが弱まり、植物の線と色が画面全体を覆います。遠くの景色を広く見渡すのではなく、足元の自然を一つの世界として捉える方法です。

反復|同じ主題を描いて違いを確かめる

ゴッホは糸杉、オリーヴ園、麦畑、療養院の庭を一度描いて終わりにはしませんでした。屋外で描いた作品をもとに、アトリエで別のヴァージョンを制作することもあります。同じ主題を繰り返すことで、構図、色彩、筆触、画面の大きさが作品の印象をどう変えるかを確かめました。

このため、サン=レミ作品には題名や構図が似たものが多く残されています。所蔵館や制作時期を確認せずに画像だけを見ると、屋外制作、アトリエでの再制作、小型の複製を混同しやすい点に注意が必要です。

翻訳|線、記憶、自然を色彩へ置き換える

『星月夜』では窓からの観察が記憶と構成へ、『刈る人』では白黒の版画が南フランスの色彩へ置き換えられました。ゴッホにとって絵画は、現実をそのまま複写する手段ではなく、見たものを線、色、絵具の厚みに翻訳する行為でした。

うねる筆触も、すべてを同じ形で塗った結果ではありません。麦には麦の方向、山には山の輪郭、雲には雲の回転、糸杉には上へ伸びる動きが与えられています。筆触は画家の感情を示すと同時に、物の形と動きを描き分ける役割を担っています。

厚塗り、黄色と青の対比、補色、輪郭線、浮世絵の影響を時代別に確認したい方は、ゴッホの絵の特徴|厚塗り・黄色・うねる筆触・浮世絵まで徹底解説もあわせてご覧ください。

日本で見られるサン=レミ時代のゴッホ作品

サン=レミで描かれたゴッホ作品は、日本の美術館にも所蔵されています。とくに重要なのが、国立西洋美術館の『ばら』と、ポーラ美術館の『草むら』です。

作品名制作年技法・寸法所蔵館見どころ
『ばら』1889年油彩・カンヴァス/33×41.3cm国立西洋美術館療養院の敷地に咲くばらと、葉や花をつなぐうねる筆触
『草むら』1889年油彩・カンヴァス/45.1×48.8cmポーラ美術館空と地平線を除き、地面近くの草だけで画面を満たした構成

国立西洋美術館『ばら』

『ばら』は、療養院の敷地に咲いていたばらを描いた作品です。白い花と緑の葉が画面いっぱいに広がり、葉や茎を形づくる筆触が波のようにつながっています。33×41.3cmの小さな作品ですが、サン=レミ期の自然への集中した観察を伝えます。

フィンセント・ファン・ゴッホ『ばら』1889年/油彩・カンヴァス/33×41.3cm/国立西洋美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ『ばら』1889年/油彩・カンヴァス/33×41.3cm/国立西洋美術館 この作品は松方幸次郎が収集した松方コレクションに由来し、現在は東京・上野の国立西洋美術館に所蔵されています。

ポーラ美術館『草むら』

『草むら』では、空、山、建物を描かず、草の茂みだけを大きく切り取っています。緑、黄緑、青緑の線が密集し、画面の外にも草が続いているように見えます。地面に近い視点と、奥行きを抑えた平面的な構成には、日本美術から受けた刺激も指摘されています。

『草むら』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 油彩・キャンヴァス 45.1×48.8cm ポーラ美術館所蔵
『草むら』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年 油彩・キャンヴァス 45.1×48.8cm ポーラ美術館所蔵

『ばら』『草むら』を含む国内所蔵作の全体像は、日本で見られるゴッホ作品|ひまわり・ばら・ドービニーの庭から国内美術館の所蔵作を解説で紹介しています。所蔵作品は展示替えや貸し出しによって見られない期間があるため、訪問前に各美術館の「展示中の作品」または展覧会情報を確認してください。

サン=ポール=ド=モーゾール療養院は現在見学できる?

サン=ポール=ド=モーゾールでは現在も医療・福祉活動が行われていますが、文化・観光部門の一部は一般に公開されています。公開範囲にはロマネスク様式の回廊、礼拝堂、植物の散策路、ゴッホの部屋を含む改修された療養院の室内、ギャラリーなどがあります。

ただし、現在も治療施設として使われている場所であり、建物の改修事業も進められています。公開日、開館時間、見学できる部屋は変更される可能性があるため、旅行前にはサン=ポール=ド=モーゾール公式サイトで最新情報を確認してください。

現在公開されているゴッホの部屋は、作品が制作された当時の生活空間を理解する手がかりにはなりますが、そこに置かれた家具や室内装飾のすべてを、ゴッホが使用した実物と考えるべきではありません。窓の位置、建物、庭、アルピーユの地形を、作品と照らし合わせて見ることに意味があります。

サン=レミを出てオーヴェル=シュル=オワーズへ

1890年に入ると、ゴッホの作品は少しずつ公の場で注目され始めます。ブリュッセルの二十人展に作品が出品され、『赤い葡萄畑』が売れました。3月にはパリのアンデパンダン展にも作品が並び、同時代の画家や批評家から評価を受ける機会が増えていきます。

フィンセント・ファン・ゴッホ《赤い葡萄畑》1888年。プーシキン美術館所蔵
フィンセント・ファン・ゴッホ《赤い葡萄畑》1888年。プーシキン美術館所蔵

一方で発作への不安はなくならず、ゴッホはサン=レミを離れ、弟テオの近くで暮らすことを望むようになりました。療養院での滞在は1890年5月16日で終わり、パリでテオ一家と会った後、5月20日にオーヴェル=シュル=オワーズへ移りました。

オーヴェルではガシェ医師の見守りを受けながら、村の家、教会、人物、庭、麦畑を描きます。滞在はわずか70日でしたが、『オーヴェルの教会』『ガシェ博士の肖像』『ドービニーの庭』『カラスのいる麦畑』『木の根と幹』など、重要作が次々に生まれました。

『ドービニーの庭』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年7月 油彩・キャンバス 53×103cm ひろしま美術館
『ドービニーの庭』 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年7月 油彩・キャンバス 53×103cm ひろしま美術館

したがって、サン=レミの『花咲くアーモンドの木の枝』や糸杉の作品を「ゴッホ最後の作品」と紹介するのは正確ではありません。最後の70日と現在有力視されている最終作については、ゴッホとオーヴェル=シュル=オワーズ|最後の70日と晩年の作品を解説をご覧ください。

ゴッホとサン=レミのよくある質問

ゴッホはサン=レミに何年間いましたか?

1889年5月8日から1890年5月16日までの約1年間です。サン=ポール=ド=モーゾール療養院で生活し、病室、庭、周辺の畑やオリーヴ園を題材に制作しました。

サン=レミでは何点の作品を描きましたか?

約150点の絵画を制作したとされています。発作によって制作できない期間もあったため、常に同じ速度で描いたのではなく、状態が安定した時期に集中的に制作しました。

『星月夜』は病室の窓から見た景色を夜に描いたのですか?

窓から観察した山並み、夜明け前の空、明けの明星が出発点ですが、そのままの写生ではありません。村は別の場所の景観や記憶をもとに加えられ、糸杉の位置も変更されています。絵自体は日中、複数回に分けて制作されました。

ゴッホの病名はてんかんだったのですか?

当時の療養院医師は、間隔を置いて起こるてんかん性の発作と診断しました。ただし、現代の医学的な診断名を確定することはできません。現在提示されているさまざまな病名は、残された記録に基づく仮説です。

サン=ポール=ド=モーゾールは現在も療養院ですか?

現在も医療・福祉施設として使われています。同時に、回廊、礼拝堂、ゴッホに関係する室内などを含む文化・観光部門の一部が一般公開されています。見学範囲は変更される可能性があるため、公式サイトで確認が必要です。

まとめ|サン=レミはゴッホが制作方法を立て直した一年

ゴッホは1889年5月8日から1890年5月16日まで、サン=レミ=ド=プロヴァンスのサン=ポール=ド=モーゾール療養院で暮らしました。発作と回復を繰り返しながら、約150点の絵画を制作し、『星月夜』『アイリス』『糸杉のある麦畑』『糸杉』『花咲くアーモンドの木の枝』などを残しました。

この時期の重要性は、病気が名画を生み出したという物語にはありません。自由に移動できない状況のなかで、庭、窓、麦畑、糸杉、オリーヴ園を繰り返し観察し、屋外作品をアトリエで描き直し、白黒の版画を色彩へ翻訳する方法を築いたことにあります。

『星月夜』の空も、無秩序な衝動の記録ではありません。観察した星と山並みに、記憶の村、移動させた糸杉、計画された色彩と筆触を重ねた作品です。サン=レミは、ゴッホが制約のなかで制作を続けるため、自分の絵画を組み立て直した一年だったのです。

関連記事

書画家・伊藤一樹

東京都・埼玉県限定 2026年12月15日までの開催分

講演歴17年以上・全国500回以上。 伊藤一樹の講演会を、講演料無料で。

中学校・高校・教育委員会から企業研修まで。心の不調を乗り越えた書画家・伊藤一樹が、実体験をもとに「あなただからこそできることがある」を語ります。

  • 講演時間25~70分
  • 約5分の書画ライブ可
  • 会場・日時未定でも相談可
講演料
0円

福福堂が講演料を負担します。主催者様は、岐阜県恵那市から会場までの交通費実費のみご負担ください。

講演内容・開催条件・申込方法を見る

学校行事・企業研修・安全大会・健康・人権・福祉研修などにご相談いただけます。

タイトルとURLをコピーしました