抽象画とは、人物や風景をそのまま写すのではなく、色・線・形・余白・リズムによって感覚や思想を表す絵画です。赤や青の色面、伸びやかな線、四角形や円の構成だけで、音楽のような響き、都市的なリズム、静けさ、精神的な広がりまで表現することができます。
抽象画は「何が描かれているのかわからない絵」と思われることもありますが、本来は「答えを当てる絵」ではありません。色が美しい、線が心地よい、形の配置に緊張感がある、余白に静けさを感じる――そうした感覚から楽しめる自由な絵画です。この見方は、絵画だけでなく布の文様にも応用できます。花、鳥、太陽、ひし形、渦巻などを針と糸で反復する民族刺繍を見ると、抽象表現が暮らしの中でも育まれてきたことが分かります。
この記事では、抽象画とは何か、どのように生まれたのか、カンディンスキーやモンドリアンなどの代表画家、有名作品、鑑賞のポイント、現代デザインへの影響まで、はじめての方にもわかりやすく解説します。

抽象画とは何か
抽象画とは、現実の人物・風景・静物などを写実的に描くのではなく、色彩、線、形、構図、質感によって表現する絵画です。対象を完全に消し去る作品もあれば、自然や人物をもとにしながら、形を単純化して抽象へ近づいていく作品もあります。
たとえば、海を描く場合でも、波や船を細かく描くのではなく、青い色面、ゆるやかな曲線、広い余白によって「水の広がり」や「揺れる感覚」を表すことがあります。森を描く場合でも、木の幹や葉を写すのではなく、垂直線や緑の色面、画面全体のリズムとして表すことがあります。
つまり抽象画は、目に見えるものを説明する絵ではなく、色と形によって感覚を立ち上げる絵画です。具象画が「何が描かれているか」を手がかりにするのに対し、抽象画は「どのように感じるか」「画面がどのように響いているか」を楽しむ表現だといえます。
抽象画が生まれた背景
抽象画が本格的に登場したのは、20世紀初頭のヨーロッパです。それ以前の西洋絵画では、宗教画、肖像画、歴史画、風景画、静物画など、具体的な対象を描くことが中心でした。
しかし19世紀後半になると、絵画は少しずつ現実の再現から離れていきます。印象派は光や色彩の変化を追い、セザンヌは自然を円筒・球・円錐のような構造として捉え、ゴッホやゴーギャンは色彩に感情や象徴性を込めました。

さらに19世紀の写真技術の発達によって、現実を正確に記録する役割は写真が担うようになります。そのなかで画家たちは、絵画にしかできない表現を探し始めました。見たものを写すのではなく、感じたもの、考えたもの、目に見えないものを画面に表す方向へ進んでいったのです。
抽象画は突然生まれたものではありません。ポスト印象派、象徴主義、フォーヴィスム、キュビスムなど、19世紀末から20世紀初頭にかけての美術の変化が重なり合うなかで、「対象を描かなくても絵画は成立する」という新しい考え方が生まれました。
象徴的なエピソードがあります。1895年、若き日のロシア人画家ヴァシリー・カンディンスキーがモスクワで開かれた印象派展でモネの『積みわら』を目にし、何が描かれているのか分からないまま強烈な衝撃を受けました。「カタログを見て初めて積みわらと分かった。私はそれを認識できなかった――だが、これまで私には隠されていたパレットの予想外の力を、初めて見せつけられた」。この体験が、後に抽象画へと進む彼の出発点となります。印象派から近代絵画への流れを知りたい方は、印象派とは、西洋美術史の流れもあわせてご覧ください。

抽象画の代表画家と有名作品
抽象画には、精神性を重視するもの、幾何学的な秩序を追求するもの、色面の広がりを楽しむもの、身体的な筆跡を生かすものなど、さまざまな方向があります。ここでは、抽象画を理解するうえで重要な代表画家と有名作品を紹介します。
カンディンスキー|色と音楽のような抽象
ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944)は、抽象画の歴史を語るうえで欠かせない画家です。法律家から30歳で画家に転身したカンディンスキーは、色や形には音楽のように人の心へ直接働きかける力があると考えました。1912年に発表した著作『芸術における精神的なもの(Über das Geistige in der Kunst)』では、色と形の精神的な力について理論的に体系化しています。

カンディンスキーの作品では、円、三角形、線、色面が画面のなかで響き合います。具体的な人物や風景を描かなくても、色彩の強弱、線の方向、形の配置によって、緊張感や躍動感、精神的な広がりを表すことができると考えたのです。彼はミュンヘンで「青騎士(Der Blaue Reiter)」グループを結成(1911年)、後に1922年からはバウハウスで教鞭をとり、20世紀前半のヨーロッパ抽象絵画の中心人物となります。
代表作《コンポジションVIII》(1923年、グッゲンハイム美術館)では、幾何学的な形と線が画面全体に広がり、音楽の楽譜を見るようなリズムがあります。抽象画が「見る音楽」ともいえる表現であることを感じさせる作品です。なお、カンディンスキーは長らく1935年の手紙で「私が1911年に描いた水彩画こそ世界初の抽象画だ」と主張し、長く「抽象画の父」と呼ばれてきましたが、近年の研究では1913年頃の制作を遡って記録した可能性が指摘されており、後述するヒルマ・アフ・クリントが先んじていたことが判明しています。

モンドリアン|線と色面による美しい秩序

ピート・モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)は、抽象画を幾何学的で洗練された表現へと押し進めたオランダの画家です。初期には自然主義的な風景や樹木を描いていましたが、1908年以降パリでキュビスムに触れ、次第に自然の形を単純化し、水平線、垂直線、赤・青・黄の三原色と白・黒・灰色による構成へ到達しました。
1917年、モンドリアンはテオ・ファン・ドゥースブルフらと「デ・ステイル(De Stijl/様式)」運動を共同創設し、自身の様式を「新造形主義(Neo-Plasticism)」と名づけて理論化しました。モンドリアンの作品は、一見するとシンプルなデザインのように見えます。しかし実際には、線の太さ、色面の大きさ、余白の比率が非常に緻密に調整されています。画面のなかには、静かな緊張感と秩序、そして明るいリズムがあります。
1940年、第二次世界大戦のためロンドン経由でニューヨークへ移ったモンドリアンは、晩年に「ブロードウェイ・ブギウギ」(1942-43年、MoMA所蔵)など、都市のリズムと音楽から着想を得た代表作を生み出しました。モンドリアンの抽象画は、絵画だけでなく、建築、グラフィックデザイン、ファッション、インテリアにも大きな影響を与えました。1965年にイヴ・サンローランが発表した「モンドリアン・ドレス」はその象徴的な例で、抽象画が現代の視覚文化へ広がっていくうえで非常に重要な存在です。
マレーヴィチ|絵画そのものを問い直した抽象

カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich, 1879-1935)の《黒の正方形》は、20世紀美術を代表する作品の一つです。白い背景の上に黒い正方形が置かれただけのように見えるこの作品は、人物も風景も物語も描いていません。マレーヴィチは1913年にこの構図を着想し、1915年12月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で開催された「0,10展(最後の未来派絵画展)」で初公開しました。
注目すべきは、その展示方法です。マレーヴィチは『黒の正方形』を、ロシア正教の家庭で聖像(イコン)を掛ける「赤い角(イコン・コーナー)」と呼ばれる特別な場所――部屋の二面の壁が交わる上部――に高々と掲げました。世俗的な現代絵画を、聖なる図像と同じ位置に据えるという、宗教的・美術史的に極めて挑発的な行為でした。マレーヴィチはこの作品をきっかけに、自身が提唱する「シュプレマティスム(至高主義)」運動を打ち立て、芸術を客観的世界の束縛から解放することを目指しました。
《黒の正方形》は、単純な図形でありながら、近代美術の大きな転換点となった作品です。マレーヴィチはこの主題を生涯にわたり4回描き直しており、1935年の彼の葬儀では、棺の後ろに最後のバージョンが掲げられたと伝えられます。現存する初版は現在、モスクワのトレチャコフ美術館に所蔵されています。抽象画が単なる装飾ではなく、美術そのものを考え直す表現であったことを示す作品です。
マレーヴィチについて詳しく知りたい方は、マレーヴィチとは|『黒の正方形』とシュプレマティスムをわかりやすく解説も併せてご覧ください。
ヒルマ・アフ・クリント|抽象画史を書き換えた存在として再評価
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint, 1862-1944)は、近年、抽象画の歴史のなかで大きく再評価されているスウェーデンの画家です。長らくカンディンスキーが「最初の抽象画家」とされてきましたが、現在ではアフ・クリントが1906年に描いた『原初の混沌(Primordial Chaos)』連作が、カンディンスキーよりも5年早い時期に制作された西洋美術史上最初期の完全抽象作品であることが明らかになっています。

ストックホルム王立美術アカデミーで正統的な美術教育を受けたアフ・クリントは、当初は肖像画家・風景画家として活動していました。しかし1896年から女性4人のグループ「ファイブ(De Fem)」で精神世界の探究を始め、自然科学、植物、宇宙、神智学への深い関心をもとに、1906年から「神殿のための絵画(Paintings for the Temple)」と呼ばれる大規模な抽象作品の連作を制作しました。1906年から1915年までの間に、193点もの抽象作品を完成させています。
アフ・クリントの作品には、円、螺旋、植物のような形、柔らかな色彩が現れます。それらは単なる装飾ではなく、生命の構造や目に見えない世界を表そうとする試みでした。彼女は自分の作品が時代に理解されないことを察し、「死後20年は公開しないこと」と遺言を残します。1944年に交通事故で没した後、長く忘れられていた1,200点以上の作品群は、1986年のロサンゼルス・カウンティ美術館の展覧会、そして決定的には2018-2019年のグッゲンハイム美術館での回顧展(60万人以上が訪れ、同館史上最多の動員)によって、世界的に再評価されました。抽象画というと幾何学的で硬い表現を思い浮かべる方もいますが、アフ・クリントの作品には柔らかさ、神秘性、生命感があり、抽象画の幅広さと、その歴史を語り直す重要性を示す画家です。

抽象画の種類
抽象画にはいくつかの代表的な種類があります。画家や時代によって表現は異なりますが、大きく分けると、色や線の感情的な響きを重視するもの、幾何学的な構成を重視するもの、色面の広がりを重視するもの、身体的な動きを重視するものがあります。
幾何学的抽象
幾何学的抽象は、直線、円、四角形、三角形などの形を用いて、画面の秩序や調和を追求する抽象画です。モンドリアンやマレーヴィチの作品が代表的です。幾何学的抽象では、画面の構成が非常に重要になります。色面の大きさ、線の位置、余白のバランスによって、静けさや緊張感、都市的なリズムが生まれます。
叙情的抽象
叙情的抽象(リリカル・アブストラクション)は、感情や音楽的なリズムを重視する抽象画です。カンディンスキーのように、線や色が自由に動き、画面全体に響き合うような表現が見られます。幾何学的抽象が秩序や構成を強く感じさせるのに対し、叙情的抽象には、即興性、感情の動き、内面的な響きがあります。1940年代以降、フランスではジョルジュ・マチューやアンス・アルトゥングらが、より大胆な筆触によってこの方向を発展させました。
抽象画の前史を考えるうえでは、カンディンスキーだけでなく、リトアニアの作曲家・画家チュルリョーニスも見逃せません。彼は完全な非対象絵画へ進んだわけではありませんが、『星のソナタ』や『海のソナタ』で、音楽の構造、宇宙的なリズム、精神的な上昇感を絵画へ移し、抽象絵画への先駆的な感覚を示しました。
色面抽象
色面抽象(カラーフィールド・ペインティング)は、大きな色の広がりによって空間や感情を表す抽象画です。画面のなかで何かが描かれているというよりも、色そのものが主役になります。マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、クリフォード・スティルらが代表的な画家で、巨大なキャンバスに広がる単色の色面を前に立つと、色に包まれるような感覚が生まれます。抽象画が、単に見るものではなく、空間として体験するものでもあることを感じさせる表現です。
抽象表現主義
抽象表現主義(Abstract Expressionism)は、第二次世界大戦後の1940年代後半から1950年代にかけて、ニューヨークを中心に展開した抽象画の運動です。大きな画面、激しい筆づかい、絵具の流れや飛沫、身体的な動きが特徴です。床に広げたキャンバスに絵具を滴らせるジャクソン・ポロックの「ドリッピング」技法は、その象徴的な手法として知られています。ウィレム・デ・クーニング、フランツ・クライン、ロバート・マザウェルらもこの運動の中心画家です。
絵画を完成した図像として見るだけでなく、描く行為そのものを重視した点に特徴があります。画面には、画家の身体の動きや制作の時間が残されています。抽象表現主義は、第二次世界大戦後にヨーロッパからアメリカへと美術の中心が移動したことを象徴する運動でもあります。
抽象画の見方
抽象画を見るときは、「何が描かれているか」を急いで探す必要はありません。まずは、色の印象、線の動き、形の配置、余白の広がりに目を向けてみると、作品がぐっと身近になります。
たとえば、明るい色が多いのか、深い色が多いのか。線は鋭いのか、柔らかいのか。形は安定しているのか、浮遊しているのか。画面全体に静けさがあるのか、動きがあるのか。そうした感覚から見始めることで、抽象画の魅力が少しずつ見えてきます。
また、抽象画は距離を変えて見るのもおすすめです。遠くから見ると全体の構成が見え、近づくと絵具の質感や筆跡、色の重なりが見えてきます。大きな作品の場合は、画面の前を少し移動しながら見ることで、色や形の響き方が変わって感じられることもあります。
抽象画は、ひとつの正解に閉じない絵画です。見る人の経験や気分によって、明るく見えたり、静かに見えたり、緊張感を感じたりします。その自由さこそ、抽象画の大きな魅力です。
抽象画はなぜ人気があるのか
抽象画が現在でも人気を持つ理由の一つは、見る人に自由な余白を残してくれるからです。風景画や人物画では、描かれている対象が比較的はっきりしています。一方、抽象画では、色や形を手がかりにしながら、見る人が自由に感じ取ることができます。
また、抽象画は現代の空間と相性が良い表現でもあります。住宅、ホテル、カフェ、オフィスなど、さまざまな場所で抽象的な作品が飾られるのは、具体的な物語を限定しすぎず、空間に自然に溶け込みながら印象を生み出せるからです。色彩の美しさ、構成の心地よさ、余白の静けさは、現代のインテリアやデザインとも深くつながっています。抽象画は、美術館で見る名作であると同時に、日常の空間を豊かにする視覚表現でもあります。
抽象画と現代デザインへの影響

抽象画は、美術館のなかだけに存在するものではありません。現代のロゴ、ポスター、広告、建築、家具、ファッション、ウェブデザインなどにも、抽象画の感覚は広く生きています。
モンドリアンの水平線・垂直線・三原色による構成は、デザインやファッションに大きな影響を与えました。1965年にイヴ・サンローランが発表した「モンドリアン・ドレス」は、絵画とファッションを直接結びつけた象徴的な例として知られています。カンディンスキーの色彩と形の響きは、グラフィック表現や視覚的なリズムを考えるうえで重要な手がかりとなっています。バウハウスでの教育活動を通じて、彼の理論は20世紀のデザイン教育の基盤にもなりました。
抽象画を知ると、日常のデザインを見る目も変わります。街のポスター、建物の窓の配置、インテリアの色合わせ、ウェブサイトの余白などにも、色・線・形の構成があることに気づきます。抽象画は、現代の視覚文化を理解するための入口でもあります。
日本で抽象画を見るなら
日本でも、近代美術館や現代美術館で抽象画を見る機会があります。20世紀美術を扱う美術館では、具象から抽象へ向かう流れや、日本の画家たちが抽象表現をどのように受け止めたかを知ることができます。
東京国立近代美術館では、日本近代美術の流れのなかで、抽象的な表現を含むさまざまな作品を見ることができます。日本でも、岡本太郎、白髪一雄(具体美術協会)、堂本尚郎、村上三郎ら、戦後の前衛抽象画家が独自の表現を切り拓きました。国立西洋美術館では、印象派から近代絵画へ向かう流れを知ることで、抽象画が生まれる背景を理解しやすくなります。






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