国宝「秋萩帖」の展開―多くの書家に愛された草仮名の名品/イチノセイモコのアートコラム06

秋萩帖第1紙

国宝「秋萩帖(あきはぎじょう)」とは

「秋萩帖」の内容


「秋萩帖」(東京国立博物館蔵)は平安時代に流行した、やわらかく優美な書風による、草仮名の遺墨です。巻頭の和歌の書出し「安幾破起乃(あきはぎの)」にちなみ、この呼び名で親しまれてきました。
筆跡と料紙の美しさから、日本の書の歴史のなかでも特に有名な作品です。

巻子状の「秋萩帖」は20枚の料紙が継がれており、筆者は第1紙が小野道風、第2紙以下は藤原行成と、いずれも和風の書体に秀でた人物と伝えられますが、諸説あるようです。

内容は、前半の第1紙から第15紙に和歌48首が書写され、後半の第16紙から第20紙に「書聖」と呼ばれた王羲之(おうぎし)(中国・東晋時代/4世紀)の書状が11通、写されています。
また、第2紙以降の裏(紙背)は、中国・唐時代の書体による「淮南鴻烈兵略間詰第廿」の写しです。「淮南鴻烈兵略間詰」は、『淮南鴻烈(わいなんこうれつ)』または『淮南子(えなんじ)』とも呼ばれる、紀元前140年頃の中国で成立した思想書の注釈のことです。

平安時代における書の変化

つまり、「秋萩帖」にみられる書風は、4種類あります。王羲之や紙背にみられる唐様(中国風)の書体があり、これが日本へ伝わったのち、唐様を学んだ小野道風・藤原行成らによって和風の書体が開発されました。
「秋萩帖」に書かれたやわらかい草仮名は、平仮名の前身です。漢字の表音文字としてもちいた万葉仮名の草書体から、平仮名へ移行する過渡期をみることができます。
秋萩帖には、平安時代の書体が唐様から和様へ変化するようすが示されているのです。

伏見天皇が愛した書

料紙の継ぎ目の裏には、鎌倉時代の伏見天皇(1265~1317)の花押があることから、歌道に造詣の深かった天皇に愛蔵されていたことがわかります。
江戸時代には、同じく歌道を愛した霊元天皇(1654~1732)に伝わり、その後、血族であった有栖川宮家、高松宮家へ移ったのち、現在、東京国立博物館の収蔵となっています。

巻子なのに「帖」?

「秋萩帖」は巻子の形態にもかかわらず、呼び名に「帖」がついています。「帖」は帳面や、印刷物による手本という意味ですが、なぜこのように呼ばれるのでしょうか。
その理由は、江戸時代に多様な墨帖が刊行され、帖形式の手本として、庶民に至るまで広く普及していたためです。

秋萩帖第13、14紙

江戸時代に普及した秋萩帖

書道への情熱

江戸時代半ばに明から黄檗宗(おうばくしゅう)が伝わると、黄檗僧が書いた大らかで力強い唐様の書が人々に愛好され、北島雪山(1636-97)らによって定着します。

時代が下って18世紀中頃を過ぎると、国内の学者(書家)による古典の学習熱が高まりました。当時、御物であった「秋萩帖」は、18世紀半ばごろまでに宮廷に近い人物によって写し取られたと考えられています。
その後、書風を伝えるものから、そうではないものまで、多様な墨帖(法帖)が作られました。

20種近くあった秋萩帖の墨帖

墨帖を刷る技法は、文字を陰刻した版木に紙を置き、拓本を採るのと同じ方法が一般的でした。
文字を版木に彫る前には、原本の選択、双鉤(文字の上に薄紙を置き、輪郭だけを線で写し取ること)などの手順があります。墨帖の和刻には、内容はもちろんのこと、書のかたちや書きぶりを伝えるための方法が模索されました。

江戸時代に和刻された秋萩帖は、書の手本として多くの人に求められ、幕末までに20種近くが存在しました。その中には、国宝の書風からかけ離れた御家流(おいえりゅう)の書体で作られたものまであったそうです。

墨帖のバリエーション

20種近くもあったという秋萩帖の墨帖は、さすがにバリエーションが豊富です。
前半の和歌だけを掲載したもの、それに後半の王羲之の手紙の部分を付け加えたもの、さらに藤原行成が写した別の書が王羲之の手紙に続くものと勘違いされて付け加えられたものなどがあります(藤原行成は王羲之も学んだため)。

名筆の実物を直接、見られないことが、かえって人々の憧れを強めました。学者たちは、研究の結果をできる限り反映し、秋萩帖の本来の姿を再現しようとしました。
一方で、庶民の需要に応じて手習いの題材とされたことも相まって、墨帖はバリエーション豊かに展開したのです。

幕末・明治の志士たちの書

勝海舟、西郷隆盛、木戸孝允といった幕末~明治初期に活躍した人物の書は、現在に多く伝わっています。どれも立派で堂々とした書きぶりですよね。
彼らがそのような書を書くことができた理由は、漢文で教育をうける中で、手づから手本となる書を写し、和歌や漢詩をつくる伝統的な文芸に親しんだからです。

一方で、清から考証学による古代書(石碑に彫られた文字)の研究成果がもたらされると、日下部鳴鶴(1838~1922)などの書家たちが六朝風とよばれる新しい書風を誕生させました。

このように国内で展開した書は、その折々で中国から伝わった書風や、書体研究の成果を取り入れることにより、新たな文化として定着したのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました