日本画家 穴澤和紗さんにインタビュー

人気日本画家の穴澤和紗さんに、福福堂の編集部がインタビューをしました。それではさっそくお楽しみください!

絵の面白さと出会ったレオ・レオニさんの「あおくんときいろちゃん」

――こんにちは、本日はよろしくお願いいたします。穴澤さんと絵との出会いからお聞かせいただけますか?

 保育園に通っていた頃から絵を描いていました。当時はもちろんまだ日本画ではなくて、クレヨンを使って絵を描いていましたね。

絵が好きだった幼少時代。七五三の時の写真。

――絵を描き始めたきっかけが何かおありなのですか?

 描き始めたきっかけと言いますか、絵の面白さを認識したきっかけがあるんです。母が買ってきてくれたレオ・レオニさんの「あおくんときいろちゃん」という絵本です。あおくんときいろちゃんが合わさった時に嬉しくて緑色になるのですが、「緑色はうちの子じゃない」と両親に言われて悲しくて泣いてしまうんです。描かれているのは人でも動物でもなくただの「まる」。表情も読めないはずなのに感情が伝わる不思議な体験をして、絵の面白さと出会ったことが絵に目覚めたきっかけですね。

――へえ。ではそれからは小学校・中学校でも絵を続けられたのでしょうか。

 中学時代は美術部ではなく漫画研究会でした。美術部があまり活動していなくて。私もイラストを描くのが好きでしたし。しかし漫研に入ってはみたものの、当時流行りの漫画があまり自分にはなじまなくて「私のやりたいのはこういうのじゃないかもなぁ」と感じるようになりました。その一方で美術の授業は、先生が褒め上手だったということもあってとても面白かったんです。私自身も美術が好きだったものですから「高校は美術コースのある学校に行こう」と決めたんです。
 受験には実技課題がありました。「自画像を4~6時間で描きましょう」というものです。その時には先生が親身になってくださり、夏休みも返上で美術の特訓をしてくださったんです。たいへんお世話になりました。

――どんな特訓を?

 入試課題よりもひと回り大きな紙(木炭紙大~B1くらい)に自画像を描く練習です。何枚も何枚も描きました。中学時代の我が家では「画塾に通う」という選択肢が取れなかったものですから学校の先生に特訓していただいたんです。もちろん帰宅してからも自主的に何枚も描きました。そうして高校に合格することができました。

――特訓が苦にならないほど絵が好きだったんですね。

 そうですね。美術が好きでした。もしかすると勉強が苦手だったからとも言えるかもしれませんが(笑) 「絵を描くことで受験の道を切り開けたらいいな」という気持ちがあったのかも。

――ところで穴澤さんは今も美人画を描かれますが、その自画像特訓の影響でしょうか?

 私がいま人物画を描く時は、私ではない方をモデルにしているんです。自画像はもう中学時代に存分に描きましたのでお腹いっぱいです(笑) 今は定期的にモデルさんにお願いして描いています。自分以外の方、美しい方を描くときは自由にのびのびと描けますから圧倒的に楽しいですよ。

「蒼く・椿」F4号(333x242mm) 、日本画、穴澤和紗

「しっくりきた」高校時代に日本画の道へ

――そうでしたか。本格的に「画家」を目指し始めたのはいつ頃ですか?

 中学時代はイラストレーターか声優さんになりたかった記憶があります。なぜ私が「声優さん」を志したのか今では思い出せないのですが。中学時代の夢を記した文集は残っていると思うのですが怖くて読めません(笑)

 「画家」を志したのは高校時代からですね。画家を生業にするという具体的なイメージは全くありませんでしたが「働きながら絵を描き続けていくだろうな」と、ぼんやり将来のことを考えていました。

メディア取材を受ける穴澤さん。現在は「画家」として全国の百貨店で展覧会を開いている。

――高校の「美術コース」では、どんな勉強や制作されたのでしょうか。

 私は都立片倉高校の造形美術コースに通いました。高校1年次にファインアートとデザインを全般的に学びました。2年次にそのどちらかを選択して授業が分かれます。3年次になると例えばファインアート系だったら「油彩画」「日本画」「彫刻」から専攻を選んで一年間勉強します。私はファインアート系の「日本画」を選択しました。

――ああ、高校時代に日本画を専攻されたのですね。

 そうなんです。色々な技法に挑戦してみたんですが「日本画」が一番しっくりと来たんです。感覚的な理由でなんだか申し訳ないですが…。
 「彫刻」よりも平面作品が自分にはしっくりきましたし、水を使って筆で描く「水彩画」には小学生の頃から親しんでいたものですから「日本画」がすっと受け入れやすかったんです。
 とはいえ、選択した段階ではまだ「日本画」ではどんな画材を使うのかという知識はほとんどありませんでした。高校3年の1年間で日本画の基礎的なことを学びました。和紙・墨・岩絵具など、自然のものから作られている画材で絵を描くという行為自体にとても魅力を感じました。その頃にはすっかり私は「大学も日本画を学べる学校を探そう」と考えるようになっていました。

苦しかった5度の藝大受験失敗と、予備校代のためのアルバイト生活

――良い高校に行かれたんですね。将来の道を選ぶうえで色んな技法をまず経験してみることは大切ですものね。その後、大学は東京藝大を受験されたのでしょうか?

 はい、現役を含め5度受験しました。

――5度も!受験予備校には通われていたのですか?

 はい、通っていました。5度受験したのですが、合格は叶いませんでした。最後の3浪・4浪あたりは夏くらいまでアルバイトして予備校代を稼ぎました。家にもあまり迷惑をかけられませんので…。それで夏頃から美術の予備校に通ったりしていたように思います。

――予備校代を稼ぐためにアルバイトをしていたんですね。ちなみにどんなアルバイトを?

 はい学費を稼ぐためにアルバイトをしてきましたね。後の通信制大学時代も含めると色んなアルバイトをしましたよ。喫茶店や牛丼屋さんのアルバイト、ホテルの配膳、和食とイタリアンのお店など。『まかない付き』だと助かるんです(笑) 一番つらかったのは夜勤でのペットボトル工場でしたね。起きていられなくて立ったまま眠りそうになっちゃうんですよ(笑) 「私に夜勤は向いていないみたいだ」ということを学びましたね…。
 ホテルの配膳アルバイトは、結婚式やディナーショーなどがあって実は楽しかったです。ドアの開閉係になると、歌手のステージをずっと正面から見られるんです。ホテルの方から「特等席だったでしょう。じゃあ2万円ね!(笑)」と冗談を言われました。

――役得でしたね。ははは。

 あと思い出に残っているのは、小売店でのレジ。店長さんに「レジ前のこのチョコレートを売って欲しい」と言われて、私が並んでいるお客さんにレジの度に話しかけたらたくさん売れた時があってささやかな達成感がありました。
 下町感やアットホームな雰囲気があるお店でしたので、店長さんに会いに来るお客さんもいたりして。親しみを持っておすすめした商品を買ってくれる関係性というものがあるんだと、今では何となく分かるような気がします。

――振り返ってみると接客業が多かったのですね。

 そうですね。人と接するアルバイトをしてきたおかげで、いま展覧会場でお客様に接する時に自然体で望めます。アルバイト時代は大変でしたが、その経験が役に立っているように思います。

――遠回りしたようで、良い経験だったのかもしれませんね。このインタビューは画家志望の若い方も見ていらっしゃいますのでお尋ねしたいのですが、美術予備校での授業とはどんなものなのでしょうか?

 試験対策として石膏像を描くこともありましたし、「細密着彩」といって花や自然物の魅力的な形を観察し、実際の大きさで納得するまで描く課題もありました。楽しく充実した時間でした。
浪人生は主に昼間に描くのですが、私は夕方以降も居残りをしまして高校生の子たちの横で自主練をしたりしていました。
 先生や同期の子、先輩なども尊敬できる方も多くて、絵を描くことの基礎をここで沢山学んだように思います。絵にはやはり技術も必要で、今の私にとってこの浪人時代はとても大切な時間だったんだなあと思います。
そういった日々の中で自分の絵を描く力も段々ついてきて、「もう自分の絵を描いてみたいな」と思うようになってきました。浪人している時も美術館へ行ったり、画廊で様々な画家の作品を観たりする中で「受験だけが選択肢じゃないな」と段々思えてきました。お金もないし、浪人4年の年に落ちたときには「もう沢山やってきた。後悔もない。」そう思いました。
 それで働きながら通える武蔵野美術大学の通信課程へ通うことを決めたんです。

――浪人時代とはいえ、充実した時間を過ごされたのですね。

 はい。ただ、こと受験に関しては4年も不合格が続いたものですから、どうしたってネガティブになっていましたね。同級生たちはもう大学を卒業して社会へはばたく時期なのに、私はまだ浪人をしているのですから…。暗黒期でした(笑)

 今では多少明るく話せるようになりましたが当時は毎年泣いては落ち込んでいました。「自分は社会にいて良いんだろうか、生きていて良いのか?」という気持ちも味わいました。その一方で、それだけ真剣に打ち込むことの大切さや根性はこの時代に得ることが出来たと思います。

「作品を通じてお客様や社会と交わることで救われた」

――いまは画家として銀座三越でも立派に個展をできるようにもなりましたね。浪人当時のご自分に合えたら伝えたいメッセージはありますか?

 「大丈夫だよ、なんとかもがきながら続けられているよ」と伝えてあげたいです(笑) 浪人時代が4年間と長かったものですから学歴コンプレックスがなかなか拭えず、画家活動を始めてからも根強くありました。しかし個展やグループ展で活動できるようになった頃から、もうあまり気にしなくなっている自分がいました。「自分の絵を通じてお客様との御縁が生まれ、社会と交わることができている」という経験が増えてきたからこそ、当時のような「自分は社会にいて良いんだろうか、生きていて良いのか?」という気持ちと決別できました。受験時には苦労しましたが、その後は絵が人生を良い方向へと変えてくれました。

――さて大学へ進んだのちのお話に入ります。大学時代の穴澤さんの作風はどんなものだったのでしょうか。

 大学生の頃、私は抽象画を描いていました。街の画廊で出会った作品と画家さんに憧れて抽象画を始めたんです。今の画風とは全く違う画風でした。その作家さんの仲間に加えていただき銀座の貸し画廊で一緒にグループ展をしたこともあります。大学時代の頃はそんな感じの展示活動をしていましたね。美術団体の公募展にも1度だけですが応募して入選しました。

――抽象画だったのですね。初個展を開いたのも大学生の頃でしょうか?

 初個展を開いたのは大学を卒業してからです。まだまだ実力不足だった私の大学時代の作品では、歩合制の企画画廊では取り扱ってもらえません。それでも個展を開きたいと思ったら自分でお金を貯めて貸画廊を借りるしかありませんでした。プロの画家になるにはそうやって個展を開いて一般のお客様やコレクターの方に絵を買っていただくか、画商さんと出会って道を切り開くしかないんですよね。

 私の描く「日本画」は金や岩絵の具を使いますので画材が特に高いです。画学生にとって画材・学費・生活費の他に貸画廊を借りるお金を工面しなくてはなりません。お金の面では苦労しましたね。私は貸画廊主に相談をしまして、学割の利く学生時代のうちに会場予約だけさせてもらいました。大学卒業後に働いてお金がたまるまで会場費の支払いを猶予してもらうわけです。そうやって周囲の方々に協力していただけたお陰でようやく初個展を開くことができました。

表現に悩みながら制作した卒業制作で優秀賞を受賞(左:「鱗」、右「かぶく」S100号サイズ、2014年3月上旬。) 点描で描いた人物のクロッキーの形を再構成し、大きい顔を描いている。どんな表現だとしても「人」を描きたいという気持ちは今も変わらないと穴澤さんは語る。

――初個展でのお客様の反応や収穫はいかがでしたか?

 少しだけでしたが、作品が認められ売れて嬉しかったです。しかし当時の私はまだ作風が定まっておらず苦しんでいました。学生時代は日本画の色あざやかな岩絵具の魅力に引き込まれるあまり、必要以上に絵の具を厚塗りして“自分が絵の具に遊ばれている感覚”を持っていました。卒業してからは今度は絵の具を削ぎ落としてみたり、色から離れようとモノクロでの表現に近づいてみたりして悪戦苦闘しました。

――卒業制作は優秀賞を受賞されていましたね。

 ありがたかったです。しかしそれでもなお、私の暗中模索は変わりませんでした。大学卒業後はお金を貯めて個展を開く活動を続けました。1、2点くらいは認められ売れるのですが、自分はこの方向性でいいのか、何が描きたいのか悩んでいました。このままずっとこの方法で続けていくべきなのだろうか、と悩んでいました。

――プロ画家への道は険しかったのですね。

 はい。ちょうどその頃にアートソムリエの山本冬彦さんがFcebookでご紹介されていたのが「福福堂のアートマネージメント講座」だったのです。藁にもすがる思いで参加しました。

――そうだったのですね。

 プロデューサーに教わりながら百貨店でのグループ展に参加し始めました。その中で画家として必要な素養を身に着けながら、一方で作品の内省や試行錯誤を重ねるうちに少しずつ成果が出始めたんです。自分自身でも「徐々にプロに近づいて来たかな…」と意識が変わっていきました。3,4年経った頃、百貨店のグループ展から「昇格」という形で個展を開くことができました。個展では多くのお客様に喜んでいただくことができました。ようやく「やっと一人前に、プロとして多少胸を張って活動できるかな」と感じました。

個展会場で来場者に作品解説をする穴澤さん。

「画家はお客様から喜びや気づきをいただいています」

――プロの画家の道を歩み始め、努力が実り始めたのですね。素敵なお客様と出会われたんですね。

 そうです。ありがたいことです。遠方で開かれた展覧会パンフレットに載っていた私の女性画を見て、なんと1年後にホームページから「病院に飾る絵を描いてほしい」というお問い合わせを頂いたことがあります。遠い地方にお住いのお医者様でした。私にとって初めての出来事でした。

 お手紙やお電話を通じて小下図の段階から本画までの工程を描き、最終的に4点ほどを制作いたしました。その後、その遠方にお住いのお客様と直接お会いすることもできました。さらに私の描いた絵が飾られている所も見せていただけました。東京から遠く離れていても、絵を通じて人とつながることができるんだという体験でした。そのお医者様からさまざまなお話を聞かせていただくことができ「絵を通じて私が社会に貢献できるかもしれない」と実感することができました。そしてそのお客様は今でも私の画家活動を暖かく見守ってくださっています。その経験は今も私にとって貴重な財産となっています。

――画家冥利に尽きますね。うれしい体験でしたね。

自ら道を選び打ち込む人の「きらめき」を描く。『咲くこころ』P4号(333x220mm)、日本画、穴澤和紗。

 また別のお客様とのお話なのですが、こんなご注文をいただきました。一時ご病気をされて入院されていた時期にお世話になった看護師さんのお名前が星にまつわるお名前だったそうで、「看護師さんと星のイメージで絵を描いてほしい」とおっしゃられました。「看護婦さんはマスクしていて目元しか分からなかったから、あなたの描く女性で自由に描いて良いから」という事でした。私は描きたくて、お客様自身のことを想いながら祈る様に制作しました。完成した絵をお持ちした際に、お客様がちょっぴり目に涙を浮かべながら喜んでくださったことが忘れられません。

 私はどんな場所での展示でも個展では必ず在廊するように努めています。お客様と直接お会いしてお話しする事がとても貴重だからです。どのお客様とも大切な想い出があるので語り尽くせません。お客様が私の絵を飾って楽しんでくださっているのと同じように、私もお客様から喜びや学びや気づきをいただいています。これからもその出会いへの感謝を込めながら、煌めくような絵を描いていきたいと思っています。

「日常の些細なことに煌きの瞬間はある」

――現在の穴澤さんが描かれる題材は「花」、とりわけ「牡丹」や「桜」ですね。何か理由がおありなのでしょうか。

 花を題材に描くこと自体、昔から好きでした。牡丹は豪華で「百花の王」とも呼ばれる花です。花弁の抑揚を描写するのが楽しく、作家視点の良さを発揮できる花だと思っています。西新井大師の牡丹園や上野東照宮の牡丹苑へは毎年取材に行っています。2022年には初めて、牡丹の名産地として有名な島根県の大根島へも取材に行くことができたんですよ。

――遠くまで行かれたのですね。島根の牡丹苑はいかがでしたか?

 2 泊 3 日で行ったのですが、1日目は晴れたのに、2日目は土砂降りの雨になったのです。「取材できる最後の日なのに」と、がっかりしたのも束の間、大粒の雨に打たれながらも強く咲く牡丹を見た時に「百花の王」牡丹の気高さを知りました。

雨が上がると蛙が牡丹の上に座っていた!「華の涙―雨上がり―」F8号(380x455mm)、日本画、穴澤和紗
桜の木の下で。

――土砂降りのお陰で貴重な経験ができたんですね。穴澤さんは牡丹だけでなく「桜」も描かれますね。

 はい。桜は日本で古くから愛されている花です。桜は多くの方々と共に思い出を語り合えるモチーフです。誰しもが家族や大切な人と桜の下を歩いたことがあるのではないでしょうか。咲く期間が短く散る姿も美しいので、私の作品のテーマでもある「煌き(きらめき)」を素直に表現できる花だと思っています。

――穴澤さんの描く作品からはどこか儚さと色香が感じられます。短い命で散り際まで美しい花を捉えているから、そう感じるのかもしれませんね。

「花灯り」F8号(455x380mm)、日本画、穴澤和紗
「風澄む桜」P6号(273x410mm)、日本画、穴澤和紗

 桜を描く際は、澄み切った空の青さと併せて描くことが多いです。「青」には青春という意味も込めているんです。儚さを併せ持つ言葉です。私は2024年に恥ずかしながら年女で36歳になります。暗い4浪生活もしましたし、学費や画材のためにアルバイトもしました。青春なんてキラキラしたものとは縁のない人生を過ごしてきました。しかし日常の些細な事にも煌きの瞬間はあって、日々美しく感じる事ができます。それを青春と捉えて希望を見出しています。桜とともに青空はこれからも描き続けるであろうモチーフです。

――穴澤さん、今日はありがとうございました!個展を楽しみにしております。

<了>

(インタビュアー:福福堂 編集部)

作品解説「春宵の瞬き」

『春宵の瞬き』
穴澤和紗
日本画、P20号(727x530mm)、額装済

 

古里で祖父や祖母とともに何度か花見をしました。他愛もない話しかしていないけれど、みんなが喜んでいたことは覚えています。上野公園で家族や大切な人と桜の下を歩いたこともある。たった2週間足らずしか楽しめない桜ですが、咲き誇る桜を見ると様々な思い出が蘇りますね。穴澤和紗さんの桜を見るとその煌めき(きらめき)が蘇ります。

(解説:福福堂 編集部)

プロフィール

穴澤和紗 Kazusa Anazawa

1988年 千葉県船橋市生まれ
2014年 武蔵野美術大学造形学部通信日本画コース 卒業 (卒業制作 優秀賞)

2016 年
グループ展 伊勢丹浦和店(埼玉)
グループ展 阪神梅田本店(大阪)
グループ展 松屋銀座(東京)
2017年
グループ展 たまプラーザ東急(神奈川)
グループ展 福屋八丁堀本店(広島)
グループ展 伊勢丹浦和店(埼玉)
グループ展 阪神梅田本店(大阪)
2018年
グループ展 福屋八丁堀本店(広島)
グループ展 伊勢丹浦和店(埼玉)
グループ展 阪神梅田本店(大阪)
2019年
3人展 東武百貨店 船橋店(千葉)
グループ展 福屋八丁堀本店(広島)
2020年
穴澤和紗 日本画展「常初花の空」ちばぎんひまわりギャラリー(東京)
穴澤和紗 日本画展「常初花の風」阪神梅田本店(大阪)
2021年
穴澤和紗 日本画展「花咲みの時」福屋八丁堀本店(広島)
穴澤和紗 日本画展「はなえみのそら」東武百貨店 船橋店(千葉)
2022年
穴澤和紗 日本画展「華の声色」 伊勢丹浦和店(埼玉)
3人展 静岡伊勢丹(静岡)
穴澤和紗 日本画展「天高く、華」 阪神梅田本店(大阪)
2023年
穴澤和紗 日本画展「冴え返る日々」 福屋八丁堀本店(広島)
穴澤和紗 日本画展「瑞風、薫る」 伊勢丹浦和店(埼玉)
穴澤和紗 日本画展「空の花の夢」 東武百貨店 船橋店(千葉)

◆穴澤和紗 Youtube

日本画家・穴澤和紗のyoutubeチャンネルです。 主に作品や、作家活動の内容を動画で紹介しております。

穴澤和紗 ANAZAWA KAZUSA
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◆穴澤和紗 ホームページ

anazawakazusa.wordpress.com

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