ふたつの「冷血」を読んで

ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルが若い頃、熱烈なファンだったのがトルーマン・カポーティだ。カポーティと言えば日本では「ティファニーで朝食を」で有名。ウォーホルはファンレターをたくさん出したり、カポーティの実家に押しかけるなどして、実質ストーカーだったそう。
そのカポーティの書いたノンフィクション小説「冷血」と、日本が誇る知性派女史 髙村薫が書いた「冷血」を読んだ。

1 カポーティの「冷血」

カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル――。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。
(新潮社のサイトより https://www.shinchosha.co.jp/book/209506/) 
1965年 617頁 

小説は被害者となるクリッター家の日常生活の描写で始まる。
明るい家族。夫人だけは気鬱で寝込みがちだったが、しっかりした長女と成長期の長男、誰からも尊敬を集めるクリッター氏の四人家族は、カンザス州ホルカム村では有名な豪農だった。しかしその贅に溺れることなく敬虔なプロテスタント教徒であり質素堅実な暮らしをしており、人からやっかまれることもあまりなかった。
犯人側は共に前科持ちの二人。高IQで容貌も悪くなく家族の愛情にも恵まれたが、人生を段々踏み外していったヒコック。そしてやはり知性があったが、脚と家族に問題を抱え神経質なスミス。
二人はロードムービーのごとく旅をしながら犯罪を重ね、ついにクリッター家でやる必要もない凶悪な事件を起こし、捕まるまでまた犯罪をし続けた。そのアメリカっぽいノリとやっていることの残忍さがマッチしない。
カポーティは実際に起ったこの事件を丹念に取材を重ね、犯人二人が絞首刑になるのを待ってから出版した。今で言うドキュメンタリーノベルの先駆けとして大反響を生んだ小説だった。

2 髙村薫「冷血」

カポーティの「冷血」に対するオマージュ、もしくはインスパイアされて書いた渾身のフィクション。カポーティのものと構成が似ている。

クリスマスイヴの朝、午前九時。歯科医一家殺害の第一報。警視庁捜査一課の合田雄一郎は、北区の現場に臨場する。容疑者として浮上してきたのは、井上克美と戸田吉生。彼らは一体何者なのか。その関係性とは? 高梨亨、優子、歩、渉――なぜ、罪なき四人は生を奪われなければならなかったのか。社会の暗渠を流れる中で軌跡を交え、罪を重ねた男ふたり。合田は新たなる荒野に足を踏み入れる。
(新潮社のサイトより https://www.shinchosha.co.jp/book/134725/ ) 
初刊2012年 上下598頁(二段)

こちらも、裕福で幸せに溢れた歯科医の四人家族が一夜にして惨殺される。育ち盛りの子供まで殺されるのもカポーティと同じ。犯人の井上と戸田は闇の求人サイトで知り合い、急ごしらえのバディを組んでATM強奪やコンビニ強盗を重ね、ついには凶悪な四人殺しの罪を犯す。被害者の歯科医家族は裕福だが自宅に現金があまり無いことは最初から分かっていたが、二人は徐々にこの家に執着した。被害者の歯科医に遭遇したこと、子供が私立の学校に通っていること、ちょうど泊りがけでディズニーランドに行くので留守になるようだということ、そういったことの積み重ねで二人はこの家に侵入しなければと思うようになっていった。
犯人の二人は、やっていることの非情さに比べて、敬語を使いお互いの約束を守る妙に律儀な態度がアンバランス。割とあっさり二人が警察に捕まってからが、この小説の真骨頂になる。

3 二つの「冷血」に共通すること

もともと髙村薫はカポーティに触発されて書いているので、この二つの「冷血」に共通することは多い。特に気になったのが下記である。

<比較的高IQの犯人>
どちらの「冷血」においても犯人は揃ってIQは割と高め。カポーティ版の犯人であるヒコックとスミスも、そして髙村版の犯人である井上と戸田も、高IQにも関わらず高等教育には進んでおらず、いつの間にか人生を踏み外し、全員前科がある。

<スミスと戸田は身体に問題を抱えている>
スミスは脚に問題があり、戸田も歯に障害と言っていいほどの問題を抱えている。精神は相方に比べれば少しまともだが、この障害と救いがたいほどの孤独が、どこか投げやりな人生に陥らせている。

<ヒコックと井上は精神気質に問題を抱えている>
ヒコックは先天的か後天的か分からないが、深刻な性格異常(サイコパスかもしれない)だった。対して井上は未診療の重度な躁鬱で自身をコントロールできない。しかしこの二人を大切に思う家族がいることは共通している。

二つの「冷血」は、病的な一人に引っ張られて、もう一方も重大な犯罪を犯すという構図が一緒である。比較的まともな方のスミスと戸田は、救いがたい孤独を相方と一緒に犯罪を行うことによって埋めようとしていたように思われる。しかしそれほど相方に対して友情を持っていたわけではない。これまでの人生で、他に相手にしてくれる人がいなかっただけなのだ。
そして全員が犯行自体を殆ど後悔していない。自分が絞首刑になるのは嫌だが、被害者に対する罪悪感や良心の呵責というものは無い。ヒコックはサイコパス気質的な観点から己の運命にしか興味が無い。井上は躁鬱の暗い闇の中におり厭世的。スミスは「虐げられてきた自分の運命のツケを被害者一家が被ったのだ」と考えており、戸田は「井上と一緒に犯罪しながら動き回っていたあの一週間が、自分にとっての最初で最後のクリスマスであり後悔していない」とまで言っている。

4 二つの「冷血」の違い

<作品に感じる湿度>
感覚的なものだが、湿度が違った。カンザスの乾いた空気から感じる空疎な雰囲気のカポーティ版に対して、東京北区で発生する事件は湿度を含んだ空気感を漂わせ重くのしかかる。

<事件全体を俯瞰して見る人>
カポーティは己は黒子に徹していたように思える。終盤、犯人と定期的に接触するジャーナリストとして最小限だけ出現していたが、物語全体としては著者としての視点は極力出さないようにしていたと思う。これはカポーティが犯人の一人スミスの境遇に自分を重ね過ぎたので、かえって引き締めたためかもしれない。
対して髙村版は、刑事である合田の眼を通して犯人二人を倫理、精神医学、哲学、また時には宗教的な観点から分析し憐憫の情を表している。

<犯人の知性>
カポーティ版の犯人の知性については、日本人の私には今ひとつピンと来なかった。それに対して髙村版の犯人の一人井上は(高等教育が無いにも関わらず)、獄中で「利根川図志」や「北越雪譜」を読んだりする知性を見せた。戸田は映画や工芸に対し鋭い美意識と感受性を見せた。
通常、粗暴犯はIQがそれほど高く無い場合が多い。一般的にIQが高いと社会的に成功する可能性が高く粗暴犯にはあまりならない。しかしいくつかの理由により粗暴犯になってしまうことがあるらしい。例えば社会的に孤立していたり、何らかの精神疾患を持っていたり、あるいは社会に対して恨みを持ったり被害者意識を抱いていたり、倫理観が育っていなかったり・・・・。井上と戸田はその全てに当てはまる。

5 読後感

カポーティが実際にある事件を徹底取材して「冷血」を書いたのに対し、髙村薫はフィクションで著した。正直、アメリカの犯人二人は日本人とカルチャーが違いすぎて、私には親近感を感じられなかった。髙村薫の描いた犯人二人は、現代社会の闇に落ちたような暗くウェットな影を漂わせていた。血なまぐさい凶行を起こしたその同じ人物が知性と感性という光を見せたとき、もっと彼らの境遇が異なっていたら、運命の歯車が違っていたら・・・・と、よりやるせない読後感が残った。

(ライター晶)

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