ムンクの『叫び』は、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863–1944)が1893年に世に送り出した、世界でもっとも有名な絵画のひとつです。血のように燃え立つ夕空のもと、橋の上に立つ骸骨のような人物が両手を耳に当て、ぐにゃりとうねる風景のなかで身を震わせています。この一枚は1893年12月のベルリン個展で発表されて以来、ホラー映画、雑誌の表紙、政治風刺漫画、そして現代のスマートフォン絵文字「😱」にいたるまで、近代以降の視覚文化のいたるところに引用されてきました。それでも、私たちは本当にこの絵を「見ている」と言えるでしょうか。
「ムンクの叫び」という呼び名のもとに想起される強烈な顔のイメージは、しばしば「怖い絵」「叫んでいる人の絵」として片付けられてきました。しかしムンクが画面に書き留めようとしたのは、悲鳴を上げる一個人の姿ではありません。彼が描いたのは、19世紀末の近代都市に生きる人間が、群衆のなかでふと感じてしまう底知れない孤独、そして自然そのものが揺れ動いて見える瞬間の、精神の風景でした。近年のムンク研究は、いっそうこの解釈を深めています。それと同時に、北欧の気象学者たちの研究が、画面の赤い空に隠された自然現象の手がかりまで突き止めようと試みてきました。世紀末ヨーロッパの不安、近代都市の孤独、そして自然科学と精神医学の交差点——『叫び』はこの全てが凝縮した、まさに「世紀末絵画の結晶」なのです。世紀末美術の全体像については象徴主義とは|モロー・ルドン・ムンクから世紀末美術をわかりやすく解説もあわせてご覧ください。
なお、「ムンクの叫び」と総称される作品はじつは一点ではありません。ムンクは1893年から1910年にかけて、油彩・テンペラ画2点、パステル画2点、そして1895年のリトグラフ1点の、合計5つのバージョンを残しました。本記事で中心的に扱うのは、これらのなかでもっとも有名な、1893年に厚紙に油彩・テンペラ・パステルで描かれた、オスロ国立美術館(Nasjonalmuseet)所蔵の決定版です。

| 作品名(日本語) | 『叫び』 |
|---|---|
| 原題(ノルウェー語) | Skrik |
| 初公開時のタイトル | Fortvilelse(「絶望」) |
| ドイツ語タイトル | Der Schrei der Natur(「自然の叫び」) |
| 英題 | The Scream |
| 作者 | エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日〜1944年1月23日) |
| 制作年 | 1893年 |
| 技法 | テンペラ、油彩、パステル、クレヨン、厚紙 |
| サイズ | 91×73.5cm |
| 所蔵 | ノルウェー国立美術館(オスロ、Nasjonalmuseet) |
| 初公開 | 1893年12月 ベルリンのウンター・デン・リンデン画廊(個展「絶望(Fortvilelse)」連作の最終作として) |
| 連作位置 | 「生命のフリーズ(Livsfrisen)」 |
ムンクの叫びとは何か──画面のなかで本当に叫んでいるのは誰か
『叫び』には、欄干のある橋の上で両耳を押さえる人物が描かれています。背後の空は燃える血のように赤く染まり、フィヨルドの水面は黒く沈み、画面全体が大きな波となってうねっています。一見すると「叫んでいる人物」を描いた絵に見えますが、ムンク自身が残した手記を読むと、この理解は決定的に書き換えられます。手書きの覚書のなかでムンクは、次のように記しています。「私は二人の友人と道を歩いていた。日が沈みかけていた。空が血のように赤くなった。私は立ち止まり、欄干にもたれた。死ぬほど疲れていた。フィヨルドと町の上に、火と血の舌のような雲がかかっていた。友人たちはそのまま歩き続けたが、私はそこに立ち、不安に震えていた。そして、自然を貫く永遠の大きな叫びを聴いたのだ」。
ここで「叫んでいる」のは、橋の上の人物ではありません。叫び声を上げているのは、自然そのもの、世界そのものなのです。橋の上の人物は、その耐えがたい自然の叫びを聞かないようにと、両手を必死で耳に押し当てています。ドイツ語版のタイトルが『Der Schrei der Natur(自然の叫び)』であったことも、この主題を端的に物語っています。2018年、ノルウェー、イギリス、アメリカの気象学者たちが共同で発表した論文の主著者アラン・ロボック(ラトガース大学)も、「叫んでいるのは空のほうであり、人物は耳をふさいで自然の叫びを遮ろうとしているのだ」と明言しています。
つまりこの絵には、二重の聴覚的構造が仕込まれています。世界が叫んでいる。そしてその叫びを聞き取ってしまった人物だけが、ひとり立ち止まり、震えながら耳をふさいでいる。背景の橋の奥に小さく描かれた二人の通行人は、その「自然の叫び」をまったく聞いていません。彼らは静かに、いつもどおりの歩調で去っていきます。19世紀末の近代都市を生きる人間にとって、自分にだけ聞こえてしまう不可解な声、自分にだけ揺らいで見える世界の輪郭——『叫び』はその精神的孤立を、わずか1メートルにも満たない厚紙のうえに圧縮した、近代絵画史上もっとも凝縮された一枚なのです。
ムンクの叫びの舞台は実在する──オスロ・エーケベルの丘
『叫び』の舞台は、空想の風景ではありません。20世紀後半以降のノルウェー研究によって、その場所は具体的に特定されています。当時の首都クリスチャニア(1925年にオスロへ改称)を見下ろす、市街南東のエーケベル(Ekeberg)の丘から、オスロ・フィヨルドとホヴェドオヤ島を望む小道が、その正確な舞台です。画面を斜めに切り裂く木製の欄干、消失点へ向かって伸びる道、その奥に小さく見える二つの人影——これらは、ムンクが1892年頃に夕暮れに散策した、実在の道筋にきわめて忠実に従っています。
同じ場所をムンクは、本作に先立つ1892年に『日没時の病める気分(Syk stemning ved solnedgang)』、続いて『絶望(Fortvilelse)』として、ほぼ同一の構図で繰り返し描いています。1893年の決定版『叫び』は、これら二つの先行作の延長線上に位置づけられる、いわば三度目の挑戦でした。最大の変化は中央の人物像です。1892年の絵では、欄干にもたれているのは明確に男性として描かれていました。それが1893年の決定版になると、肌の色、性別、年齢、人間性そのものが消去され、ほとんど胎児のような、あるいは骸骨のような、輪郭のあいまいな存在へと変質してしまいます。ムンクは、自分が体験したあの夕暮れの恐怖を、もはや特定の個人の体験としてではなく、「近代に生きる誰もが感じうる不安」へと普遍化しようとしたのです。
エーケベルの丘がもうひとつ重要な土地である理由は、当時この地区にオスロ市の食肉処理場と、市立の精神科医療施設の両方が立地していたという事実にあります。ムンクの最愛の妹ラウラは生涯にわたって深刻な精神疾患を抱え、この精神病院に長期入院していました。手記をたどると、ムンクはしばしばエーケベルの丘を歩いて妹を訪ねており、家畜の悲鳴と精神を病んだ人々の声が同時に響くこの土地そのものが、彼にとって生と死、理性と狂気の境界線として身体に刻みつけられていた可能性が高いと、北欧のムンク研究者たちは指摘しています。明るい行楽地ではありえなかったこの土地の精神的な含みが、画面全体に滲む不穏な空気と無関係であるはずがありません。
ムンクの叫びの赤い空──火山噴火説と真珠母雲説
ムンクの『叫び』を眺めるとき、誰もがまず釘付けになるのが、画面上部を覆う異様な赤と橙の空です。それは現実の夕焼けというよりも、誰かが画布を一気に切り裂いて炎を流し込んだような、明らかに「自然ではない自然」の色をしています。この異様な空がどこから来たのかをめぐっては、19世紀末以降、複数の説が積み重ねられてきました。とりわけ近年は、美術史と気象学が交差する刺激的な研究領域として、世界的な注目を集めています。
もっとも古典的な説が、1883年8月のクラカトア(クラカタウ)火山大噴火説です。インドネシア・スンダ海峡で起きたこの噴火は、人類が観測した史上最大級の火山爆発のひとつで、噴き上げられた成層圏のエアロゾルは地球全体を取り巻き、その後数年にわたり北半球各地で異常な真紅の夕焼けが観測されました。1883年12月、ノルウェーの新聞も、空が燃えるように赤く染まる現象を繰り返し報じています。当時20歳前後だったムンクは、青年期にこの現象を実際に目撃していた可能性が高く、その記憶が10年後の『叫び』の画面に蘇ったのではないかというのが、長らく定説とされてきました。
これに対し、2018年7月、アメリカ気象学会の学術誌『Bulletin of the American Meteorological Society』第99巻第7号に発表された、ラトガース大学のアラン・ロボック、オックスフォード大学のフレッド・プラタ、ロンドン大学のリチャード・ハンブリンによる論文「ムンク『叫び』の空(The Sky in Edvard Munch’s The Scream)」は、新たな仮説を提示して国際的な話題となりました。彼らが注目したのは、真珠母雲(しんじゅぼぐも、nacreous clouds、極成層圏雲)と呼ばれる、ごく稀にしか出現しない高層雲の存在です。極寒の冬季、高度15〜25キロメートルの成層圏で氷の結晶が虹色に輝く現象で、ノルウェー南部では冬の夕暮れにごく稀に観測されます。ロボックたちはムンク作品の色彩パターンを実際の真珠母雲の写真と比較し、クラカトアの夕焼けよりも真珠母雲のほうが、画面の波打つ模様と独特の色階に近いと結論づけました。論文では「ムンクの『叫び』は、真珠母雲の現存するもっとも早い視覚的記録の一例となる可能性がある」とまで踏み込んで指摘されています。
もっとも、この自然科学的解読には反論もあります。ノルウェー美術史家の多くは、ムンクが描いたのは特定の気象現象の正確な写しではなく、彼の精神状態そのものの視覚化だったと主張します。ムンク自身が「自然を貫く永遠の叫び」と書いたとき、その「自然」は外部の物理的自然と、内側で震える精神のリアリティの両方を意味していました。空、海、橋、人物——画面のあらゆる要素を貫く同じ波のうねりは、外の世界と内の世界の境界が崩壊し、両者が同一のリズムで揺さぶられていた瞬間の記録なのです。表現主義へと連なる20世紀絵画の核心的な発想が、ここですでに胚胎していたのでした。
エドヴァルド・ムンクはなぜ”不安”を描いたのか

エドヴァルド・ムンクは1863年12月12日、ノルウェー南部レーテンに、軍医クリスチャン・ムンクの次男として生まれました。父はきわめて敬虔で、しかし周期的な宗教的憂鬱に襲われる人物だったと伝えられています。母ラウラ・カトリーネは、エドヴァルドが5歳のときに結核で世を去り、その後、まだ若かった叔母カーレンが一家を支えました。さらに14歳のとき、最愛の姉ヨハンネ・ソフィエもまた、母と同じ結核によって15歳で命を落とします。妹ラウラは生涯を通じて精神疾患に苦しみ、長期にわたって施設で療養することになりました。父は子どもたちに対し、母の死後ますます厳格になり、地獄の恐怖と神の罰を繰り返し説いたといいます。
ムンクは晩年、自伝的メモのなかでこう書き残しています。「病、狂気、死。それは私の揺りかごの傍らに立っていた黒い天使たちであり、生涯私についてきた」。彼の代表作群を一覧してみれば、これが単なる文学的修辞ではないことが分かります。母の死を主題とした『死せる母と子』、姉ソフィエの死の場面を生涯にわたり繰り返し描き直した『病める子』、思春期の少女の不安を描いた『思春期』、生と死の境界に立つ『マドンナ』、嫉妬の煮え立つ感情を画面化した『嫉妬』、人と人とのあいだの孤独な距離を主題とした『キス』『不安』——どの作品も、感情そのものを画面の主題に据えるという、当時の西洋絵画にとって革命的な選択を共有しています。
ムンクは18歳でクリスチャニアの王立絵画学校に入学し、ノルウェー自然主義の重鎮クリスチャン・クローグや、19世紀末の反体制的な作家・思想家ハンス・イェーガーの「クリスチャニア・ボヘミアン」の輪に深く関わるなかで、自身の絵画の主題を形成していきました。1889年に最初の個展を開き、政府給費を得てパリへ留学、レオン・ボナのアトリエに通いつつ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックの作品に直接触れます。1892年から1908年までの長い時期を、ベルリンを中心とした中部ヨーロッパで過ごし、ストリンドベリ、プシビシェフスキ、リヒャルト・デーメルら世紀末の作家たちとの交流のなかで、自分の絵画的言語を鍛え上げていきました。19世紀までの西洋絵画が宗教、神話、歴史、美しい自然を主題としてきたのに対し、ムンクは人間の内側で起きる感情と心理そのものを、絵画の正面に据えた最初の画家のひとりだったのです。象徴主義から表現主義へと連なる世紀末から20世紀への大きな転回の、まさに分水嶺にこの画家は立っていました。
ムンクの叫びと表現主義──ドイツの若い画家たちへの衝撃
『叫び』が美術史において決定的に重要であるのは、それが20世紀の表現主義を10年以上先取りした作品だからです。表現主義とは、現実を正確に再現することよりも、感情や心理を直接画面に流し込もうとする芸術運動で、20世紀初頭のドイツで「ブリュッケ(橋)」「青騎士(デア・ブラウエ・ライター)」といったグループによって理論化されていきます。けれども、その理論が言葉になるはるか以前に、すでにムンクは『叫び』のなかで「絵画は感情そのものを描いてよい」という根本的な命題を、画面のうえで実演してみせていました。
人物の形を歪め、色彩を現実から引き剥がし、風景を揺らがせることで、ムンクは不安という感情を視覚的事実として定着させます。写実よりも精神表現を優先するこの態度は、西洋絵画にとってきわめて新しい選択でした。1892年11月、ムンクはベルリンのウンター・デン・リンデン画廊で開いた個展を、ドイツ画壇からの猛烈な反発のために、わずか数日でやむなく閉じることになります。この事件はベルリンの新聞紙上で「ムンク事件(Munch-Affäre)」として大々的に取り上げられ、結果としてベルリン分離派が結成される直接の引き金となりました。逆説的に、この拒絶は彼にドイツでの揺るぎない名声をもたらしたのです。1893年12月、『叫び』を含む新しい連作「愛(Studie für eine Serie: Die Liebe)」全六点を、ムンクは同じベルリンで再び発表します。この時の連作の最終作として置かれていたのが、ほかでもない『叫び』でした。当初のタイトルが『絶望(Fortvilelse)』だったというノルウェーの研究は、この作品が「愛」連作の最終地点として、嫉妬と孤独に蝕まれて自我そのものが崩壊する場面として構想されていたことを示しています。
ムンクは1892年から1908年までのほとんどをベルリンを拠点に過ごし、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、エミール・ノルデ、エーリッヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットルフら、のちのドイツ表現主義を担う若い画家たちに、直接的かつ深い影響を与えました。彼らはムンクの版画と油彩を通じて、感情を絵画に流し込むという発想そのものを学び取り、20世紀絵画を切り拓いていきます。ムンクは、世紀末絵画の到達点であると同時に、20世紀絵画の最初の一撃でもあったのです。西洋近代美術の流れの全体像は、世界の有名な絵画ランキング10選もあわせて参照してみてください。
橋の上の人物は誰か──性別も年齢も消された存在
『叫び』の中心にいるあの人物は、いったい誰なのでしょうか。画面のなかでもっとも有名なこの顔は、しかしよく見れば性別も年齢も明確には描かれていません。骸骨のようにも、胎児のようにも、両性具有の存在のようにも見えるこの顔は、現実の個人ではなく、ほとんど「不安そのものの肖像」と呼ぶべき抽象的存在へと変質しています。1893年版で性別の手がかりを意図的に消し去ったとき、ムンクは自画像を描くことを諦めたのではなく、むしろ「自画像という概念そのもの」を解体することを選んだのです。
この特異な顔の造形をめぐっては、いくつかの興味深い説が提示されています。もっとも有名なのは、ムンクが1889年のパリ万国博覧会、あるいは1885年の彼自身の初パリ訪問の際に、トロカデロ宮の人類学博物館で目にしたペルー先住民のミイラから強い印象を受けたという仮説です。膝を抱えるように丸まり、口を大きく開けたまま乾燥した褐色の頭部は、現在パリのケ・ブランリー美術館に所蔵されており、たしかに『叫び』の人物の姿勢と造形の双方に驚くほど共通する特徴を備えています。ポール・ゴーギャンもまた同じミイラから着想を得て複数の作品を制作しており、19世紀末の前衛画家たちにとって、このペルーのミイラは共有された視覚的引用源のひとつだったと考えられています。
もうひとつ重要なのが、画面奥の二人の人物の存在です。彼らは欄干に沿った道のずっと向こうで、手前の人物の苦悶にまったく気づくことなく、静かに歩を進めています。ムンクの手記にあった「友人たちはそのまま歩き続けたが、私はそこに立ち、不安に震えていた」という記述に、構図がそのまま対応しているのです。この対比こそ、『叫び』に近代特有の重い主題を持ち込んでいます。それは「群衆のなかの孤独」と呼ぶべき19世紀末の精神状態です。19世紀末ヨーロッパでは、産業革命と都市化が空前の規模で進み、人々はかつてないほど多くの他者に取り囲まれながら、その内側ではかつてないほど深く孤立していくという、奇妙な逆説のなかに置かれていきました。シャルル・ボードレールが「群衆」と呼び、ゲオルク・ジンメルが「神経過敏」と分析し、エミール・ゾラやアウグスト・ストリンドベリが文学のなかで描き出したこの新しい精神状況を、ムンクはわずか一枚の絵のなかへ凝縮してみせたのです。象徴主義と表現主義の両方に通じる近代精神の主題が、ここに静かに息づいています。

ムンクの叫びはなぜ世界一の名画になったのか
『叫び』が現代に至るまで世界中の人々を惹きつけ続けている第一の理由は、その感情表現の直接性にあります。宗教の知識も、神話の素養も、美術史の前提もなしに、人はこの絵を前にした瞬間、「不安」という感情そのものを、即座に身体で受け取ることができます。顔は歪み、世界は揺らぎ、空は燃えるように変形する——この単純で力強い視覚的構造は、現代人がスマートフォンの画面に貼り付いて感じているストレスや疎外感とも、深く呼応してしまうのです。
もうひとつの理由は、画面の単純化された形態が、近代以降のあらゆる視覚メディアに引用可能であったことです。アンディ・ウォーホルは1984年に『叫び』のシルクスクリーンによる再制作を試み、ポップアートの文脈でこのイメージを再生産しました。ウェス・クレイヴン監督の連作ホラー映画『スクリーム』(1996年〜)でゴーストフェイスが被るマスクは、ノルウェーの彫刻家ブライアン・ハードがエドヴァルド・ムンク『叫び』に直接インスピレーションを得てデザインしたものです。さらに2010年代以降、Unicodeの絵文字「Face Screaming in Fear(😱)」のモデルとして『叫び』の人物が採用されたことで、このイメージは事実上、世界で誰もが日常的に使う共通記号となりました。ノルウェー国立美術館自身が「『叫び』は独自の絵文字を獲得した数少ない芸術作品のひとつである」と公式に認めているほどです。
そして三つ目の理由が、20世紀以降の度重なる盗難事件によって、この絵が単なる芸術作品を超えた、世界的なニュースアイコンとなったことです。1994年2月12日、リレハンメル冬季オリンピックの開会式当日の早朝、何者かが梯子を使ってオスロ国立美術館の窓を破り、わずか50秒で『叫び』を持ち去るという事件が起きました。現場には「警備の杜撰さに感謝する」と書かれたメモが残されていたといいます。3か月後、警察のおとり捜査によって作品は無事に発見・回収されました。2004年8月22日には、ムンク美術館で1910年版『叫び』と『マドンナ』が、白昼堂々銃を持った2人組によって強奪されるという事件が起き、世界中のメディアが一斉に報じました。両作品は2006年8月に発見されましたが、軽微な損傷を被っていました。これらの劇的な事件は、『叫び』を単なる名画から、文化的アイコンとしての地位へ完全に押し上げたのです。
ムンクの叫び・全5バージョンと、120億円落札の衝撃
「『叫び』」は1点だけの作品ではありません。ムンクは1893年から1910年までのおよそ17年のあいだに、合計5つの異なるバージョンを制作しました。それぞれに微妙な表現の差異があり、ムンクが生涯にわたってこの主題を執拗に問い直し続けたことを物語っています。
第一の版は、本記事で中心的に扱ってきた1893年テンペラ・油彩・パステル・厚紙(91×73.5cm、ノルウェー国立美術館所蔵)です。同年12月のベルリン個展で『絶望(Fortvilelse)』連作の最終作として初公開された、もっとも有名な「決定版」です。第二の版は同じ1893年に制作されたパステル・厚紙(74×56cm、オスロのムンク美術館所蔵)で、決定版に先立つ準備習作と考えられています。第三の版は1895年制作のパステル・厚紙(79×59cm、個人蔵)で、額縁にムンク自身の手による短い詩が刻まれています。この第三版こそ、2012年5月2日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられ、当時のレートで約96億円(1億1,992万ドル)という、絵画落札の世界記録(当時)を打ち立てた一枚です。落札者はアメリカの金融家レオン・ブラックでした。第四の版は1910年頃のテンペラ・厚紙(83×66cm、ムンク美術館所蔵)で、ムンクが自作の主題を晩年に再制作した時期の作品にあたります。そして第五の版が、1895年制作のリトグラフです。白黒の版画として制作されたこの作品は、各国の雑誌や画集に複製を通じて広まり、ヨーロッパ全土にムンクの名を一気に行き渡らせた歴史的に決定的な一点でした。
もうひとつ、見過ごせない発見があります。2021年、ノルウェー国立美術館の保存修復チームが、1893年版の画面左上、上部の赤い帯状の雲のなかに、肉眼ではほとんど読めないほどの小さな鉛筆書きの文字が書き込まれていることを赤外線分析によって確定しました。文字には「狂人によってしか描けなかった!(Kan kun være malet af en gal Mand!)」と記されていました。長年この書き込みは、作品を見て憤慨した観客か悪戯者の落書きと考えられてきましたが、最新の筆跡分析の結果、これはムンク本人の手によるものであることが確認されたのです。ムンクが自分の作品に向けて投げかけたこの自嘲的な一句は、画家自身の精神疾患への恐れと、世間からの批判を先回りして引き受ける皮肉な防御の身振りとが、複雑に絡まり合った、まことに彼らしい告白だったといえるでしょう。
「生命のフリーズ」とムンク芸術の全体像
『叫び』は単独の傑作として独立して語られることが圧倒的に多いですが、ムンクの構想のなかでは、それはあくまで「生命のフリーズ(Livsfrisen)」と呼ばれる巨大な連作の一部分にすぎませんでした。「フリーズ」とはギリシア神殿の壁面装飾のように、長く連続する帯状の絵画群を意味する言葉で、ムンクは絵画一点一点を独立した完結体としてではなく、人間の生涯と感情の循環を表現する、ひとつの連なる物語として構想していたのです。
「生命のフリーズ」が公式に体系化されたのは、1902年のベルリン分離派展における大規模な集中展示の機会でした。連作は「愛の芽生え」「愛の開花と崩壊」「不安」「死」という四部構成にゆるやかにまとめられ、ムンクは生涯にわたってその構成を組み替え、再配置し、新しい作品を追加しては全体を磨き上げていきました。「不安」のセクションには『叫び』のほか、同じエーケベルの欄干を背景に群衆の不穏な気配を描いた『不安』(1894年)、橋の上を歩く赤いドレスの女と男たちの不気味な行列を描いた『桟橋の少女たち』(1899年)、深夜の月明かりに身を凍らせる少女を捉えた『思春期』(1894–95年)が含まれます。「愛」のセクションには『マドンナ』『キス』『嫉妬』『接吻III』が並び、「死」のセクションには姉ソフィエの臨終を主題とした『病める子』(1885–86年初版、生涯に6回再制作)、母の死を描いた『死せる母と子』、そして遺体の周囲で立ち尽くす家族を描いた『死の部屋』が配されました。
こうした連作の文脈のなかで眺めるとき、『叫び』の輪郭はずいぶん違って見えてきます。それは一瞬の恐怖の記録ではなく、ムンクが「人間の生涯」と呼ぶ大きな円環のなかで、もっとも振幅の大きな振動を視覚化した一作なのです。生まれ、愛し、嫉妬し、不安に陥り、病に倒れ、死を迎える——その円環のうえに『叫び』は、決定的な転回点として置かれていました。「ムンクの叫び」を真に理解するためには、この絵をたった一点の傑作として見るのではなく、ムンクという画家の生涯にわたる「精神の編年史」の一場面として受け取ることが必要なのです。
ムンクの叫びを日本で見るには──オスロ巡礼のすすめ
残念ながら、『叫び』のオリジナル全5バージョンは、海外への貸出をきわめて厳しく制限されており、日本で実物を目にする機会は通常ありません。ノルウェー国立美術館とムンク美術館の双方が、作品の脆弱な紙基底材と、過去の盗難・損傷の経緯から、原則として国外巡回を行わない方針を取っているためです。日本での過去の展覧会、たとえば2007年〜2008年に国立西洋美術館で開催された「ムンク展」、2018年に東京都美術館で開かれた「ムンク展――共鳴する魂の叫び」では、それぞれ別のバージョン(テンペラ・厚紙の1910年版)が来日し、長い行列が美術館を取り巻く光景が記憶に新しいところです。ムンクの主要作品をまとめて鑑賞したい場合、現状ではノルウェー・オスロを訪れるのが最善の道といえるでしょう。
オスロ訪問の際にはぜひ二館をはしごしてみてください。ノルウェー国立美術館(Nasjonalmuseet)には1893年の決定版『叫び』が常設展示されており、2022年に新館へ移転したことで、より広く明るい空間で鑑賞できるようになりました。ここでは『マドンナ』『生命の踊り』『病める子』なども同時に観ることができ、ムンクの世紀末作品群を一望できます。一方、フィヨルド沿いの新しいウォーターフロント地区に2021年にオープンした新ムンク美術館(MUNCH)には、1893年パステル版、1910年テンペラ版、そして1895年リトグラフ版という、なんと三つの『叫び』バージョンが揃って収蔵されています。光による紙基底材の劣化を防ぐため、三つの版は同時には展示されず、決まった時間ごとに展示室の三連扉が開閉して一点ずつ交替で公開されるという、世界でもここだけの劇場的な展示方法が採用されています。世紀末から20世紀美術にかけての他のヨーロッパの美術館を巡るなら、世界三大美術館とはもぜひあわせてご覧ください。
ムンクは1944年1月23日、80歳でオスロ郊外エケリーの自宅で亡くなりました。生涯独身で子も持たなかった彼は、生前にすべての所蔵作品(油彩約1,150点、版画約18,000点、素描約7,700点)をオスロ市に寄贈し、それが現在のムンク美術館の核となっています。一人の画家がこれほど膨大な作品を一都市に集中させた例は、20世紀美術のなかでも他に類を見ません。「ムンクの叫び」というイメージが世界中のいかなる場所でも認識される今日においてなお、その物理的な実物にもっとも厚く出会える場所は、画家自身が選んだオスロのフィヨルド沿いの一角なのです。
まとめ──ムンクの叫びは“不安そのもの”を描いた近代絵画の到達点
『叫び』は、エドヴァルド・ムンクが1893年に世に送り出した、世界でもっとも有名な絵画のひとつであり、世紀末から20世紀美術への転回点に立つ、絵画史上の決定的な一作です。血のように燃える空、うねる風景、橋の上で耳を押さえる骸骨のような人物——そのすべては現実の客観的描写ではなく、ムンクの内側で震えた不安によって変形した「精神の風景」として、画面のうえへと運ばれてきました。
ムンクは、それまで西洋絵画が触れてこなかった人間の内面、感情、心理を、絵画の正面の主題として据えた最初の画家のひとりでした。クリスチャニア郊外エーケベルの丘で、ある夕暮れに目撃した血のような空と、自然を貫く永遠の叫び。彼はこの一瞬の精神的体験を、1892年の『日没時の病める気分』から1910年の最後の油彩版まで、生涯にわたっておよそ5つのバージョンとして繰り返し描き直しました。そしてその過程で、ノルウェー国立美術館版の画面左上に、ほとんど見えない鉛筆書きで「狂人によってしか描けなかった!」という自嘲的な囁きをひそかに残していたのです。
『叫び』とは、叫んでいる人物の肖像ではありません。それは世界そのものが叫んでいるように感じられた一瞬の、精神と自然の共振の記録なのです。そこには、19世紀末ヨーロッパの都市化と群衆社会、自然科学と精神医学の交差、世紀末絵画の象徴主義と20世紀の表現主義の接続点が、すべて凝縮して刻み込まれています。「ムンクの叫び」というありふれた呼び名のなかには、近代を生きるすべての人間の精神風景が、いまも静かに脈打っているのです。130年経ったいま、私たちはようやくこの絵に追いついたのかもしれません。あるいは、追いつこうとしながら、まだその波打つ空の下で立ち止まっているだけなのかもしれません。
ムンク『叫び』についてよくある質問
ムンクの『叫び』とはどんな絵ですか?
ムンクの『叫び』は、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクが、不安、恐怖、孤独といった内面の感覚を強烈な色彩と歪んだ風景で表した代表作です。人物が叫んでいる絵というより、世界全体が不安に震えているように見える点が大きな特徴です。
『叫び』を描いた画家は誰ですか?
『叫び』を描いた画家は、エドヴァルド・ムンクです。ムンクは象徴主義や表現主義につながる重要な画家で、人間の不安、愛、死、孤独を繰り返し描きました。
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