美術品寄付と名誉――欧米における600年の慈善史と、日本の収集伝統

ニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れた人は、必ず気づくはずである。展示室の入口、壁面、彫刻台座のそばに、寄贈者の名前が静かに、しかし誇らしげに刻まれている。「ロバート・レーマン・コレクション」「マイケル・C・ロックフェラー・ウィング」「アネンバーグ・コレクション」――。1点の絵画にも「from the collection of…」と必ず添えられる。これはアメリカの美術館の流儀であって、ヨーロッパの主要館でも程度の差はあれ同じ光景が見られる。寄贈者の名前は単なる謝意の表示を超えて、美術館そのものの構造の一部となっている。

日本で育った人間にとって、この感覚は実感しにくい。「目立つことをするのは はしたない」「陰徳を積むのが美徳」という価値観のなかで暮らしてきた私たちは、自分の名前を美術館の壁に刻ませることに、どこか抵抗を覚える。だが欧米では、それは恥ではなく、誇りである。さらに進んで言えば、寄贈者の名前を建物に刻むことは、欧米社会の「富と社会的名誉」のあいだに長い時間をかけて築かれてきた契約のかたちなのである。

では、いつ、どこで、なぜそのような契約が生まれたのか。本稿はその600年の歴史をたどる。同時に、日本にもまた独自の収集と寄贈の伝統があったこと、そして名誉のかたちが文化によってどう違うのかを並べて考える。

富者の責務――ノブレス・オブリージュの系譜

欧米における「富者は社会に還元する義務を負う」という考え方の起源は、中世フランスのフランス語表現「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」にさかのぼる。文字通りには「貴族の身分は、義務を負わせる」という意味である。これは8世紀のカロリング朝フランスに端を発する封建社会の社会契約に根ざしている。領主は領民から労働と兵役を受け取るかわりに、領民の生活と安全に対して庇護を施す道徳的義務を負った。「身分とは特権ではなく責任である」という観念が、封建ヨーロッパの長い歴史を通じて貴族層に内面化された。

この観念は中世の宗教倫理によってさらに補強された。中世カトリックの教えでは、富者は神から財産を「預かっている」存在であり、貧者への施しと教会への寄進を通じて救済の道を開かなければならない。フィレンツェの大商人コジモ・デ・メディチ(1389–1464)が、サン・マルコ修道院の改築費を全額負担し、フィリッポ・ブルネレスキにサン・ロレンツォ聖堂の建設を依頼したのは、単なる虚栄からではなかった。彼は修道院の僧侶に「私の罪を許してください」と書き送っており、芸術への巨額の支出は煉獄での滞在を短くする「敬虔な業」と理解されていた。

同時にメディチは、フィレンツェという都市国家への奉仕という別の動機にも動かされていた。ペトラルカ以来の人文主義は、古代ローマの「都市市民としての徳」を理想化し、富者は私的趣味のためではなく、生まれ育った都市の栄光のために富を用いるべきだと教えた。これが後に「市民人文主義(civic humanism)」と呼ばれる思想である。芸術発注は、信仰の業であると同時に、都市への奉仕でもあり、そして自分の家系の名誉を後世に残す行為でもあった。三つの動機が分離不可能なまま一つの行動になっていた点に、ルネサンスのパトロネージの特異性がある。

アメリカで生まれた「世俗の慈善宗教」――富の福音

欧米における美術品寄付の文化を決定的に近代化したのは、19世紀末から20世紀初頭のアメリカである。鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは、1889年6月に雑誌「ノース・アメリカン・レビュー」に「富」と題する論文を発表した。後に『富の福音(The Gospel of Wealth)』として知られるこの論文で、カーネギーは明快に主張した――富者は生涯のうちに自らの財産を公共のために使い切る道徳的義務を負い、それを怠った者は「悲しまれず、称えられず、歌われぬまま」死ぬ。「富のうちに死ぬ者は、不名誉のうちに死ぬ」という有名な一文が、ここに刻まれている。

アンドリュー・カーネギー 1913年撮影
アンドリュー・カーネギー 1913年撮影

彼自身、1919年の死までに約3億5,000万ドル(現代の物価水準では1兆円規模)を寄付し、世界各地に2,509のカーネギー図書館、複数の大学、ピッツバーグの美術館・博物館・コンサートホールを設立した。同じ世代の銀行家ジョン・D・ロックフェラー、銀行家アンドリュー・W・メロン、コークス王ヘンリー・クレイ・フリック、銀行家J・P・モルガンらは、いずれもこの倫理を共有していた。彼らに共通していたのは、プロテスタント、とりわけピューリタン・カルヴァン派の「天職」観念――神から授かった才能で得た富は神への奉仕として社会に還元しなければならない――であった。社会学者マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で論じた、その同じ倫理である。

カーネギーが行ったのは、中世的なノブレス・オブリージュを世俗的・公共的な言語に翻訳することであった。神の救済ではなく、共和国の市民としての名誉。教会への寄進ではなく、公共図書館・大学・美術館への寄付。同じ構造を持つ別の宗教が、ここに生まれた。アメリカでは現在もこの倫理が生き続けており、2010年にビル・ゲイツとウォーレン・バフェットが立ち上げた「ギビング・プレッジ(生涯にわたって財産の過半を慈善に拠出することを誓う富豪のネットワーク)」は、その直接の後継である。

壁面に刻まれた名前――フリック、メロン、レーマンの場合

美術品寄付に対する名誉の与え方として、もっとも目に見える形が「壁面の命名」である。具体例を三つ見れば、この文化の構造がよく分かる。

フリック・コレクション/ヘンリー・クレイ・フリック(1849–1919)

第一の例はヘンリー・クレイ・フリック(1849–1919)である。ペンシルベニア州出身のコークス・鉄鋼王であり、カーネギーの盟友でもあった彼は、ニューヨーク五番街70丁目に1914年完成のインディアナ石灰岩の豪邸を建てた。設計はトマス・ヘイスティングス。フリックは生前から、この邸宅を死後に「美術の研究を奨励し、関連分野の一般的知識を促進する公開ギャラリー」とすることを遺言で定めていた。1919年の死後、邸宅と131点の絵画、彫刻、装飾美術品はすべて公益財団に寄贈され、さらに維持費として1,500万ドル(現代換算で約350億円相当)の運用基金が設定された。1935年に「フリック・コレクション」として一般公開されて以来、世界有数の老舗美術館として認知されている。建物そのものが寄贈者の家であり、コレクションが寄贈者の趣味であり、館の名前が寄贈者の姓である。これ以上明快な「名前を残すこと」の制度化はない。

ヘンリー・クレイ・フリックの肖像
ヘンリー・クレイ・フリックの肖像

ナショナル・ギャラリー(国立美術館)/アンドリュー・W・メロン(1855–1937)

第二の例はアンドリュー・W・メロン(1855–1937)である。ピッツバーグの銀行家で、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ローズベルトの4代の大統領のもとで1921年から1932年まで財務長官を務めた。彼は1936年12月、ローズベルト大統領に手紙を送り、自らの美術コレクション全点と、ワシントンDCに新設する国立美術館の建設費・運営基金のすべてを国家に寄贈する意向を表明した。これは合衆国政府が受け取った史上最大級の私的寄贈であった。1937年3月の連邦議会合同決議によって受贈が承認され、1941年にナショナル・ギャラリーが開館した。メロンの寄贈は126点の絵画と26点の彫刻にすぎなかったが、彼の遺志には重要な仕掛けがあった――館の名前を「メロン・ギャラリー」ではなく「ナショナル・ギャラリー(国立美術館)」とすることである。自分の名前を消すことによって、他の富豪が「自分も寄贈すれば」と参加できる場を作った。実際、サミュエル・H・クレス、ジョーゼフ・ワイドナー、レッシング・ローゼンウォルドらが続々と巨額の寄贈を行い、現在の世界水準のコレクションが形成された。メロンの名は館の建物には付かなかったが、館の創設記録の冒頭に永遠に刻まれている。「自分の名を消すこと」もまた一つの名誉のかたちなのである。

アンドリュー・W・メロンの肖像
アンドリュー・W・メロンの肖像

メトロポリタン美術館「ロバート・レーマン・ウィング(コレクション)」/ロバート・レーマン(1891–1969)

第三の例はロバート・レーマン(1891–1969)である。リーマン・ブラザーズの相続人で、メトロポリタン美術館の理事を務めた彼は、1969年の死に際して約2,600点の美術品をメトロポリタンに遺贈した。ただし遺言には一つの条件があった――コレクションを散らさず、専用の翼を新設して、レーマン家の自宅の雰囲気を再現する形でまとめて展示すること。1975年5月、メトロポリタン本館の西側に「ロバート・レーマン・ウィング(コレクション)」が完成、ガラスのドームに覆われた中央展示室を取り囲むように、レーマン邸の各部屋を再現したギャラリーが配置された。家のかたちをした寄贈、というべき展示形式である。生前の住居と美術品とが、寄贈者の名前のもとに一体として永続化される。

『食堂』 ポール・シニャック 1886年頃 紙にインク メトロポリタン美術館ロバート・レーマン・コレクション
『食堂』 ポール・シニャック 1886年頃 紙にインク メトロポリタン美術館ロバート・レーマン・コレクション

名前のすべてが売られる時代――ネーミングライツの体系化

20世紀後半、こうした「翼」「展示室」レベルの命名は、より細分化された形に発展した。現代の主要美術館では、寄贈金額に応じて、翼(数千万から1億ドル級)、展示室(数百万ドル級)、ロビーや階段(数十万ドル級)、彫刻台座、ベンチ、客席の椅子、さらには寄付者一覧プレート上の一行に至るまで、あらゆる単位で寄贈者名が刻まれる。アメリカの美術館の多くは「会員制度」も整備しており、年会費500ドルから10万ドル超まで何段階もの寄付者階層が用意され、それぞれに招待会・内覧会・キュレーターとの私的会食・名前の壁面掲載といった社会的特典がリンクされている。寄付は単なる慈善ではなく、社会的地位の表明手段にもなっている。

これは経済学者ソースタイン・ヴェブレンが1899年の『有閑階級の理論』で「顕示的消費(conspicuous consumption)」と呼んだ現象の、慈善版である。富者の富は、それが公共のために用いられ、しかも公共によって可視化されることで、社会的地位として承認される。フランス語の「ノブレス・オブリージュ」が中世封建社会で果たした機能を、現代アメリカでは美術館の命名権が果たしているといってよい。

名誉の影――サックラー事件と「名前の剥奪」

壁面に名前を刻むという慣行が、社会的名誉と表裏一体であることを最もよく示したのが、2010年代後半のサックラー家をめぐる事件である。サックラー家は20世紀後半、メトロポリタン美術館、ルーヴル、テート・ギャラリー、グッゲンハイム、大英博物館など、欧米のほぼすべての主要美術館に巨額の寄付を行い、数多くの翼・展示室・ギャラリーに自家の名前を刻んできた。1978年に開館したメトロポリタン美術館の「サックラー・ウィング」は、エジプトのデンドゥール神殿を収めることで知られる主要展示空間である。

ところが、サックラー家が経営するパーデュー・ファーマ社が販売した鎮痛剤オキシコンチンが、アメリカで20年間に40万人以上の死者を出したオピオイド危機の主因として批判されると、社会の評価は一変した。2019年、ルーヴルが他館に先駆けてサックラーの名前を看板から外した。テート・ギャラリーとグッゲンハイムが寄付の受け取りを停止し、2021年12月にはメトロポリタン美術館が、サックラー家との合意のうえで館内7か所の展示空間からサックラーの名を取り外すと発表した。デンドゥール神殿の展示空間は、現在ではただの「ギャラリー131」と表記されているにすぎない。

この事件は、「壁面に刻まれた名前」が単なる物理的銘板ではなく、社会的契約の表現であることを露わにした。寄付者は富を社会に還元するかわりに名誉を受け取る。社会はその寄付者が社会的に容認可能であるかぎりにおいて名誉を承認し続ける。容認可能性が失われれば、契約は解除され、名前は壁から消える。ルーヴルが内規で「命名権の有効期間は20年」と定めているのも、名誉が永続的な所有物ではなく、社会との継続的な契約であることを制度的に確認するためである。

日本における収集と寄贈の伝統――三井・大原・松方

では日本には、欧米のような「美術品寄付に伴う社会的名誉」の伝統はないのだろうか。結論を先に述べれば、日本にも独自の系譜は存在する。ただし、形と論理が欧米とは異なる。

『雪松図屏風』 円山応挙 江戸時代・18世紀後半 紙本金地墨画淡彩・六曲一双屏風 国宝 三井記念美術館所蔵
『雪松図屏風』 円山応挙 江戸時代・18世紀後半 紙本金地墨画淡彩・六曲一双屏風 国宝 三井記念美術館所蔵

三井記念美術館

日本の伝統的な富者層――旦那衆と呼ばれた江戸期の豪商、明治以降の財閥創業家――は、ヨーロッパの貴族や19世紀アメリカの実業家と並べても遜色のない規模で美術品の収集を行ってきた。たとえば三井家は、1673年の越後屋創業以来、十一の分家それぞれが茶道具を中心に美術品を蓄えていった。とりわけ享保から元文年間(18世紀前半)の営業収益が伸びた時期には、各家による名物道具の収集が盛んになった。

その蓄積を現在まとめて公開しているのが、東京・日本橋の三井記念美術館である。三井記念美術館の館蔵品は、北家(惣領家)から約1,900点、新町家から約1,050点、室町家から約700点の寄贈品などを中心に構成され、美術工芸品約4,000点、切手類約13万点を収蔵している。国宝6点、重要文化財75点、重要美術品4点を含む内容で、茶道具、絵画、書跡、刀剣、能面、能装束、調度品など多岐にわたる。つまりここでいう三井家の収集伝統とは、現在の三井記念美術館のコレクションとして結実している。

欧米の美術館のように、個人名を展示室の壁面に大きく刻む形式とは異なる。しかし「三井記念美術館」という館名そのものが、三井家全体の収集と寄贈を記憶する仕組みになっている。個人名を前面に出すのではなく、家の総体として美術品を伝える点に、日本的な名誉のかたちが表れている。

大原美術館

倉敷の大原孫三郎(1880–1943)は、もう一つの典型例である。倉敷紡績(クラボウ)の経営者であった彼は、洋画家児島虎次郎(1881–1929)の才能を支援し、1908年以降、三度にわたる児島の渡欧を全面的に資金援助した。児島はマティス、モネと直接会って作品を選定するなど、画家としての眼力でエル・グレコの『受胎告知』、ゴーギャン、モネの『睡蓮』、マティスといった世紀の名品を倉敷にもたらした。1929年に児島が48歳で急逝すると、孫三郎は親友の遺志を継ぐべく、翌1930年(昭和5年)に倉敷の地に大原美術館を設立した。日本初の西洋美術中心の私立美術館である。「広く社会に意義あること」を信条とした孫三郎は、岡山孤児院の支援、倉敷中央病院の設立、農業研究所の創設など、ほかにも数多くの社会事業を手がけた。その総体は、カーネギーやロックフェラーの慈善事業と比較しても規模・質ともに匹敵する。

『着物を着るベルギーの少女』 児島虎次郎 1911年 油彩 大原美術館所蔵
『着物を着るベルギーの少女』 児島虎次郎 1911年 油彩 大原美術館所蔵

国立西洋美術館

松方幸次郎(1866–1950)は、川崎造船所社長として第一次世界大戦中に巨万の富を築き、ロンドンとパリで膨大な西洋美術コレクション(通称「松方コレクション」)を形成した。ロダンの『地獄の門』、モネ、ゴーギャン、セザンヌといった印象派・後期印象派の主要作を含む数千点規模であった。第二次世界大戦中にフランスにあったコレクションは戦後接収されたが、1959年にフランス政府から日本政府に寄贈返還され、これを契機に同年に国立西洋美術館が東京・上野に開館した。寄贈の名誉は松方の名でも「松方記念美術館」でもなく、「国立西洋美術館」という公的名称で集約された。メロンがナショナル・ギャラリーで自分の名前を消したのと、よく似た決断である。

『ヴェトゥイユ』 クロード・モネ 1902年 油彩・キャンバス 国立西洋美術館所蔵 松方コレクション
『ヴェトゥイユ』 クロード・モネ 1902年 油彩・キャンバス 国立西洋美術館所蔵 松方コレクション

「家の蔵」と「壁の名前」――名誉のかたちの違い

『駿河町雪』 小林清親 1879年 木版画
『駿河町雪』 小林清親 1879年 木版画

こうして並べてみると、欧米と日本の違いは「寄付の有無」ではなく、「名誉のかたち」の違いであることが分かる。

欧米モデルでは、寄贈者は自分の名前を壁面に刻むことで、社会的な可視性と引き換えに公共のために富を還元する。慈善と名誉が直接結びつき、寄付者の家系が美術館とともに記憶される。フリック、メロン、レーマン、ロックフェラー、サックラー――いずれもこの構造のなかで名前を残した(あるいは剥奪された)。

日本モデルでは、寄贈者は集合的な「家」の名で記憶されるか、あるいは公的な機関名のなかに溶け込む。「三井家」「大原家」という家の総体が敬意の対象となり、個人の名前は前面に出ない。むしろ前面に出さないこと、目立たずに行うこと――いわゆる「陰徳」――が美徳とされてきた。江戸期の旦那衆が、自分の名を残さずに芝居小屋や神社の修復に金を出した伝統に、この感覚はつながっている。日本の慈善が「目立たないから少ない」のではなく、「目立たない形で行われてきた」ことに注意したい。

制度面でも違いがある。欧米諸国は美術品の寄付や物納に対して所得税・相続税の大幅な控除を制度化しており(フランスのダシオン、英国のアクセプタンス・イン・リュー、アメリカの寄付控除など)、寄付による名誉と税制優遇が二重に結びついている。日本にも2018年度税制改正で「特定の美術品についての相続税の納税猶予及び免除」(80%猶予)が導入され、文化庁認定の登録美術品制度を通じて美術品の長期寄託・公開を支援する仕組みは整備されている。だが日本の制度設計は、欧米のように「個人が市場の美術品を公的コレクションに移管する税制」ではなく、「指定された文化財を所有者のもとで保護し続けることに国費を投入する」発想を中心としている。1897年(明治30年)の古社寺保存法以来の、近代アジア最古の文化財保護法制を持つ国に蓄積された伝統である。

名誉のかたちも、それに対応して異なる。日本国家が文化貢献者に与える最高位の名誉は1937年制定の「文化勲章」、そして1955年制定の「重要無形文化財保持者(人間国宝)」制度であり、いずれも個人の業績を国家が直接顕彰する形をとる。アメリカ式の「壁面命名」とは方向が違うが、社会的に同等の威信を持つ別の名誉のかたちとして、日本社会のなかで機能してきた。

まとめ――名誉は文化の鏡である

美術品寄付に伴う社会的名誉は、欧米と日本でかたちを異にしながら、いずれも長い歴史の積み重ねの上に成り立っている。欧米では中世のノブレス・オブリージュからカーネギーの「富の福音」、現代のギビング・プレッジまで、富者は社会に対して可視的に還元する道徳的義務を負うという観念が、宗教改革・市民革命・産業革命を経て世俗化されながら継承されてきた。壁面に刻まれた名前は、その600年の系譜の最終形である。

日本では、家の総体としての収集と、目立たぬかたちでの公共への移管という、別の系譜が育ってきた。江戸期の旦那衆、明治の財閥創業家、戦後の松方幸次郎まで、規模も質も決して欧米に劣るものではない。違うのは「名前を残すかどうか」「どこに刻むか」という名誉の表現方法であって、富者が社会に対して負う責任の感覚そのものではない。

欧米の美術館を訪れて、壁面に刻まれた名前に違和感を覚えたとしても、それは恥ずべき感覚ではない。むしろ、二つの異なる名誉の文化を知ることで、自分自身が育った文化のかたちが見えてくる。富者が社会と取り結ぶ契約の形は、その文化の歴史の鏡である。

関連記事

参考

アメリカ

  • アンドリュー・カーネギー「富(Wealth)」、『ノース・アメリカン・レビュー』第148巻、1889年6月
  • ナショナル・ギャラリー・オブ・アート公式「Our History」「Benefactors」
  • フリック・コレクション公式「History of The Frick Collection」「Henry Clay Frick」
  • メトロポリタン美術館公式「The Robert Lehman Collection」
  • ロバート・レーマン財団公式資料
  • マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)
  • ソースタイン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(1899年)

サックラー事件関連

  • Museums Journal「Metropolitan Museum of Art drops Sackler name」(2021年12月)
  • Artnet News「In a Landmark Move, the Metropolitan Museum of Art Has Removed the Sackler Name From Its Walls」
  • AP通信「Louvre museum first to remove Sackler family name」(2019年7月)

ヨーロッパ

  • メアリー・ホリングスワース『ルネサンス・イタリアにおけるパトロネージ』(1994年)
  • ノブレス・オブリージュの語源・歴史についてはOxford English Dictionary、Larousseフランス語辞典

日本

  • 三井記念美術館公式「美術館概要」、公益財団法人三井文庫資料
  • 大原美術館公式「美術館の歴史」「大原孫三郎から現在まで」
  • 国立西洋美術館公式「松方コレクションについて」
  • 古社寺保存法(明治30年法律第49号)
  • 文化財保護法(昭和25年法律第214号)
  • 文化勲章令(昭和12年勅令第9号)
  • 国税庁「特定の美術品についての相続税の納税猶予及び免除のあらまし」(令和5年6月)

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