水墨山水図から聞こえる音―「余白」はムダじゃない!ドラッカーも愛した水墨画の世界/イチノセイモコのアートコラム05

「四季花鳥図」(右隻)相阿弥、16世紀初期 メトロポリタン美術館蔵

日々、時間の余裕をもてない現代に生きる皆々さま、お元気ですか? この辺りでちょっと水墨画でもながめて、いっしょに一息つきましょうよ。 
「水墨画って古くさいし、色もないのに見て面白いんだろうか? それに今、忙しいのに」って思ったでしょう?
あなたにとっての面白さってどういうものですか? 刺激的なこと? テンポの良い音楽に体を揺すること?
そういう面白さとは違うけど、水墨画を見ることには、あなたの中に何かがストンと落ちてくる愉快さがあるんですよ。

余白の時間=ムダ?

絵をじっと見ることは、静的な活動ですよね。日常で行っているアグレッシブな動きとは真逆。じゃあ、日常でじっとする時ってありますか?
多分ほとんどないでしょうけど、あったとしても今後のスケジュールやタスクのことを考えてるでしょう。だったら、それは「気持ちに余白がない」証拠です。

何もしない「余白の時間」をムダだと思っているとしたら、それはとても、もったいない。気持ちに余白があることで、生産性が向上するメリットが提唱されているのはご存じですよね。
「何もしないこと」が難しいのであれば、水墨画を見るといいですよ。人間は他の動物と違い、絵の世界に没入し、その中で自由に精神を遊ばせることができるんです。

墨色は五色を兼ねる

天橋立図 雪舟

水墨画は、墨一色で描かれた世界。絵具で着色されてはいませんが、中国では古代、「墨は五色を兼ねるようだ」と言われました(張彦遠『歴代名画記』巻9)。
五色とは、白・赤・青・黄・黒。中国の陰陽五行説では、この五色が万物を構成する五行・時間・空間に対応しています。黒一色といっても、墨で表現された世界にはもっと深い奥行きをみることができるのです。

水墨画はうつり変わる自然現象を描いている

水墨の表現には、水を含むことで墨をにじませる「ぼかし」の技法があります。
ぼかしによって、しっかりとした形ではなく、大気や雲などのかたちが曖昧なものを描くことができます。大気の湿った感じや風の動き、自然光の明暗を表すことができるため、とくに山水図には、ぼかしの表現をもちいて時間や天気、季節のうつり変わりが示されていることも少なくありません。

山水図(通称破墨山水図) 雪舟

自然を知覚させる余白

いろいろな水墨画がありますが、余白の多い絵からは、絵画の中の音まで聞こえてきます。
例えば、有名なのは長谷川等伯筆「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)。靄にけぶる松林を描いた作品で、墨の濃淡によって描かれた松が手前にあるのか、奥にあるのか、位置関係がはっきりとわかります。淡い墨で描かれた松は、濃い靄に隠れて見えにくくなっていることを表しています。
余白が多いことから、靄がかなり濃いか、松がまばらに生えているのかなど、想像を膨らませることができます。

さて、その水墨で表現された世界からは、どんな音が聞こえますか?
鳥のさえずりですか? 滝が流れる音ですか? 遠くからですか、近くからですか?

匂いはどうでしょうか。
雨上がりの土の匂い、大きく息を吸って取り入れた空気の湿った感じ、獣の匂い。

朝日が差してきて、少し暖かく感じていますか? それとも凍えるような月明かりに照らされた深夜でしょうか。

これらの五感を総合すると、あなたは目の前の水墨画によって誘われている場所がどのような場所であるか、はっきりと心の中に描けるようになったことでしょう。

いかがだったでしょうか。水墨画をみるだけで、こんなにも多様な感覚に集中することができ、ふしぎと満足感があったのではないでしょうか。

水墨画とマインドフルネス

実は、水墨画を見て、その世界に入り込むことは、五感をフルに研ぎ澄ませ、ただ目の前のことに集中する「マインドフルネス」のような状態に近いといえます。

水墨画の余白は、描かれた紙や絹のうえで単なる余白にすぎません。しかし、人間はその余白に、これまで知覚したことのある万物の営みを脳内で再生し、追体験することができるのです。水墨画を見ることは、人間世界の動静からしばし離れて、心を落ち着かせ、自然の中にいる感覚を思い起こし、自然と一体になる行為ともいえます。
その満足感は、絵画によって五感を刺激され、「絵を理解できた」「自然と一体になれた」という疑似的な納得からくるものでしょう。

もっと深めると、何も描かれていないところに「何か」を感じてしまう心の働きを疑い、人間社会における固定観念を取り払おうとする…。
こういった精神の集中や、哲学的な心の動きを生み出すところを、水墨画には「禅の境地」がある、という言葉で表したのかもしれません。

経済学者ドラッカーも愛した水墨画

「マネジメントの父」と称され、日本でも経営学の著作が紹介されたピーター・ドラッカー(1909~2005)は、とくに水墨画を気に入り、多くの作品をコレクションしたことが知られています。
彼は忙しい日々の中で「正気を取り戻し、世界への視野を正す」ために自宅に水墨画を飾ったそうです。

一息つきたいな、と思った時は、水墨画を見る「ムダ」な時間をもってみてください。きっと、その世界での遊びが、ざわついた心に余白をもたらしてくれますよ。

(ライター・イチノセイモコ)

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