「水底の歌」 梅原猛

柿本人麻呂繋がりで・・・・

今年91歳になられた梅原猛先生の約43年前の問題作、論文です。

人麻呂は一体誰なのか。
どのように死んだのか。
上下巻約800ページに渡って論じています。

人麻呂は、その生涯謎多き人でした。
宮廷歌人であり、それ相応の地位(朝臣)にも関わらず、亡くなった際には、「死」という言葉が使われており、この時代「死」が使われるのは六位以下であるから、下級官吏であろうという、あっちこっち旅が多いのは、赴任先だろう等、様々な憶測がされておりました。

万葉集第二巻は、人麻呂中心の編集となっており、人麻呂の亡くなる際の歌が、鴨山5首として学者たちの研究対象になってます。

人麻呂を論じた主な方は、江戸時代の国学者、賀茂真淵、真淵の解釈に影響を受けた斎藤茂吉ですが、若き梅原猛はこの二人の論を当著で快刀乱麻に切ってます。

まず茂吉の「鴨山考」をぶった切り。
茂吉は詩人としては情熱的で天の啓示を受けた創造性があったかもしれないが、こじ付けが過ぎると。人麻呂はそんな小役人じゃないし、また流行病の処理に行った先で感染して死んだというようなものではないと。

そして彼の結論を出します。
人麻呂は藤原不比等から疎まれ、もしくは謀反の疑いで死罪になったのだ。(水死?)
人麻呂が正史に登場する時の名は、柿本朝臣佐留である。

ー 人麻呂の亡くなった日は、なぜか秘する事。仮に3月18日とでも言っておこう、とされているが3月18日というのは、柳田国男によると精霊の日(怨霊の命日)である。望まぬ死を賜った人達の命日を、よく3月18日と言うことにしている。

ー 人麻呂は歌聖と言われているが、後に「聖」を付けられた人はロクな死に方をしていない。聖徳太子、菅原道真、世阿弥など。また全国にある柿本神社の存在。

ー 人麻呂臨終の歌 鴨山5首を挟んでいるのは、「水死」の歌。万葉集はかなり用意周到に、人麻呂の死の真相を示唆している。

ー 人麻呂が「水死」を詠んだ歌のうち、讃岐の島で見た水死体に関する挽歌は、とても他人事とは思えないほど。自分の運命を重ねていたのでは。

ー 人麻呂が石見から都に戻る際に詠んだ歌、妻との別れの歌は、ただ現地妻との別れを悲しんだ歌ではない。もっと悲壮感がある。

ー 人麻呂が主に活躍したときの持統天皇は、自分の血統に皇統を残すために皇子降臨の神話を作らせた。アマテラス=持統。しかし皇子である草壁が早々に亡くなってしまったので、慌てて天孫降臨の話にする。この話を作るブレーンの一人が人麻呂ではないか。

ー 謀反を起こした人を改名せしめて貶めるのは、中国の則天武后がやっていた手。持統は則天武后を参考にしていた気がある。人ではなくサルになった。

ー 本来は、高い身分であった人が、謀反のために処刑された際には、「死」という言葉が使われるので、もともとの身分が六位以下とは限らない。

ー 鴨山5首の中の妻の嘆きの歌には、「石川の貝に交じりて」とあり、これは空っぽになった貝に相塗れているイメージ。また5首のうち、いわば匿名の1首があり、そこにも「荒波に寄りくる玉を枕に置き」とあり、これも水死のイメージ。これは名を明かせない誰か近しい人が、本当の人麻呂の死はこんなだったのだと示唆しているのではないだろうか。

等々。もっと反証があったと思いますが、今覚えているのはこれ位です。

何しろ若き梅原猛ですので、論説は情熱的で鮮やかで、しかし、そうありつつも(読者の理解に合わせて)行きつ戻りつしながら、次第に真相を解き明かしていくミステリーのような仕立てになっています。

最後に、人麻呂の歌で私が好きな作品を

(槇冬菫 2011年 書)

天の海 
雲の波立ち 
月の舟 
星の林に 
漕ぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂 巻7・1068)

やはり歌聖です。
めっちゃロマンチックな詩です。

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